表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編
54/61

第43話ー解放の刻──断ち切れぬ核

>バリシャハとの戦いがさらに激しさを増す場面です。


ガサンとタリスは限界を超えながらも、互いの攻撃を重ね合わせて敵の中軸へ挑みます。


敵の中心へ届くかどうかが勝負の焦点となり、物語は次の段階へ進んでいきます。


時間:3670シヴン年 12月25日 AM 05:12

場所:ビコトラス島・港区中央広場


その光は、刀身へ触れた瞬間に鋭く脈打った。


まるで眠っていた何かが、最後の一撃のためだけに目を覚ましたようだった。


裂けた胸元の連結ポートから淡い光が幾筋も伸び、紋路を伝って長刀の芯へと流れ込み、沈みきっていた風の気配を無理やり引きずり起こしていく。


ガサンは低く詠唱した。


掠れているはずの声だったが、その音だけは不思議なほど真っ直ぐだった。左手の指先が胸元の術式端子へ触れ、そこから滑るように離れると同時に、空中へ短く鋭い符の線を刻んでいく。


足元では沈んでいた水気が青白い光に呼び戻されるようにふるえ、遅れていた風もようやく刀の周囲へ戻り始めた。


呼吸は苦しい。肺は焼けるように痛い。それでも、その一拍だけはぴたりと合った。


「風の攻撃術式――」


踏み込んだ瞬間、石畳が鳴り、翻った袖の間を圧縮された気流が裂けるように駆け抜ける。


「解放――〈刃舞爆空〉!」


言葉が落ちた瞬間、刀身に巻きついていた青白い光が一斉に弾けた。


それは前に使った時よりも荒く、鋭く、どこか危うい光だった。淡い緑を帯びた線が切っ先から刀身を這い、符紋の響きと気流の共鳴が重なった瞬間、氷を砕いたみたいな蒼い閃光が広場の中央で裂ける。


長刀が振り抜かれ、その軌道に沿って解き放たれた風刃が一斉に爆ぜた。


無数の刃が空中で交差する。一枚ではない。一筋でもない。幾重にも折り重なった疾風が、舞い狂う刃の幕となってバリシャハへ襲いかかる。


どす黒い紫の靄も、広場を沈めていた重圧の層も、その一撃の前では裂け目を作らずにいられなかった。風は血に飢えた獣みたいに吼え、真正面からバリシャハの肩口と首筋、さらに胸から腹へ続く中軸へまとめて噛みついていく。


バリシャハの目が細まった。初めて、正面から受ける構えを見せた。だが、もう遅い。


青白い刃の連鎖は止まらない。第一撃が外殻を裂き、第二撃がその奥へ食い込み、第三撃でようやく深部まで届く。どす黒い紫の鱗が弾け、血が飛び、重圧に押し潰されていた空気がその周囲だけ一瞬軽くなった。


「タリス!」


ガサンが残っていた力のすべてを叩きつけるように叫ぶ。その声には、さっきまでの掠れがもうなかった。術式を切った代わりに、自分の中に残っていたものを全部そこへ注ぎ込んだような声だった。


タリスは答えるより先に動いていた。


「おおおおおっ!」


炎剣が跳ね上がる。さっきまで押し潰されていた火勢が、ガサンの術式で裂かれた風の道へ一気に吸い上げられ、細かった炎が今度は芯のある赤へ変わる。


タリスは崩れた噴水台座を蹴り、その反動ごと前へ叩き込むように踏み出した。


狙うのはひとつ。ガサンがこじ開けた、その中軸の裂け目だった。


炎剣が振り下ろされる。赤い火走りはまっすぐだった。迷いも揺れもなく、裂けた鱗の奥へ焼けた楔のように突き刺さる。


火と風がそこで激突し、傷口の内側から白い蒸気が爆ぜた。


バリシャハの巨体が、初めて大きくぶれた。


その揺らぎは一瞬では収まらない。巨体はたたらを踏むみたいに半歩ぶれ、肩口から胸へかけて裂けた傷が大きく脈打つ。どす黒い紫の鱗の隙間から血と蒸気が噴き、さっきまでならすぐに塞がっていたはずの裂け目が、今度は目に見えて鈍い速度でしか閉じていかない。


肉膜はたしかにうごめいている。だが、遅い。内側から引き寄せるように蠢いてはいるものの、傷縁が噛み合うまでに明らかな間が生まれていた。


タリスは息を呑んだ。


「効いてる……!」


「ああ、まだまだ行けるかも……」


ガサンは荒い息の合間にそう吐き、裂けた胸口から中軸へかけての傷を睨み据えた。さっきまでなら瞬く間に塞がっていたはずの裂け目が、今は肉膜を蠢かせながらも明らかに遅れている。


「完全には追いついてない……!」


タリスも炎剣を構え直し、血の滲んだ口元を歪めた。


「アハハ……ようやく、まともに痛がってくれたかよ!」


再生は消えていない。だが、追いついていない。風の攻撃術式と炎剣の追撃、その二つが同時に深部へ届いたことで、バリシャハの中軸にわずかな乱れが生じていた。


そのときだった。バリシャハが、ゆっくりと口を開く。


喉の奥から漏れた声は、さっきまでの陰気な一色ではなかった。低く濁った響きの奥に、ひりつくような怒気と、耳の裏を撫でるような粘ついた嘲りが混じっている。まるで、喰われたはずの二つの頭が、まだ喉の奥で完全には死にきっていないみたいだった。


「鼠ども……まだ、力が……」


ぐ、と喉が鳴り、次の瞬間、口元が不気味に歪んだ。


「ひひ……いいぞ……」


声の調子が一瞬で変わる。嘲るような、あの狡猾な笑いだった。だが、その直後には別の熱が割り込んでくる。


「喰ってやる!」


怒鳴り声にも似た震えが混ざり、広場の空気がまたびり、と軋んだ。


タリスの背筋に冷たいものが走る。


「っ、まだ混ざってやがるのかよ……!」


バリシャハは答えない。裂けた傷口をゆっくり蠢かせながら、ただ二人を見下ろしていた。その目には明確な怒りも、明確な笑いもない。ただ喉の奥だけが、いくつもの声を呑み込みきれないまま濁っている。


そして次の瞬間、傷の閉じきらない胸をさらしたまま、巨体が再び前へ沈んだ。今度は、さっきとは違う。明らかに苛立っている。それでも殺意だけは、さらに濃くなっていた。


「しゃべる時間ない、タリス!」


「おおーー!」


返事と同時に、タリスは踏み込んだ。さっきまで重圧に沈められていた脚は重いままだったが、それでも止まる理由にはならない。炎剣を後ろへ引き絞り、崩れた噴水台座の縁を蹴る。


細くなっていた火勢が、その踏み込みに煽られて一瞬だけ芯を取り戻し、赤い尾を引きながら一直線に伸びた。


ガサンも同時に動く。長刀を低く沈め、青白い光をまとった刃先で石畳すれすれの水気を掬い上げる。鈍っていた風はまだ重い。それでも攻撃術式で無理やり引き起こされた流れが、その鈍さごと前へ押し出していた。


バリシャハが首を振る。裂けた胸口はまだ閉じきっていない。蠢く肉膜が傷縁を寄せようとするたび、内側の焼けた深部が露わになり、再生は明らかに一拍遅れる。


そこしかない。


ガサンは踏み込みながら刃を返した。真正面から斬るのではない。胸から腹へ続く中軸、その裂け目をさらに広げる角度へ、風刃をねじ込むように振り抜く。


タリスはそこへ重ねた。炎剣を横薙ぎに払うのではなく、途中で軌道を落とし、ガサンがこじ開けた傷の奥へ赤い楔を叩き込むように振り下ろす。


火と風が同時に深部へ食い込んだ。バリシャハの巨体がびくりと震える。


「そこだ、押し込め!」


「ああ!」


タリスは炎剣を引き抜かず、逆にその場で捻った。傷口の内側で火が暴れ、裂け目の縁を焼きながら押し広げていく。


その瞬間だった。バリシャハの喉奥から漏れた声が、さっきまでとは明らかに違った。


「ぐ……あああァァッ!!」


低く濁った声の奥に、怒りと嘲りが一緒に噴き上がる。裂けた胸口からどす黒い血が噴き、閉じかけていた傷が逆に大きくひらいた。


だが、その代わりにバリシャハの全身が一気に膨れ上がるように強張り、鱗の隙間という隙間から黒紫の靄が噴き出した。


タリスの顔色が変わる。


「っ、隊長、まずい!」


冷静さが消えていた。あの目にあった計算が剥がれ落ち、その奥から剥き出しの苛立ちと飢えだけが浮かび上がる。傷を負ったことで、むしろ押さえ込まれていた暴力が表へ噴き出してきたみたいだった。


バリシャハはもう間合いを測らない。待たない。裂けた胸を晒したまま、巨体を強引に捻り込み、半ば体当たりのような勢いで二人まとめて噛み潰しにくる。


「散れ!」


ガサンが叫ぶ。だが、その声より早く、広場全体へ凶暴な重圧が叩きつけられた。


石畳が悲鳴を上げる。沈み込んだ重圧に耐えきれず、広場のあちこちで亀裂が一気に走った。噴水台座の縁が砕け、倒れていた石柱の残骸が跳ね、紫黒い靄が地表を這うように広がる。


ガサンとタリスは同時に散った。


真正面から跳ぶんじゃない。ガサンは砕けた石柱の陰へ身体を滑らせ、片足で倒れた柱の縁を蹴ってそのまま上体を捻る。振り下ろされた前脚は石柱ごと地面を叩き割り、破片を吹き上げたが、その直前にガサンの身体は半身ぶんだけ外へ抜けていた。


タリスは逆へ走る。いや、走るというより、崩れた噴水台の外周を蹴りながら滑るように回り込み、その勢いのまま炎剣を背へ引きつける。バリシャハの尾が追ってくる。石畳を薙ぎ払いながら、半円を描くようにタリスの脚を刈りにくる。


「っらァ!」


タリスは台座の割れ目へ片足を掛け、その場で身体を跳ね上げた。尾は足裏の真下を擦り抜け、台座の外縁を粉々に砕く。


着地と同時に体勢は崩れる。だが、その崩れを殺さず、今度は肩から前へ転がり、そのまま炎剣を地面すれすれに払った。


赤い火線が、バリシャハの腹側をかすめる。浅い。それでも、狂暴化して前のめりになった軸をわずかに浮かせるには十分だった。



「右、開いた!」


ガサンが叫ぶと、自分は石柱の陰から一気に飛び出した。


長刀は正面から振らない。低く構えたまま駆け、バリシャハの前脚が着地した瞬間、その外側の鱗列を掬い上げるように斜めへ払う。青白い術式の残光がまだ刃にしがみついていて、風は細いながらも遅れて噛みついた。


鱗が散る。バリシャハは吠えた。もう狙いは精密じゃない。怒りに任せるみたいに首を振り、巨体ごと押し潰してくる。


裂けた胸口からどす黒い血が垂れ、それが石畳へ落ちるたび、じゅっと嫌な音を立てた。


ガサンはまともには受けない。踏み込んだ足を軸に、身体を半回転させながら刀を引く。刃は胸前で一度だけ弧を描き、そのまま後ろへ流れる。噛みつきは頬先を掠め、髪を散らし、遅れて熱い風圧が頬を打った。


その背後へ、タリスが回っていた。崩れた壁枠を蹴り、上から落ちる。



「まだ終わってねぇぞ!」


炎剣が真上から叩きつけられる。狙いは頭じゃない。裂けた胸と肩口の境目、その肉膜が寄ろうとしている継ぎ目だ。火は細くても、落下の勢いごと乗った斬撃は重い。


赤い筋が傷口をまた一段押し広げ、閉じかけていた再生をもう一度ひっくり返した。


バリシャハが身をよじる。前脚が跳ねる。


タリスはそこで剣を抜かない。逆に柄を押し込み、身体ごと横へ逃がしてから、抜き際に火を残す。傷口の内側へ赤熱が走り、白い蒸気が噴いた。



「タリス、下!」


ガサンの声が飛ぶ。反射でタリスは身を投げた。次の瞬間、バリシャハの尾がさっきまでいた空間を叩き潰し、壁枠ごと砕く。


飛んだ石片が肩と頬を切り、浅く血が走る。


着地は無様だった。それでも立つ。息は切れている。脚は重い。肩も痛む。だが、止まればそこで終わる。


バリシャハはさらに暴れる。狙いも間合いも無視し、前脚、尾、噛みつき、重圧をほとんど同時に撒き散らしてくる。

広場はもう戦場というより、潰され続ける破片の渦だった。


それでもガサンとタリスは、真正面に立たない。石柱の影へ滑り、台座を蹴り、崩れた壁の角で身を切り返し、巴のように位置を入れ替えながら、ひと太刀、ひと振りだけを確実に差し込んでいく。



深くはない。だが、胸の裂け目と中軸、その二つだけは絶対に外さない。




バリシャハは狂暴化したことで、たしかに凶悪さを増していた。


だが同時に、動きは荒くなり、怒りに任せたぶんだけ綻びも見せ始めていた。二人はようやく、その乱れへ刃を返し始めていた。


それでも、優勢に傾いたわけじゃない。



むしろ、乱れたぶんだけ一撃ごとの重さは増し、まともに受ければそれだけで身体を持っていかれる。わずかな綻びを突いて傷を広げても、その直後に返ってくるのは、理屈も間合いも押し潰すような猛攻だった。


バリシャハの喉奥が低く震えたかと思うと、巨体が真正面から弾ける。

正面から来るように見せて、途中でわずかに軸を捻り、前脚を石畳へ叩き込む勢いのまま横へ圧し込んでくる。


ガサンは斜めに身を切り、刀を返して脇腹へ浅く入れた。だが、その刃が抜け切る前に、反対側から尾が薙いだ。


「っ!」


半身は外したつもりだった。それでも尾の先は肩口を強く掠め、鈍い痛みが腕へ走る。刀の切っ先がわずかに沈み、そのほんの半拍を逃さず、今度は重圧が上から落ちた。


空気が沈む。


足が遅れる。


そこへ、裂けた胸を晒したままバリシャハが低く滑り込み、ほとんど体当たりみたいな勢いでガサンを押し崩しにくる。


「隊長!」


タリスが横から割って入った。炎剣が唸りを上げ、裂けた胸の端を斜めに焼き切る。


火花と血が同時に弾け、バリシャハの軸がほんのわずかに外れ、その隙にガサンは地を蹴って後ろへ抜ける。


だが、今度はタリスの方が遅れた。


バリシャハは振り向きざまに前脚を叩きつける。炎剣で受けたものの、衝撃は殺しきれず、タリスの身体はそのまま崩れた壁の残骸へ叩き込まれた。


石が砕け、粉塵が舞い、膝をついたまま立ち上がろうとしても、呼吸が続かない。


「く……そっ……!」


火が細い。


さっきまで保っていた赤い筋も、今は剣の上で頼りなく震えるだけだった。


ガサンは舌打ちを飲み込み、間を詰める。ここで一瞬でも止まれば、そのまま噛み砕かれる。


長刀を低く構え、沈んだ水気を無理やり引き上げて足元へ這わせる。


薄い。


それでもないよりはましだった。滑るように走った水線が、バリシャハの踏み込みの角度をわずかに狂わせる。


だが、その狂いは本当にわずかだった。


バリシャハはもう待たない。



一撃外れれば次を打ち込み、頭、前脚、尾、重圧、その全部をほとんど同時に撒き散らしてくる。攻撃のつなぎ目がない。

かわしても、受けても、次の一手がもう目の前にある。


「ぐっ……」


ガサンは二度、三度と刀を返した。そのたびに虎口の裂け目が焼けるように痛み、腕の痺れもじわじわと深くなっていく。


タリスも立ち上がるたびに炎剣を振るうが、その火はさっきより確実に鈍い。斬ったつもりでも届くのは外殻の浅いところまでで、踏み込みも戻りももう以前の速さではなかった。


「この……化物め!」


タリスの声は張っていたが、その響きには隠しきれない焦りが滲んでいた。



バリシャハの尾が地面を抉り、跳ね上がった石片が視界を覆う。


ガサンはその隙間から走る黒紫の影を追うが、重圧に押された呼吸は浅く、判断より身体が半歩遅れる。


噛みつきが頬先を掠めた。


熱い。


次いで、首筋に冷たいものがつうっと伝う。


血だと理解するより早く、バリシャハはもう次の角度へ移っていた。


「くそ、速すぎる……!」


タリスが炎剣で前脚を払う。浅い。だが止めるつもりはなく、そのまま身体を回し、崩れた石柱を踏み台にしてもう一度上から斬り下ろす。今度は肩口へ入った。血が飛ぶ。


だが、バリシャハは痛みに身を引く代わりに、裂けた胸を晒したまま強引に前へ出る。


その強引さが、むしろ怖かった。


痛みを無視しているんじゃない。痛みごと押し込んでくるのだ。


ガサンははっきり理解した。


このまま削り合えば負ける。


有効打は入っている。傷も広がっている。だが、それ以上にこちらの消耗が早い。


ここへ来るまで、避難民を護り、小型異獣を斬り、大型異獣と渡り合い、逃がし、戻り、また戦ってきた疲労が、狂暴化したバリシャハの猛攻で一気に表へ噴き出していた。


二人はもう、とっくに限界を越えている。


今ここで立っていられるのは、肉体が保っているからじゃない。ただ意志だけが、まだ折れていないからだった。


バリシャハの喉奥から、また濁った笑いが漏れる。


「ひひ……遅い……」


その上へ、今度は怒気を孕んだ低い唸りが重なった。


「潰す」


その一語とともに、巨体がもう一度沈む。広場全体を満たす紫黒の靄はさらに濃くなり、足首へ絡んでいた重さは、今や膝の上まで這い上がろうとしていた。


ガサンは息を吸う。肺の奥はもう痛みで焼けついている。それでも無理やり肺を広げ、刀を落とさない。タリスも血を拭い、震える手で炎剣を構え直す。



二人とも、もう身体の方はとっくに悲鳴を上げ終えていた。


それでも、前へ出るしかなかった。


ガサンがなおも角度を探り、次の一撃を差し込む隙を見極めようとした、その時だった。


「……これは!?」


胸元で明滅していた青白い光が、ふいに脈打つように強さを増す。


次の瞬間、そこから溢れ出した何かが一気に全身を駆け抜けた。


熱ではない。


痛みでもない。


風だった。


見えない気流が血管の内側を走るように、腕へ、肩へ、胸へ、脚へと巡っていく。いや、それだけじゃない。まるで自分の身体そのものが風に包まれ、その中心へ置かれたような、不思議な温もりまであった。


重圧に押し潰されていた呼吸が、ほんのわずかに戻る。


沈みきっていた脚にも、かすかに力が返ってくる。


長刀を握る指先の痺れが薄れ、焼けるようだった肺の奥にも、ひと筋だけ冷たい流れが通った。


そして胸元の青白い光は、次の瞬間にははっきりと色を変えていた。


金色だ。


青白く揺れていた攻撃術式の連結ポートが、まるで眠っていた何かを完全に目覚めさせたように、深い黄金の光へ変わっていく。


ガサンは目を見開いた。


疲労が消えたわけじゃない。


傷が治ったわけでもない。


それでも分かった。


これはただの残火じゃない。


「攻撃術式が……」


喉が震える。


「完全に解封された……!」


その理解が走った瞬間、ガサンはすぐに顔を上げた。


「タリス! 解封された!」


重圧の中で踏みとどまっていたタリスが、はっと顔を上げる。


「何っ!?」


「攻撃術式だ! 今なら繋げる!」


タリスの目が一気に鋭くなる。


「分かった、すぐに術式コードを切り替える!」


そう叫ぶと同時に、彼は炎剣を握ったまま胸元の端子へ手を走らせた。押し潰されかけていた火が、わずかに息を吹き返す。


その目の前で、バリシャハもまた、二人の異変に気づいたようにゆっくりと首をもたげる。


黄金に変わった光が、崩れた広場の空気をわずかに塗り替え始めていた。



タリスの胸元でも、赤かった連結ポートが唐突に脈打った。


「っ!?」


次の瞬間、熱が走る。


ただ熱いんじゃない。押し潰されていた呼吸の底へ、火そのものが流れ込んできたみたいだった。痺れていた右腕がびくりと震え、握力を失いかけていた指先にまで、一気に力が戻ってくる。炎剣の火も呼応するように唸りを上げ、細く揺れていた赤が、芯を取り戻しながら一段濃く燃え上がった。


タリスは目を見開き、胸元を見下ろす。


赤いはずの連結ポートが、内側から溶けるように色を変え、今でははっきりと金色に染まり始めていた。


「アハハハハーーありがとうな、校長!」


「タリス!」


ガサンの声が飛ぶ。


「今度は俺に合わせろ、俺が開く!」


「だったら俺が焼き切る!」


ガサンは胸元で脈打つ黄金の光を見据えたまま、長刀をゆっくりと構え直した。


それは、さっきまでの青白い残火とはまるで違っていた。裂けた隊服の隙間から漏れる光は、もはや応急処置の術式ではない。もっと深く、もっと根にあるものへ繋がったとしか思えない、静かで、それでいて圧倒的な輝きだった。


金の脈動がひとつ、ふたつと全身へ広がる。


その瞬間、ガサンの中で何かが噛み合った。


風だけじゃない。


足元へ沈み込んでいた水気が、今度は引き上げられるのを待つのではなく、自ら刃へ寄ってくる。風はそれを散らさない。押し流しも、削ぎ飛ばしもしない。むしろ逆だった。細く、鋭く、ひとつの流れへ束ねながら、水の形をそのまま抱え込み、より深く、より速く、より重くしていく。


冷たい。


だが鈍くはない。


鋭い。


だが荒れない。


ガサンは目を見開いた。


今まで自分は、風と水を別々のものとして使っていた。風で裂き、水で補い、水で封じ、風で押し流す。その組み合わせで十分だと思っていた。


違う。


違ったのだ。


水は風に従うものじゃない。風も水を運ぶだけのものじゃない。二つは重なり、噛み合い、ひとつの理になる。


「……そうか」


その声は、驚きというより確信に近かった。


刀身のまわりで、金と蒼が溶け合う。刃にまとわりついていた風は音を失い、代わりに濡れた光の筋が幾重にも螺旋を描きながら、切っ先の前へ集まり始めた。薄い霧ではない。水刃でもない。蒼く透けた流れそのものが、圧縮され、幾重にも重なり、ひとつの境を形作っていく。


その境界は、揺れなかった。


重圧の中にあっても、バリシャハの狂気に晒されても、乱れず、吼えず、ただ静かにそこに在る。


ガサンは長刀を肩の高さまで引き上げる。


呼吸を整える。


肺の奥はまだ痛む。腕も重い。傷も消えていない。それでも、さっきまで身体を押し潰していた疲労の底に、いまは別の流れが通っていた。温かく、冷たく、風に包まれながら水に満たされるような、不思議な感覚だった。


「風よ、水よ、今ここで重なれ」


低い詠唱が、崩れた広場へ落ちる。


その言葉に応じるように、足元の水気がいっせいに浮き上がった。石畳の裂け目を這っていた湿り気までもが蒼い光を帯び、長刀の周囲へ集まっていく。


「吼えず、乱れず、すべての穢れを断つ境となれ——」


最後の一語が落ちた瞬間、蒼と金の流れは完全にひとつになった。


水風の攻撃術式・完全解放——〈蒼嵐断界〉!


長刀が振り下ろされる。


だが、それは単なる斬撃ではなかった。


刀身から解き放たれた蒼金の流れは、刃の軌道に沿って真っ直ぐ落ちるのではなく、幾重にも重なったまま静かに空間を滑り、広場を満たしていた重圧の層へ触れた瞬間、それを一枚ずつ剥がすように断ち割っていく。


轟音はない。


むしろ、音が消えた。


バリシャハの放っていた紫黒の靄が、その進路の上だけすっと途切れ、裂けた胸口から中軸へ続く線が、まるで最初からそこに道として在ったかのように露わになる。


蒼く透けた流れはそこでさらに収束した。


風が押し、水が削ぎ、二つが重なったままひとつの境となって、狂暴に脈打つ巨体の中心へ食い込んでいく。


バリシャハの眼が見開かれた。


次の瞬間、裂けた胸口から腹へかけて、深く鋭い断裂が走る。


外殻が遅れて割れ、どす黒い紫の鱗が弾け飛び、血と蒸気が一拍遅れて噴き上がった。だが、それでも斬撃は止まらない。表面を裂くだけでは終わらず、その奥で歪に絡み合っていた気配そのものへ届き、狂ったように脈打っていた中軸をまとめて断ち切ろうとする。


広場全体の重圧が揺らぐ。


石畳の裂け目を這っていた紫黒の靄が、一瞬だけ押し返された。


ガサンの腕に残る衝撃は重かった。完全に振り抜いたはずなのに、刃先の向こう側ではなおも何か硬いものを断ち続けているような抵抗がある。それでも止めない。ここで緩めれば、せっかく繋がったこの理ごと押し返される。


「タリス!」


ガサンの叫びは、蒼金の流れの中を真っ直ぐ突き抜けた。


「今だ、焼き切れ!」



タリスは笑いながら炎剣を大きく振りかぶった。ただ持ち上げるのではない。


肩から背へ、さらに腰の捻りまで使って一度大きく薙ぎ払い、剣身のまわりにまとわりついていた火を空中へ解き放つ。

赤い焔は弧を描いて唸り、その軌跡だけが一瞬遅れて残った。


次の瞬間、タリスは手首を返す。



横へ流れていた剣筋がそこで一気に縦へ噛み合い、散っていた火が今度は逆に刀身へ吸い込まれるように収束していく。

揺れていた赤は細く鋭く削られ、やがて剣先の前へ獣の牙みたいに尖った灼熱の火錐を形作った。



「燃えろ――喰い破れ、炎よ!」


さらに一歩、深く踏み込む。


石畳が砕け、全身の捻りとともに炎剣が前へ叩き出される。

その一撃は、もはや振るうというより、圧縮した灼熱を剣ごと撃ち込むような突貫だった。



「貫いて、焼き潰せ!」


炎の攻撃術式・解放――〈焔牙穿衝〉!


叫びとともに、タリスは地を蹴った。


その踏み込みは、もはや跳躍ではない。圧縮された炎ごと自分の身体を撃ち込むような突進だった。ガサンが〈蒼嵐断界〉でこじ開けた中軸の裂け目へ、金赤の火錐がまっすぐ吸い込まれていく。


命中した瞬間、白い蒸気が爆ぜた。


火は表面を焼くだけでは終わらない。裂け目の奥へ、さらにその奥へと潜り込み、そこで一気に暴れ始める。風が開いた道を、今度は炎が喰い進む。中軸に絡みついていたどす黒い脈動が、内部から焼かれ、蒸発し、ひび割れていく。




「ガあああーー!」


バリシャハが絶叫した。


それはもう、怒りでも嘲りでもなかった。喰われた三つの性質がひとつの喉で耐えきれず暴れ、濁ったまま噴き出したような、耳障りで醜い叫びだった。


巨体が大きく反る。


裂けた胸口から腹へかけて、ガサンの〈蒼嵐断界〉とタリスの〈焔牙穿衝〉が交差し、蒼と金赤の亀裂が十字を刻む。暗紫の鱗は耐えきれず弾け飛び、どす黒い血と白い蒸気が一気に噴き上がった。


広場を覆っていた重圧も、そこで初めて大きく揺らぐ。


石畳の裂け目を這っていた紫黒の靄が押し戻され、バリシャハの足元がわずかに浮く。巨体を支えていた軸が乱れ、前脚が石面を掻いた。


「今だ、押し込め!」


ガサンが叫ぶ。


タリスは炎剣を引き抜かない。


「おおおおっ!」


咆哮とともに柄をさらに押し込み、裂けた中軸の奥へ灼熱をねじ込んでいく。


炎は傷口の内側で暴れ、閉じかけていた再生の肉膜を内側から焼き裂いた。


ガサンも止まらない。


蒼い流れを纏った長刀を返し、今度は斜め下からもう一度中軸へ重ねる


水と風が噛み合った断界の流れは、裂け目の奥でなお脈打っていた核のような気配を正確に捉え、その鼓動ごと断ち切ろうとしていた。


バリシャハの巨体が、そこでついに大きく傾ぐ。


一歩、後ろへずれる。


次の瞬間、膝を折るように前脚が沈んだ。


「効いてる……!」


タリスが血の混じった息を吐く。


だが、ガサンの視線はまだ緩まない。


「まだだ。中で何かが残ってる……!」


裂けた胸口の奥、蒼と金赤の光に裂かれたそのさらに深い層で、なおも黒く濁った脈動が不規則に蠢いていた。


まるで——


まだ終わっていない、とでも言いたげだった。




>ここまで読んでくださりありがとうございます。


第43話では、ガサンとタリスがそれぞれの力を重ね合わせ、バリシャハの再生をようやく遅らせる場面を描きました。


ただの力比べではなく、風と炎が交錯し、二人の意志が試される瞬間です。


敵の核を断ち切ろうとするこの攻防は、物語の緊張感をさらに高め、次回への期待を繋げるものになっています。


読者の皆さんにとっても、この「解放の刻」が二人の戦いの新たな局面として響けば嬉しいです。


(・∀・)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ