幕間の十二・振り向いて探させるな──風脈の崖で
>塔の外壁に沿った古い足場が崩れかけ、風脈の乱れとミルバの暴走が重なり、命綱のない危機が迫る。
仲間を救うために飛び込むガサンと、必死に耐えるタリス。
その狭間で交わされた言葉は、ただの叱責ではなく、生き残るための命令だった。
足場が、嫌な音を立てた。
塔の外壁に沿って組まれた古い整備足場は、もともと人が数人乗る程度しか想定されていない。
そこへ、低空まで降りてきたミルバの風圧がまともにぶつかり、木板と金具が一斉にきしんだ。
「下がれって言っただろ!」
ガサンの怒声が飛ぶ。
だが、その声が届くより早く、タリスは崩れかけた手すりを蹴って前へ出ていた。視線の先には、半壊した見張り棚にしがみついた島民の男がいる。
そのさらに上では、辛みを仕込まれたベリド果を誤って飲み込んだミルバが、喉を焼かれた怒りのまま、狂ったように旋回していた。
「今やらなきゃ、あのバカ落ちるぞ!」
タリスが叫ぶ。
炎剣が唸り、風を切る。だがそれは、ミルバを退かせるには半歩早すぎた。
甲高い鳴き声が、空を裂いた。
次の瞬間、巨翼が翻る。
塔の外壁に沿って走っていた風脈が、いきなり逆巻いた。ミルバは真上へ逃げるのではなく、外壁すれすれを掠めるように滑り込み、そのまま翼端で足場の外縁を叩いた。
板が割れる。
金具が外れる。
「っ!」
タリスの足元が、一気に消えた。
崩れた足場ごと身体が外へ流れ、炎剣を咄嗟に突き立てたものの、刃が噛んだのは外壁から突き出た細い梁だけだった。鈍い火花が散る。ぶら下がったまま、足の下には何十メートルもの空間と、岩肌を削る乱流だけが広がっていた。
「タリス!」
ガサンが駆ける。
「来るな!」
返ってきた声は怒鳴りだった。
だが、さっきまでの反抗心とは違っていた。腕はもう限界に近い。梁へ引っかかった炎剣の柄を通して、痺れが肩まで這い上がっている。ミルバはまだ上で旋回している。今この場所へさらに一人寄れば、残っている支柱ごとまとめて持っていかれる。
タリスは歯を食いしばった。
落ちたくない。
死にたくない。
だが、それ以上に、ここで加桑まで巻き込むわけにはいかなかった。
「戻れ、隊長……!」
ガサンは止まらない。
外壁へ片手をかけ、滑る石を蹴りながら高度を詰める。風は強い。しかもミルバが怒っているせいで、流れが読みにくい。それでも視線だけはぶれなかった。
「黙って掴まってろ!」
「来んなって言ってんだよ!」
梁が、またきしむ。
タリスの腕が大きく震えた。
その瞬間、不意に脳裏へ小さな手が浮かぶ。眠たそうな目で服の裾を掴んでくる、あの子の顔。帰りが遅いとふてくされるくせに、眠くなると結局膝へ乗ってくる、まだあどけない重み。
喉が焼ける。
息が詰まる。
「……あいつ、まだ小せぇんだよ」
それは、誰に向けたともつかない声だった。
風に千切れそうなほど小さいのに、ガサンの耳にははっきり届いた。
次の瞬間、ガサンは外壁の継ぎ目へ短く掌を押し当てた。足元にまとわりついていた水気が薄く広がり、その上を滑るように風が走る。ほんの一瞬だけ、乱れていた気流の中に“踏める”線が生まれた。
ガサンはそこへ迷わず飛び込む。
「っ、お前——」
タリスが目を見開く。
ガサンの左手が、空中で梁ごと炎剣を握り込んでいたタリスの手首を掴んだ。
衝撃で肩が抜けそうになる。
だが、放さない。
塔の外壁へ身体を叩きつけるようにして勢いを殺し、もう片方の手で外壁の継ぎ目を掴み直す。足場はない。支えるのは腕力と、わずかに流し込んだ水風の補助だけだった。
「離せ!」
タリスが吠える。
「このままじゃ、お前まで——」
「ふざけるな」
ガサンの声は低かった。
だが、その低さの奥にあったものは、怒りというより命令だった。
「勝手に終わるな」
タリスの息が止まる。
ミルバが、また鳴いた。
上空で翼が返り、次の俯冲へ入ろうとしている。もう時間はない。
ガサンは歯を食いしばり、腕に残っていた力を全部使ってタリスを引き上げた。タリスもそこでようやく我に返り、炎剣を梁から引き抜くと、残った手で外壁を掴む。二人の身体が岩壁へ擦れ、石片がぱらぱらと落ちる。
次の瞬間、ミルバの風圧がすぐ横を薙いだ。
さっきまで二人がいた空間を、狂った風が丸ごと抉っていく。
あと一拍遅れていたら、終わっていた。
ガサンはタリスの襟元を掴んだまま、半壊した整備台の内側へ身体ごと転がり込んだ。木片と砂埃が舞い、二人ともまともに受け身も取れずに床へ叩きつけられる。
しばらく、どちらも動けなかった。
荒い息だけが、狭い足場の上に重なる。
やがてガサンが先に起き上がり、まだ倒れたままのタリスを見下ろす。
「……俺に振り向いて探させるな」
声は冷たかった。
けれど、その手はまだタリスの腕を離していなかった。
タリスは何も言い返さなかった。
ただ、しばらく黙ったまま天井代わりの梁を見つめ、それからようやく、絞り出すみたいに息を吐いた。
男は柱にしがみついたまま、青ざめた顔で叫んだ。
「お、おい……まだかよ! いつまでかかるんだよ! 俺、死にたくねぇんだけど!」
タリスが振り返る。
その目には露骨な苛立ちが浮かんでいた。
「うるせぇな、黙ってろ!」
吐き捨てるように怒鳴ると、炎剣の切っ先で男の肩先を指した。
「いいからその見張り棚にしがみついとけ。手ぇ離したら、今度こそ終わりだぞ」
男はひっと息を呑み、慌てて両腕に力を込めた。
その間にも、上空ではミルバが喉を震わせ、不規則な軌道で風を裂いている。怒っているというより、喉の痛みと乱れた飛行で苛立ちきっているような動きだった。
ガサンはその軌道を見上げ、短く息を吐く。
「タリス」
「……なんだよ」
「斬るな。あれは敵じゃない。痛みで暴れてるだけだ」
タリスの眉が寄る。
「じゃあ、どうすんだよ。このままじゃ、また突っ込んでくるぞ」
ガサンはすでに外壁と風の流れを見ていた。
「俺が風を整える。お前は下から火を見せるな。刺激したら余計に荒れる」
「火なしで止めろってのか?」
「止めるんじゃない。飛ぶ線を戻す」
ガサンは崩れた足場の縁へ半歩出る。
「喉を焼かれてる。あいつは今、獲物を見てるんじゃない。痛みから逃げようとして、飛び方ごと乱してるだけだ」
タリスは舌打ちした。
まだ完全に納得したわけじゃない。だが、ガサンの目がもう答えを決めていると分かると、それ以上は言わなかった。
「……で、俺は何を合わせりゃいい」
「ミルバが次に降りる瞬間、俺が水気を上へ流す。その一拍だけ、あいつの正面じゃなく横を切れ」
「牽制か」
「違う。目を外させるだけだ。脅すな。追うな。飛ぶ先を高い方へ逃がす」
タリスはそこでようやく、少しだけ目の色を変えた。
それは戦い方を変える時の顔だった。
「……面倒くせぇな、新隊長」
「黙って合わせろ」
「はいはい」
軽口の形だけは崩さず、タリスは炎剣を低く構え直した。
ガサンはミルバを見上げたまま、最後に低く言う。
「いいか、タリス。落ち着かせる。殺すな」
その一言だけは、命令として鋭く落ちた。
ミルバが、また鳴いた。
喉の奥を引き裂くような高い声だった。怒りの色は強い。だが、その軌道は明らかにおかしい。空へ抜けるはずの上昇が途中で乱れ、翼の返しもわずかに遅れている。痛みに意識を持っていかれ、風の層を正しく掴めていないのだ。
ガサンは外壁へ片手をついた。
石にまとわりついていた湿り気が、指先を起点に薄く広がる。そこへ風を重ねる。押し上げるのではない。散らさず、崩さず、ミルバが本来通るべき高い風路へと戻すための、細い流れを一本だけ通す。
「来るぞ」
その声と同時に、ミルバの巨体が斜め上から落ちてきた。
だが、さっきまでとは違う。
獲物へ一直線に刺さる軌道ではない。喉の痛みを振り払うように首を振りながら、それでも本能でより安定した風を探している。ガサンはその一瞬を逃さず、掌を返した。
薄い水気が、塔の外壁に沿ってふわりと立ち上がる。
冷たい。
だが、強くはない。
刺激を消すためだけの、柔らかな湿り気だった。
ミルバの翼がその流れに触れる。
ほんのわずかに、軌道がずれた。
「タリス、今だ!」
「おおっ!」
タリスが走る。
炎剣は振り上げない。低く、横に構えたまま、崩れた足場の外縁を蹴って一気に回り込む。狙うのは首でも翼でもない。ミルバの視界の端、その飛行線の外側だ。
炎剣が短く閃く。
斬るためじゃない。
火の赤を一瞬だけ横へ走らせ、そちらに意識をずらすための牽制だった。
ミルバが反射的に目線を外す。
その瞬間、ガサンが通した水風の線が、正面ではなく上方へ抜ける道として繋がった。
ミルバの巨体が大きくぶれる。
俯冲ではない。
逃げるように、だが確かに高い方へ軌道を修正し始めた。
「そのまま追うな!」
ガサンの命令が飛ぶ。
タリスは踏み込みかけた足を止め、舌打ちしながらも炎剣を引いた。
「分かってるよ!」
ミルバは塔の外壁すれすれを掠め、苦しげに喉を震わせながら上空へ抜ける。まだ完全には落ち着いていない。だが、さっきまでみたいに人へ噛みつく軌道ではなくなっていた。
ガサンは息を整えながら、背中越しに柱へしがみつく男へ言った。
「おい、ベリド果だ。無事なやつは残ってるか」
男は青ざめたまま何度も頷いた。
「の、残ってる……袋ごと、上の棚に……」
「取れるか」
「む、無理だ! 落ちる!」
「なら場所だけ言え!」
男が震える指で半壊した見張り棚の脇を指す。
ガサンは一度だけそこを見上げ、それから短く言った。
「タリス、取ってこい。火は使うな。脅かすなよ」
「人使い荒ぇな、新隊長」
「文句は後で聞く」
「はいはい」
そう言いながらも、タリスはもう動いていた。崩れた手すりを足場にして半壊した棚へ跳び移り、散らばった木箱の陰から果実袋を引っ張り出す。中身を確かめると、辛味の仕込まれていないベリド果がまだいくつも残っていた。
その間にも、上空でミルバが大きく旋回する。
完全には静まっていない。喉の痛みはまだ残っているのだろう。だが、さっきほどの無茶な降下はしない。ガサンが通した水風の流れを、まだ半信半疑ながら掴み始めていた。
「投げるぞ!」
タリスが叫ぶ。
「正面にやるな。高く、流れの先へ」
「注文多いんだよ!」
ぼやきながらも、タリスは指示通りに果実をひとつ高く放った。ミルバの真正面ではなく、ガサンが整えた風の先へ預けるように投げる。
ベリド果は風に乗る。
少し流され、それから緩く弧を描いて、ミルバの進路の先へ浮いた。
ミルバの頭が動く。
鋭い目が、一瞬だけその果実を追った。
次の瞬間、巨翼が返る。
さっきまでのような苛立ち任せの切り返しではない。少しだけ滑らかさを取り戻した動きで、ミルバはその果実の方へ流れ、嘴を伸ばして空中で咥えた。
タリスが息を呑む。
「……食った」
ガサンはまだ目を逸らさない。
「次だ。間を空けるな」
タリスはもう一つ、今度は少し高く放る。
ミルバは二つ目も追った。喉が痛むのか、すぐには飲み込まない。それでもクチバシの先で転がし、やがて大きく首を振ってから空へ抜けていく。
旋回の半径が、少し広くなった。
俯冲の角度も、もう人へ向いていない。
塔の外壁をかすめていた風圧が、ゆっくりと高い方へ戻っていく。
ガサンはそこでようやく肩の力を少しだけ抜いた。
「……下がったな」
タリスも炎剣を下ろし、空を見上げる。
ミルバはなおも喉を気にするように二、三度低く鳴いたあと、最後に一度だけ塔の方を睨むように旋回し、そのままさらに高い風層へ乗っていった。
もう戻ってこない。
少なくとも、今すぐには。
しばらくして、上空から羽ばたきの音が完全に遠ざかる。
塔の外に残ったのは、乱れた風と、崩れた足場と、三人分の荒い呼吸だけだった。
男はその場にへたり込み、震えた声で何か言いかけた。
だが、その前にタリスが鋭く睨み返す。
「次にベリド果へ変なもん仕込んだら、今度は俺がぶん殴る」
男は青ざめたまま何度も頷いた。
ガサンは何も言わず、ただ崩れた足場の先を見上げていた。
そこに、さっきまで死に損ないみたいに暴れていたミルバの影は、もうなかった。
帰り道、風はもうすっかり落ち着いていた。
さっきまで命を削るみたいに荒れていた空が嘘みたいに静かで、崩れた見張り棚も、砕けた足場も、振り返ればただの出来事みたいに遠ざかっていく。
タリスは肩にまだ疲れを残したまま、それでも妙に機嫌よく歩いていた。
「アハハハハーーまさか、お前みたいな若造が……あー……いや、違うな」
そこでわざとらしく咳払いをひとつ入れる。
「若い隊長殿が、あそこまでやるとは思わなかったぜ」
ガサンは横目でちらりと見る。
「褒めてるのか、それ」
「褒めてんだよ。聞き取りづれぇな」
タリスは笑いながら、まだ少し痛む脇腹を片手で押さえた。
「いやぁ、でも助かった。ほんとにな。あのまま落ちてたら、俺、今ごろ風穴の底でぐちゃぐちゃだ」
ガサンは何も言わない。
言葉の代わりに、ただ前を向いたまま歩幅を崩さない。
タリスはそんな横顔を見て、ふっと口の端を上げた。
「よし、決めた」
「何をだ」
「飲みに行く」
ガサンの足がわずかに止まりかける。
「は?」
「命拾いしたんだぞ? しかも隊長にこの命を救われたんだ。だったら一杯くらい付き合ってもらわねぇと、こっちの気が済まねぇ」
「行かない」
「即答かよ」
タリスはけらけら笑う。
「いいだろ別に。今日はもう働いた。十分すぎるくらい働いた。だから飲む。これは決定事項だ」
ガサンは額を押さえた。
「お前、娘が待ってるんじゃなかったのか」
その一言に、タリスは一瞬だけ目を瞬かせる。
だが次の瞬間には、まるでそこまで見越していたみたいに肩をすくめた。
「大丈夫だ。隣のリサ・マイジョおばさんが見てくれてる」
「最初から飲む気だったのかよ」
「いや? でも今、もっと飲む理由ができただろ」
そう言って、タリスはがしっとガサンの肩へ腕を回した。
「行こうぜ、隊長」
「重い。離れろ」
「助けといてそれ言うか?」
「今のところ、助けたことを少し後悔してる」
「ひでぇな!」
笑い声が、夕方へ傾き始めた通りに軽く響く。
ガサンは呆れたように首を振った。
「……俺、明日でやっと成人なんだけど」
タリスの動きが一瞬止まる。
「は?」
「だから、まだ厳密には飲めない」
「アハハハハーーなんだそりゃ!」
腹を抱えたいのに脇腹が痛むのか、タリスは途中で顔をしかめながらも笑い続けた。
「いや、逆に完璧じゃねぇか。明日成人なら、もう誤差だろ誤差」
「誤差で済ませるな」
「大丈夫だって。こういうのはな、細かく気にしたら負けなんだよ。ほら、祝いだ祝い。お前が隊長になって、俺が生き残って、ミルバも落ち着いた。全部まとめて一杯だ」
「一杯じゃ済まない顔してるぞ」
「じゃあ半杯」
「減ってない」
「じゃあお前は一口でいい」
タリスはにやりと笑った。
「な?それなら文句ねぇだろ」
ガサンはしばらく黙っていたが、やがて深く息をつく。
「……ほんとに一口だけだからな」
「よし、交渉成立!」
そうしてその日、命の綱を掴んだばかりの午後の帰り道で、ガサンは人生で初めて、成人を迎える前のほんの一歩手前で、果酒を口にした。
ほんの一口だけ。
本当に、それだけだった。
>ここまで読んでくださりありがとうございます。
幕間の十二では、ガサンとタリスの関係性を中心に描きました。落下の恐怖と仲間を救う決断、そして「振り向いて探させるな」という言葉に込められた隊長としての責任感が、二人の絆をより強く浮かび上がらせています。
また、ミルバの暴走が「敵」ではなく「痛みによる乱れ」であることを見抜き、力ではなく風脈を整えることで事態を収める展開は、戦いの中にあるもう一つの知恵と優しさを示しました。
最後に交わされた軽口や「成人前の一口」の場面は、緊張の余韻を和らげつつ、仲間同士の人間らしい温かさを描くものとなっています。
次回もぜひ楽しみにしていただければ嬉しいです
(≧▽≦)ノシ




