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失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編
53/62

第42話ー決着の刻──崩れた広場

>今回の幕は、バリシャハとの激闘がさらに深まる場面です。


三つ首の魔物が完全変異し、広場全体を圧迫する中で、タリスとガサンは限界を超えて立ち続けます。


「決着の刻」という題の通り、ここでの選択と一撃が、物語を次の局面へ大きく押し進める瞬間となります。




時間:3670シヴン年 12月24日 AM 04:18

場所:ビコトラス島・ピグト路地住宅区



「……隊長、バリシャハって何だ?」


タリスの声は、さっきまで無理やり浮かべていた笑いを失っていた。


ガサンは答えなかった。


目の前では、たった今まで三つ首だったはずの魔物が、広場の中央でゆっくりと膨れ続けている。どす黒い紫の艶が鱗の表面を這い、血紅の流体が紋様の下を脈打つたび、空気そのものが重く沈んでいくようだった。


「隊長!」


タリスがもう一度呼ぶ。


その声でようやく、ガサンの喉が動いた。


「クシャハーの……完全変異体だ」


短い返答だった。


だが、その一言だけで十分だった。


タリスの顔から、最後に残っていた軽さが消える。


「完全変異体……?」


「三つの頭は完成形じゃない」


ガサンは刀を握り直し、刃先をわずかに下げた。汗で濡れた掌が柄に張りつき、呼吸を整えようとしても胸の奥がうまく緩まない。


「喰い合って、一つになる」


「生き残った一つに、全部の力が集まる」


「それが、バリシャハだ」


言葉を重ねるたびに、目の前の巨体がその説明を裏づけるみたいに脈打った。


残された陰気な頭が、ゆっくりと二人を見下ろす。


その眼にはもう、怒りも嘲りもない。


あるのは、ただ飢えだけだった。


タリスは小さく舌打ちしたあと、炎剣を握り直す。


「……つまり、今までよりずっと最悪ってことか」


「そうだ」


ガサンの返事は低い。


「しかも、たぶんまだ終わってない......」


その瞬間、バリシャハの喉奥が、ぐぐ、と低く鳴った。


広場に散っていた瓦礫が震え、乾いた噴水台座の亀裂から砂がさらさらとこぼれ落ちる。タリスが一歩、足の位置をずらした。



「来るぞ!」


ガサンの声と同時に、バリシャハの巨体が消えたように見えた。


実際に消えたわけじゃない。


速すぎたのだ。


直後、広場の左端で砕けた石柱が内側から弾け飛んだ。どす黒い紫の残像がその陰をなぞるように走り抜け、次の瞬間にはもう二人の間合いの縁まで食い込んでいる。


「速っ――!」


タリスが炎剣を引き上げる。


だが、その動きはいつもより半拍だけ遅い。足も、腕も、呼吸の入り方まで重い。見えない何かが全身にまとわりつき、踏み込みを鈍らせていた。


バリシャハはそこを逃さなかった。


巨体の勢いをそのまま押しつけるように前脚を振り下ろす。爪が空気を裂き、地面へ届くより早く衝撃だけが走った。


ガサンは刀を横に払う。


受けるためではない。風の流れを無理やり斜めへ流し、タリスの体勢を崩さずに済む角度へ押し戻すためだった。


刃先から散った水気が薄い膜になり、爪撃の軌道をほんのわずかだけ外す。


それでも足りない。


爪は炎剣の腹をかすめ、火花を撒き散らしながら石畳へ叩き込まれた。地面が爆ぜ、砕石が跳ね上がる。


タリスは歯を食いしばったまま後ろへ流され、両足で踏ん張ってようやく止まる。


「なんだよ、この重さ……!」


「領域ごと押してる!」


ガサンは短く叫び返す。


言い終わるより先に、バリシャハはもう次の位置へいた。巨体に似合わぬ速さで蛇身をひるがえし、今度は正面ではなく噴水台座の崩れた陰へ潜り込む。狙っているのは攻撃そのものじゃない。二人の呼吸が乱れる、その一瞬の遅れだ。


喉の奥で、ぐ、と低い音が鳴った。


同時に空気がさらに沈む。


タリスの膝がわずかに落ちる。炎剣の切っ先も、石を吊るしたみたいに下がった。


バリシャハが動く。


今度は一直線だった。躊躇も曲線もない。最短距離を食い破るためだけの突進だった。


「タリス、下がるな!」


ガサンが前へ出る。


長刀を返し、真上からではなく斜め下から迎え撃つ。まともに受ければ押し潰される。だから狙うのは本体ではなく、踏み込みの起点だった。


刃が前脚の爪と石畳のわずかな隙間へ滑り込む。


一瞬、金属を削るような甲高い音が走った。


バリシャハの重心が半寸だけずれる。


その半寸を、タリスは待っていた。


「こっちだ!」


炎剣が横から走る。


狙ったのは首ではなく、胸から腹へ続く鱗の継ぎ目。重圧で足は鈍っても、あらかじめ決めていた軌道ならまだ振れる。火走りが一直線に走り、どす黒い紫の鱗へ赤い裂け目を刻んだ。


火が食い込む。


だが浅い。


傷はついた。けれど止まらない。


バリシャハの目が細くなった。


次の瞬間、その口が開いた。粘液ではない。喉奥で圧縮されたどす黒い息が、音もなく細く伸びる。


「伏せろ!」


ガサンが叫ぶ。


二人は反射で身を沈めた。


黒い線は頭上をかすめ、背後の石壁へ触れた瞬間、壁そのものを内側から腐らせたみたいに崩し落とす。崩落音と同時に、広場の形がまた一つ変わった。


タリスは息を呑み、崩れた壁を横目で見たまま低く吐く。



「……冗談じゃねえ」


「タリス……覚悟はできてるか」


「今さらかよ。俺の命なんて、とっくに隊長に預けてる!アハハハハーー」


ガサンは短く息を吐いた。



「その軽口、最後まで保てなあ!」


刀を握る手にさらに力が入る。


重圧はまだ増していた。


風は遅い。


水気も沈んだまま浮き上がらない。それでも視線だけは逸らさない。



あれはもう、クシャハーの延長じゃない。


一撃ごとに、戦い方そのものを変えてくる。


その直後だった。


バリシャハの喉奥が、ぐ、と低く鳴る。


咆哮ではない。何か重いものを内側で噛み砕くみたいな鈍い震えが、広場全体へじわじわと染みていく。


乾いた噴水台座の裂け目から砂がさらさらとこぼれ、転がっていた小石が細かく跳ねた。


タリスは炎剣を握り直そうとしたが、その動作にさえ妙な重さがまとわりついていた。指先から肩までがわずかに遅れ、踏み込もうとした脚も石畳へ吸いついたみたいに前へ出ない。


「……まだ来るのかよ」


低く吐いたその声に被さるように、バリシャハの巨体がふっとぶれた。


消えたように見えたのは一瞬だけだった。


次の瞬間には、広場の左端で砕けた石柱の影をなぞるようにどす黒い紫の残像が走り、そのまま一気に二人の間合いの縁へ食い込んでくる。


「左!」


ガサンが叫ぶ。


タリスは反射で炎剣を上げた。だが、重圧に足を取られて踏み込みが半拍遅い。そこへバリシャハの前脚が振り下ろされ、空気を裂くより早く衝撃だけが先に叩きつけられた。


ガサンは長刀を横へ流す。


まともに受ける気はなかった。狙ったのは爪でも牙でもなく、前脚が落ちるその起点、ほんの一線だけをずらすことだった。


刃先が石畳すれすれを走る。


鈍くなった風が、ようやくそこへ追いつく。


わずか半寸、重心が狂う。


「そこだ!」


タリスは歯を食いしばって前へ出ると、炎剣を胸から腹へつながる鱗の継ぎ目へ横薙ぎに叩き込んだ。赤い火走りがどす黒い紫の外殻に裂け目を刻み、飛び散った血が地に落ちるなり煙を上げる。


だが、バリシャハは止まらない。


ただその眼だけが、冷たく細まり、二人の位置を測り直すように揺れた。


直後、巨尾が地面をえぐりながら横殴りに走る。


割れた石畳がまとめて剥がれ、飛び散る破片が視界を覆い尽くした。広場の空気ごとひっくり返すような衝撃の向こうで、バリシャハの気配が一瞬だけ薄れる。


「見えねぇ!」


タリスが吐き捨てる。


ガサンは刀を横へ流したまま、飛石の向こうで裂ける空気の歪みだけを追った。重圧のせいで風は読みにくい。それでも、あれほどの巨体が動けば完全には消えない。


「右――!」


叫ぶより早く、どす黒い影が石煙を突き破って飛び込んできた。


タリスは炎剣を立てる。


受ければ折られる、だが避けきれない。


だから彼はぶつかる寸前で剣をほんのわずか外へ傾け、正面衝突を流す形へ変えた。爪と炎剣が噛み合い、火花が爆ぜ、腕の骨まで痺れる衝撃が走る。


それでも止まれば潰される。


「う、おおおおっ!」


叫びとともに剣を捻る。


爪の軌道が外れる。


その一瞬のずれを、ガサンは逃さなかった。長刀で顎下を浅く払って視線をぶらし、深傷にはならなくても牙の角度だけは確実に逸らす。


「もう一歩、左へ寄れ!」


「分かってる!」


タリスは押し流される勢いを逆に使って半歩だけ斜めへ滑り、二人の位置を再び三歩以内へ戻した。


だが、それで終わらなかった。


バリシャハの喉奥がもう一度低く鳴ると、今度は空気だけでなく地面そのものが沈んだみたいに、石畳の裂け目からどす黒い紫の靄がじわりと滲み出し、足首から下へゆっくり絡みついてくる。


タリスの膝が落ちた。


ガサンの刀も、見えない手で引かれるみたいにわずかに沈む。


「広場ごと沈める気か……!」


ガサンが低く吐いた、その瞬間だった。




その鈍った一拍を待ち構えていたかのように、バリシャハは再び姿を掻き消した。


ガサンの視線だけが、かろうじてその残滓を追う。


だが、身体が追いつかない。


右か、いや違う。次の瞬間にはもう気配が薄れ、広場の空気だけがざらつくように軋んだ。


「……っ」


ガサンは刀を返す。


返しただけのつもりだった。


それなのに、刃先がわずかに遅れる。


半拍にも満たない、ほんのわずかな遅れだった。だが、この相手にはその「わずか」が致命になる。


疲労が、ようやく追いついてきていた。


ここへ来るまでに何度も小型異獣を斬り払い、避難民を庇い、大型異獣の進路をずらし、逃がし、戻り、また戦った。その全部が今さらみたいに腕へ、肩へ、背へと重くのしかかってくる。


風を導く感覚も、さっきまでより鈍い。


水気はまだ拾える。


だが、薄い。


引き寄せても、以前みたいな密度にならない。



「隊長ッ!」


タリスの声が飛ぶ。


振り向くより早く、ガサンは横へ跳んだ。


直後、黒紫の残像がさっきまで立っていた場所を斜めに貫いた。石畳が裂け、破片が散り、遅れて衝撃だけが頬を打つ。


タリスも踏み込もうとしていた。


だが、その足が明らかに重い。


炎剣を持ち上げる動きに、いつもの鋭さがない。火は灯っている。それでも、さっきまでみたいに一気に燃え上がらず、剣身の上で何かに押さえつけられるみたいに揺れていた。


「ちっ……火まで鈍ってやがる……!」


吐き捨てる声に、もうさっきの軽さはなかった。


バリシャハは止まらない。


姿を消したまま、今度は広場の反対側で空気を裂いた。崩れた壁の陰から飛び込み、石柱の影を蹴り、また消える。まるで二人の反応を測るためだけに動いているみたいだった。



「この動き……ヤバい」


ガサンは歯を食いしばり、どう対処すべきかを必死に探っていた。


あれはただ速いだけではなく、こちらの動きが最も鈍る瞬間を見極め、その一拍を待っている。



「……くそ」


声が漏れる。


それと同時に、肺の奥が焼けるように痛んだ。


息を整える間もなく走り続け、斬り続け、守り続けた代償が、ここへ来てようやく形になって現れていた。脚はまだ動く。刀も振れる。だが、どちらも「十分」じゃない。


タリスが一歩、よろけるように位置をずらす。


「やべぇな……これ」


笑おうとしたのかもしれない。


でも、声は乾いていた。


「ここまで運んで、逃がして、切って、まだこいつかよ……!」


ガサンは答えない。


答える余裕がない。


その代わり、足元に沈んだ水気をもう一度引こうとする。だが、集まってくるのは細い筋だけで、広場全体を使った制御には届かない。


バリシャハの喉奥が、また低く鳴る。


その音が落ちた瞬間、広場全体がさらに一段沈んだ。


タリスの膝が、がく、と落ちる。


ガサンの刀も、持ち上げる前にわずかに沈む。


そして、その一瞬を待っていたみたいに——

黒紫の影が、真正面から来た。


ガサンは長刀を引き上げた。


避けるには近すぎる。流すしかないと判断して、刃をわずかに傾けながら前へ差し込む。だが、バリシャハの前脚はその受け流しさえ見切っているみたいに角度を変え、そのまま刀ごと押し潰す勢いで叩き込んできた。


鈍い衝撃が、腕から肩を貫いた。

次の瞬間、ガサンの身体が浮く。


「隊長!」


タリスの声が飛ぶ。


だが間に合わない。ガサンは後方へ弾き飛ばされ、崩れた石柱の残骸へ背中から叩きつけられた。砕けた石片が跳ね、肺の奥の空気が一気に押し出される。長刀だけは手放さなかったが、虎口は裂け、掌の内側に熱い痛みが広がった。


視界がぶれる。

胸が痛い。


息を吸おうとしても、肋の奥がきしんでうまく入らない。

それでも顔を上げた時には、バリシャハはもう次を見ていた。


狙いは、タリスだった。


「来いよ……!」


タリスは炎剣を引き上げる。重い。肩も肘もいつもみたいには動かない。それでも無理やり剣を構え、踏み込もうとする。だが、その一歩が遅い。


バリシャハは真正面から来ない。

いったん右へぶれたかと思うと、次の瞬間には地面すれすれへ沈み、低い角度のままタリスの膝下を薙ぎにきた。


「っ!」


炎剣が落ちる。


間に合ったのは剣だけだった。


爪と刃が噛み合い、火花が散る。だが、重圧と衝撃は受け止めきれず、タリスの足元がずれた。その空いた上半身へ、今度は尾が横から叩き込まれる。


鈍い音が響く。


タリスの身体は横殴りに吹き飛び、半ば崩れた噴水台座の縁へ肩から激突した。炎剣は離さなかったが、右腕は痺れ、指先の感覚が薄い。口の端から垂れた血が顎を伝い、石畳へぽたりと落ちた。


「……っ、ふざけんなよ」


笑おうとしたのかもしれない。


だが、喉から出たのは掠れた息だけだった。

バリシャハは止まらない。


広場の中央へ戻ると、鎌首をゆっくりもたげて二人を見下ろした。その目には熱も怒りもない。ただ、もう勝負は決まったとでも言いたげな冷たい光だけがあった。


その場に滲むどす黒い紫の靄はさらに濃くなり、足首から脛までをじわじわと絡め取っていく。呼吸をするたび、胸の奥へ鉛が流し込まれるみたいに苦しい。


ガサンは石柱の残骸を押して、ゆっくり立ち上がった。背中は焼けるように熱く、脇腹にも鈍い痛みが残っている。息を吸うたびに肋の奥が軋んだが、それでも長刀を引き寄せて前へ出た。ここで間を空ければ、次で終わる。


刀を握る手はまだ痺れていて、虎口の裂けた場所も力を込めるたびに焼けるように痛んだが、それでも一歩踏み出し、刃をもう一度正面へ戻す。


バリシャハはすぐには動かなかった。ただ広場の中央に立ったまま、低く二人を見下ろしている。その姿は、こちらが残った力まで自分たちで使い果たすのを待っているように見えた。


先に動いたのはタリスだった。歯を食いしばって炎剣を持ち上げると、今度はさっきのように正面から突っ込まず、砕けた石畳の縁を斜めに切り込むように走る。側面から首を振らせるつもりだった。火の線は細く、もはや先ほどのように空気を引き裂く鋭さはなく、かろうじて消えずにいる赤い筋のように揺れているだけだった。


ガサンも同時に踏み込む。長刀を低く構え、石面すれすれに弧を描かせながら、沈んだ水気をもう一度引き上げようとした。だが、遅い。


風が追いつかない。


水も、かろうじて薄く浮いただけで、形になる前にバリシャハの方が先に動いていた。

真正面から受けることすらしない。


ただ頭をわずかに傾けるだけで、蛇体はそのままするりと外へ滑り出し、二人の交差する攻線の隙間を黒紫の影のようにすり抜けていく。タリスの炎剣は外殻をかすめて火花を散らし、ガサンの刀も石面に浅い痕を刻んだだけで、二人の挟撃は同時に空を切った。


「なっ……」


タリスが言いかけた、その次の瞬間にはもう尾が返ってきていた。


速すぎる。


しかも近すぎる。


ガサンは横に刀を差し込んで受けようとしたが、尾撃は真正面から刀身へぶつからず、刃の端をかすめるようにして脇腹へ斜めに食い込んだ。


鈍い音が響く。


ガサンの身体は横へ流され、足裏が砕石の上を削るように二本の跡を引き、そのまま片膝を強くつく。


「隊長!」


タリスが振り向こうとする。


だが、バリシャハはもう目の前にいた。

噛みつくのではない。


ただ喉の奥を沈める。


広場の重圧が、さらにもう一段落ちた。

タリスが持ち上げようとした炎剣は、そこで半拍だけ止まった。


その半拍で十分だった。


前脚が肩を打つ。


炎剣は半寸ほど手から浮きかけたが、彼は無理やり握り直した。それでも身体ごと大きくよろめき、背中から折れた石柱へ叩きつけられる。


喉の奥に血の味が広がり、そのまま吐きそうになるのをどうにか飲み込んだ。


二人とも倒れはしなかった。


だが、もうまともに攻め込めもしなかった。

しかもバリシャハは、そのまま追撃すらしてこない。


ただゆっくり首を巡らせ、二人を順に見た。その目は、ようやく走れなくなった鼠を眺めるみたいに冷たかった。


広場には荒い呼吸だけが残る。


タリスは口元の血を手の甲で拭ったが、もう笑えなかった。


ガサンも刀を支えに立ち上がり、胸を大きく上下させている。吸い込む空気の一つ一つに、砂利でも混じっているみたいだった。

そのとき、二人はようやく本当に理解した。

まだ攻められるかどうか、そんな段階じゃない。


このままでは、立っていることすらできなくなる。


ここへ来るまでに何度も小型異獣を斬り払い、避難民を庇い、大型異獣の進路をずらし、逃がし、戻り、また戦ってきた。その疲労が、今になってようやく全身へ一気に噛みついてきていた。


腕は重い。

脚も重い。


呼吸も浅い。


それでも立つしかなかった。

ガサンは荒い息を吐き、広場の外れへ一瞬だけ視線を向けた。


「……もう、だいぶ遠くまで逃げただろうな」


タリスは血の滲んだ口元を手の甲で拭い、乾いた笑いを漏らした。


「そうだな、隊長……俺たちの仕事も、どうやらここまでみたいだ。アハハハハーー」


その笑いは、もうさっきまでみたいな無理に明るいものじゃなかった。終わりが近いと知っていて、それでも最後まで自分らしくあろうとするみたいな、そんな笑いだった。


ガサンはゆっくりとタリスへ顔を向ける。

タリスもまた、炎剣を支えにしながらこちらを見返していた。


一瞬だけ、二人の目が合う。


言葉はなかった。


それでも互いに分かっていた。

ここが、おそらく尽きる場所なのだと。


もう力はほとんど残っていない。


バリシャハが放つ気配だけで呼吸は薄く削られ、胸の奥は焼けるように痛み、手足は勝手に震える。立っていることそのものが、もう意志だけで繋がっているような状態だった。

そのときだった。


ガサンの視界の端で、胸元に小さな光が揺れた。

青白い。

消えかけたような、かすかな光だったが、たしかにそこに灯っている。


攻撃術式の連結ポートだった。

ガサンの呼吸が止まる。


それは全面解放の光ではない。学院側が緊急時にだけ隊長格へ与えた、限定式の攻撃術式の残火だ。すでに一度使っている。残っている起動は、たった一回きり。


彼はその青白い明滅を見つめた。


ずっと迷っていた。


これを切る時は、本当に最後の最後だと決めていたからだ。使えば、もう次はない。身体もさらに深く削れる。それでも使わなければ、このまま確実に押し潰される。


なら——


答えは、もう決まっている。


ガサンはゆっくり顔を上げ、掠れた声で呼んだ。


「なあ、タリス」

「……ん?」


「攻撃術式を使う。残ってる最後の一回だ」


タリスの目が、わずかに見開かれる。


ガサンは胸元の青白い光をもう一度だけ見下ろし、それから真正面のバリシャハへ視線を戻した。


「これで、こじ開ける。お前、まだついて来られるか」


タリスは一拍だけ黙ったあと、喉の奥で笑った。


「アハハハハーー隊長、それを今さら聞くかよ」


炎剣を握り直す指先は震えている。けれど、その目だけは死んでいなかった。


「地獄の底まででも行ってやるよ!」


ガサンの口元が、ほんのわずかだけ緩む。


「……そうか」


そして長刀を構え直す。

胸元の連結ポートが、先ほどよりもはっきりと青白く脈打った。


バリシャハはまだ動かない。

いや、動かないのではない。


獲物が最後に何をするのか、見届けるつもりで立っているのだ。


その目が、あまりにも冷たかった。


ガサンは刀を握る手に最後の力を込める。


「なら、行くぞ!」


青白い光が、胸元から刃へ走り始めた。




>ここまで読んでくださりありがとうございます。


バリシャハとの戦いは、ただの力比べではなく、二人の覚悟と絆を試す場面でした。


疲労と重圧に押し潰されそうになりながらも、互いを信じて立ち続ける姿は、物語の核心に触れるものだと思います。


「残された最後の一撃」をどう使うのか――その選択が次回へ繋がる大きな鍵になります。


ぜひ続きも楽しみにしていただければ嬉しいです。



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