第41話ー紅雨の狩り──バリシャハ
>今回の幕は、ただの戦いではなく「記憶と生きる」が交錯する瞬間です。
タリスとガサンがどう立ち向かうのか――その緊張感をぜひ味わってください。
選択、動きが物語を大きく動かしていきます。
時間:3670シヴン年 12月24日 AM 03:15
場所:ビコトラス島・ピグト路地住宅区
「タリス!上だ――!」
黒い影が砕けた屋根の端から逆さに垂れ下がった。まるで皮膜を剥がれた巨大な蛇のように、湿っていて、冷たく、粘つきながら風の中で揺れている。
次の瞬間、暗赤色の液体が瓦の隙間からにじみ出て、石畳にべしゃりと落ちた。飛び散った先には、焦げ黒い腐食痕が輪のように広がる。
「上にいる!」
タリスは反射的に横へ転がった。炎剣を薙ぎ払うと、剣先が橙赤の弧を引き、降り注いだ液体を焼いて鼻を刺すような白煙へ変える。
屋根の一角がまとめて崩れた。砕けた瓦が、何かに内側から押し裂かれたみたいに弾け飛ぶ。
「逃げ足が速いな……」
湿った低い笑い声が、土煙の向こうから滑ってきた。
「西へ?それとも東へ?」
別の声が、耳の膜をなぞるように通り過ぎる。
「どっちでもいい……どうせ死ぬ」
三つ目の声は低く、粘ついていて、喉の奥で煮えているみたいだった。
すべての頭が同時に土煙の奥から突き出た。
左の頭は怒りをにじませて唸り、歯を擦り合わせて耳障りな軋みを鳴らす。
右の狡猾そうな頭は、細かく喉を鳴らして笑っていた。
中央の陰気な頭は口を開き、暗赤の霧をゆっくり吐き出す。
その霧は口を離れた途端、空気そのものを湿って冷たいものへ押し潰した。
「気を逸らすな!」
ガサンは動じなかった。長刀を握り直すと、刀身の青い紋がかすかに灯り、符環が刃筋に沿って順に展開していく。
周囲の水気が薄い霧となってまとわりつき、風は刀身に沿って滑り、その霧を一本の細い線へと押し固めた。
「吠えるなら、最後まで吠えてろ――黙るな」
ガサンは刀を持ち上げ、低く押し殺した声でそう言った。
クシャハーの巨体が、屋根の向こうからゆっくりと起き上がる。それは飛び降りたというより、壁そのものが内側から凄まじい力で引き裂かれたように前へ崩れ、その崩落に押し出されるように巨大な蛇体が地上へ滑り落ちてきた。どす黒い粘液が、地面に長い筋を引いていく。
「先に食うって言っただろ!」
左の怒れる頭が、喉を裂くように叫びながら突き出た。
「駄目だ、先に殺す!」
右の陰気な頭が、さらに尖った声で割り込む。
「先に殺して、それから食う」
中央の狡猾な頭が、低い囁きを押し込むように漏らした。まるで耳元へ押し当てられた刃のような声だった。
三つの頭がほぼ同時に動く。合意のためじゃない。同じ獲物を、視線の中央で完全に固定するために。
次の瞬間、そいつは一気に飛びかかってきた。腐った臭いを帯びた気流が波みたいに押し寄せ、喉が本能的に強張る。
「左だ!」
タリスはほとんど怒鳴るように叫び、身体が先に動いた。炎剣が空中で半円を描き、そのまま地面へ突き立てられる。橙赤の火紋が一瞬で弾け、地表に弧を描く火の壁が立ち上がった。
クシャハーの蛇体がその炎へ叩き込まれる。粘液は高熱に煽られて激しく沸き立ち、耳を裂くような音を上げた。
焦げた黒煙が天へ噴き上がるが、それでもあの巨大な身体を完全に止めることはできない。
「正面から受けるな!」
ガサンは半歩、滑るように横へずれた。長刀を横に返すと、刀身の青紋が同時に灯る。空気中の水気が一気に引き寄せられ、刃の前で薄く密な霧の線へと圧縮されていった。
左の怒りの頭が猛然と突き出る。大口が開き、腐蝕の気配を帯びた粘液が一直線に放たれた。
「ひひ……隙だ」
狡猾な頭の声が、霧の下を這うように滑る。
次の瞬間、そいつはさらに押し潰すように来たのではない。崩れた壁の陰から側頸だけを折り出し、水霧の覆う角度を最初から読んでいたみたいに、ガサンの刀を握る手首めがけて一直線に噛みついてきた。
「喰らえ――!」
ガサンは腐蝕液をかわすのと同時に、刀を前へ送り出す。
風が刀の棟に沿って押し込み、あの水霧を極細の一本線へ圧し潰す。
背後から飛んできた粘液がその線に触れた瞬間、真っ二つに断ち切られ、左右へ炸裂した。
地面へ落ちた直後、そこにはいくつもの深い腐蝕孔が穿たれる。
その時にはもう、タリスは側面へ回り込んでいた。
炎剣を返し、剣先をクシャハーが落ちた影の縁へ向ける。狙いは蛇体そのものじゃない。退路を塞ぎ、あいつを狭い範囲へ閉じ込めることだった。
「アハハハハーーほら、また逃げてみろよ!」
タリスは口端を吊り上げ、挑発するように笑った。火の光が瞳の奥で跳ねる。
三つの頭が同時にそちらを向く。
「真似してる……」
狡猾な頭が、ふっと低く笑った。
「無駄……だ」
陰気な声が地面を這うように滑り、ひとつひとつの音節を石の隙間に押し込むみたいに遅く落ちていく。
「なら、乱してやれ!」
怒れる頭が勢いよく振り下ろされ、巨尾が横薙ぎに走る。
石畳が一面まとめて跳ね上がった。
タリスは衝撃に半歩押し戻され、火壁には無理やり裂かれたような綻びが生まれる。
ガサンの目が沈んだ。
一歩前へ出ると、もう一度刀を地面へ落とす。
今度は水気を刃の前へ集めるのではなく、地面そのものへ這わせた。石の継ぎ目をなぞるように流し、さっき腐蝕された裂け目をひとつ残らず埋めていく。
「二度目はやらせるな!」
湿って冷たい霧が、一瞬で路地全体へ広がった。
クシャハーが再び身体を落としてくる。だが着地した瞬間、ほんのわずかに均衡を崩した。
石の裂け目は水気で埋められ、鱗を引っかけて力を得るはずだった足場が、ぬめるように滑る面へ変わっていたのだ。
その半拍の遅れを、タリスは逃さなかった。崩れた壁の煉瓦片を踏み、蹴り上がる。炎剣が下から上へ、真っ直ぐ一本の赤い線を引いた。
火光が側鱗をかすめて走る。
「ひひひ……鼠がこっちの間合いを測ってる!」
狡猾な頭が、唐突に笑い声を上げた。
言い終わるより早く、陰気な頭がぐるりと向きを変える。
「引き離せ」
低い囁きが、壁面を舐めるように滑った。
次の瞬間、路地右側の壁一帯が蛇尾の一撃で貫かれた。煉瓦が崩れ、土煙が炸裂し、狭かった通路は無理やり横へ裂かれてしまう。
タリスは流れに乗って地面へ降り、そのまま転がった。
ガサンは逆に土煙の中へ踏み込み、刃を地表に沿わせて弧を描く。風は刃筋を押し流れ、湿った霧を低く伏せた一本の水線へ変えていく。
クシャハーは腹を引き絞りながら身を捻り、巨体を後ろへ跳ね退かせた――
逃げたんじゃない。
わざと、路地の先に残っていた最後の壁をぶち抜いたのだ。
轟音とともに、視界が一気に開けた。
土煙が晴れると、そこには半ば崩れた広場が広がっていた。砕けた石柱が横倒しになり、地面には無数の亀裂が走っている。
中央では干上がった噴水の台座が斜めに傾き、その周囲には建物の残骸が壁枠だけを残していた。
クシャハーはその中央でとぐろを巻いた。
三つの頭が同時に持ち上がる。
狭い路地の圧迫感は、もうなかった。
その代わりに広がっていたのは、身を翻すには十分すぎるほどの空間だった。
「ここからだ」
狡猾な頭が低く言う。
風が広場を横殴りに吹き抜けた。
最初に動いたのはタリスだった。
炎剣を高く掲げ、剣身に縦の火走りを奔らせながら、真正面からクシャハーへ斬りかかっていく。もう退路を塞ぐことは狙わない――ここには、追い込むための壁がない。
怒りの頭が即座に迎え撃った。
「来い!」
巨口が開く。
腐蝕の粘液が、雨のように降り注いだ。
それは噴き出すのではなく、広く撒き散らされ、腐臭を帯びた赤い雨のように広場へ降りかかる。
火とどす黒い液が空中でぶつかる。高熱の蒸気が一気に弾け、広場の中央で白い霧が渦を巻き、視界を丸ごと呑み込んだ。
ガサンの目は、あの霧を見据えていた
――狡猾な頭は、正面からは来ない。
「左――!」
言い終わるより先に、霧の中からどす黒い弧が斜めに切り出された。
粘液じゃない。
蛇の頸だ。
狡猾な頭が火霧の裏側から回り込み、地を這うような低い角度で横薙ぎに迫る。そのままガサンの脇腹へ食らいつこうとしていた。
ガサンは刀を下へ落とす。
風が刃筋に沿って炸裂した。
水霧が瞬時に横へ裂けるような流れへ変わり、蛇頸を無理やり半寸だけ押し逸らす。
タリスが反転して着地する。
「角度を変えてる!」
怒りの頭が再び前へ圧し出される。
同時に巨尾が横へ払われた。
今度はただの乱打じゃない――
連携だ。
石畳が尾撃で砕け、跳ねた破片が退路を塞ぐ。
そこでようやく、陰気な頭が口を開いた。
「もっと……遅く」
声が落ちる。
空気が急に重くなった。
胸の奥にまで絡みついてくるような、息苦しい圧だった。
ガサンは胸を何かに押さえつけられたように感じた。霧の流れが鈍り、水線の押し出しも半拍遅れる。
タリスの足が沈む。
「なんだ、これ――」
言い終える前に、
狡猾な頭がまた死角から弾け出た。
今度はさらにいやらしい角度だった。
噛みつくのではない。側頸を地面へ貼りつけたまま滑らせ、タリスが体重を預けている方の脚へぶつけにいく。
石面は濡れ、ひどく滑りやすくなっていた。
ただでさえ、タリスの重心はあの正体不明の圧で半拍遅れていた。そこへ、その一撃があまりにも正確に入り込む。
身体が傾く。
炎剣が空を切る。
「ひひ――捕まえた」
狡猾な頭の笑い声が、耳元に貼りつく。
「引き裂け!」
怒りの頭が即座に前へ出る。
巨口が開く。
喉の奥で腐蝕粘液が煮えたぎる。
タリスは体勢を戻しきれない。
――近すぎる。
ガサンが動く。
刀を地面すれすれで返し、そのまま刃を軌道にして風を一本の線へ導いた。さらに周囲の水気を一息に刃先へ集める。霧は極限まで薄く押し潰され、地を這う冷たい線へと変わった。
冷線が地表を薙ぎ払う。
持ち上がった湿霧が横へ流れる力となり、タリスの身体を半尺ぶん滑らせた。
粘液が落ちる。
さっきまでタリスがいた場所へ。
石畳は一瞬で陥没し、深い腐蝕孔が穿たれる。
タリスは二度、激しく転がってから砕けた柱へぶつかってようやく止まった。
その隙に、ガサンはもう踏み込んでいる。
刀を持ち上げ、一直線に切り込む。
最短距離まで詰め、長刀による連続斬撃を叩き込んだ。
一太刀目は、まだ戻りきっていない狡猾な頭の側頸をかすめる。
二太刀目は流れのまま押し下げ、めくれた鱗の継ぎ目にさらに裂け目を深く刻む。
三太刀目は横斜めに払い、その頸の側面の皮肉をまとめて引き裂いた。
鱗が飛ぶ。
暗紫の血が炸裂し、瓦礫と残壁へ飛び散って、焼けつくような音を立てた。
狡猾な頭が、押し殺したような甲高い悲鳴を漏らす。
「よくも――!」
怒りの頭が吠え、喉の奥で粘液が荒れ狂う。
血が地面へ落ちる前に、
裂け目がうごめき始めた。
肉膜が内側からめくれ上がる。まるで無数の暗赤の糸が同時に引かれているみたいに。
傷口の縁がみるみる縮み、
鱗が再び噛み合い、
しかも、さっきより厚みさえ増していく。
起き上がったタリスは、本来なら断たれているはずの頸が、数呼吸のうちに七割方まで戻るのを見た。
「はぁ!?回復速すぎだろ……!」
ガサンは無言のまま、刀を握る手にさらに力を込めた。
狡猾な頭が口元をぺろりと舐めた。笑い声は、骨を齧るように細かい。
「お前ら……切り裂けば勝ちだと思った?」
「続けるほど……遅くなる」
陰気な頭が、ひとつずつ言葉を吐く。
怒りの頭は咆哮しながら前へ圧をかけ、粘液を糸のように垂らした。
「なら、先にお前らの手を溶かしてやる!」
ガサンは答えない。
ただ刃先をほんのわずか一寸ぶんずらし、タリスが再び自分の影の内側へ立てるようにした。
同時に視線は、あの蛇体の中心線へ戻っていく――
なぜなら、狡猾な頭の目つきが変わったからだ。
そいつは刀を見ていない。火も見ていない。
見ているのは――「隙」だ。
蛇体が弓弦みたいに張り詰めた状態から、一気に弾けた。
最初に圧してきたのは怒りの頭だった。粘液は噴き出すのではなく、広く撒き散らされる。まるで腐蝕の雨幕が、二人まとめて覆い尽くそうとするみたいに。
タリスは反射的に剣を上げた。
火が爆ぜ、熱波が雨幕の縁を巻き上げる。だが粘液の量が多すぎる。何滴かは火の隙間を抜け、剣を握る手首めがけて飛んできた。
「受けるな!」
タリスの手首が震え、火勢がその数滴に押されて散りかける。
それでも彼は無理やり剣筋を下へ押し込み、火壁を「防ぐ」ものから「斜めに切る」ものへ変えた。最も濃い雨幕を片側へ流し、灼熱と腐蝕がぶつかった場所からは、布を裂くみたいな白煙と、途切れない嘶きが立ち上る。
だが、それでも一滴だけは火の隙間をすり抜け、真っすぐ彼の手首の外側へ落ちた。
皮膚が一瞬で泡立つ。
痛みが針のように骨まで刺さる。
タリスは歯を食いしばった。剣を握る手は離さない。ただ、本能で半寸だけ引いた。
その半寸――
狡猾な頭が笑った。
声にはしない。口元の鱗が、ほんのわずか引きつっただけだ。
まるで「捕まえた」と言うみたいに。
蛇体がそのままさらに捻れ、全身を地に貼りつけたまま不気味な弧を描いて滑る。火へも刀へも向かわない。狙いは、さっき雨幕が作った二人のあいだのわずかな裂け目だった。
中央の狡猾な頭が、ぐっと縮んでから吐き出す。
地を這う極細の暗赤線が、釣り糸みたいにぴくりと震え、一瞬でタリスの足首へ巻きつこうとした。
切るためじゃない。
――引っかけるために。
「この陰険野郎!」
タリスは一歩退こうとした。だが足元は、その細線に強引に引かれ、重心ごと側方へ持っていかれる。炎剣の軌道が一寸ぶんずれた。
一寸で十分だった。
怒りの頭が即座に圧してくる。巨口が開き、喉の奥で粘液が煮え立つ。狙いは明らかだった――剣を握るその手を、先に溶かす。
「ばらせ」
陰気な頭の声が、ゆっくり落ちてきた。宣告みたいに。
「タリス!身を切れ!」
「えっ、ああ!」
タリスは一瞬遅れた。だが反応したのは身体の方が先だった。肩を強く引き、腰をひねり、靴先で砕石を軋ませながら半歩ぶん身体をずらす。
炎剣もその動きに合わせて胸前を横切り、本来なら真正面から受けるはずだった線から身を外した。
ガサンは細線の根元を追わず、そのまま刀尖を地面へ点じた。石面を撫でるようにひと抹りすると、さっき敷いた湿気が瞬時に低く伏せた水紋の輪へ変わる。高くはない。
だが、急にせり上がる段差のように、地を這うどす黒い線を強引に浮かせるには十分だった。
細線が持ち上がった瞬間、鋭い音が弾けた。空気まで焼けつくような、嫌な響きだった。
足首に絡みついていた感触が消える。
タリスは崩れかけた体勢を引き戻した。
怒りの頭は、もう眼前まで迫っていた。
手首には、さっき雨幕を受けかけた痺れがまだ残っている。
タリスは炎剣を内へ引き、剣身を前腕に沿わせるように小さく返した。自分の手首を火の影へ隠し、そのままさらに半歩だけ脚を引いて、粘液に狙われた線を外す。
ガサンの刀勢は止まらない。
そのまま刃を返し、下から上へ斬り上げる。押し込んできた拍子に露出した頸腹の柔らかい鱗を、正確に掬い上げた。
刀光が擦れる。
鱗に裂け目が走る。
どす黒い血が噴き、地面へ落ちるなり煙を上げた。
タリスはすぐに踏み込んだ。ガサンが首を断ちにいっていないことは、もう分かっている。狙いは痛みだ。
あの頭の狙いを、ほんの一瞬でも狂わせるための一撃だった。
タリスも蛇体を断とうとはせず、裂け目の外側を炎剣でひと撫でする。火が傷縁へ熱を打ち込み、柔らかい鱗が反射的に縮んだ。そのぶん、怒りの頭の振り下ろしもほんの一瞬だけずれる。
「痛ぇ!!」
怒りの頭がたまらず動きを止める。
粘液の落下点は半尺ぶん逸れ、広場の端にあった砕けた石柱へ直撃した。柱身には一瞬で大穴が穿たれ、轟音とともに一部が崩れ落ちる。
「今だ!」
タリスはもう笑っていなかった。
ガサンが切り開いたその隙間へ踏み込み、炎剣を蛇体の外側に沿わせて斜めに走らせる。めくれた傷口を、そのまま焼けた赤い線として焼き固めるつもりだった。熱が深く押し込まれ、どす黒い血が押し戻される。
酸味と甘みが混じったような白煙が噴き上がった。
「閉じさせるな――!」
ガサンの声は低い。だが、釘のように鋭く刺さった。
彼は刀を止めず、タリスの火を目隠しにしながらさらに半歩詰めた。長刀の連撃は一本の中心線へ集まり、再生しかけた箇所へ容赦なく重なっていく。
蛇体が不意に縮む。
後ろへ逃れたわけじゃない。全身の力を一度、内側へ引き絞ったのだ。
狡猾な頭の笑いが、煙の奥から滑ってくる。まるで背後で弦を限界まで引き絞ったように。
「ひひ……やっと――」
そいつは全身を逆方向へ捻り、尾端を鞭のようにしならせて二人の足元の裂け目へ叩き込んだ。
石面が爆ぜる。
跳ね上がった砕石が、雨のように降り注いだ。
ガサンは切っ先で地面を突き、水気を一気に引き上げる。地表すれすれに薄膜が生まれ、そのおかげで飛石の鋭さが半分ほど殺された。
タリスは腕を上げて一度受けた。護腕が火花を散らし、彼は歯を食いしばって半歩退く。だが、炎剣はすぐに構え直した。
怒りの頭は、もう目前まで迫っていた。腐ったような熱気が顔面へ叩きつけられる。
口が開く。
今度は雨幕じゃない。
さらに濃く、さらに粘る、どす黒い一線だった。火さえ溶かしそうなほど重い。
「気をつけろ!」
ガサンが叫ぶ。
彼は傍らの折れた石柱へ跳び移り、身を寄せるようにしてから刀を斜めに差し込んだ。
下から上へ、もう一度、あの頸腹の軟鱗だけを掬い上げるように斬る。
吐き出す角度を、ほんのわずかでも狂わせるためだった。
刀光が走った瞬間、血と粘液が同時に飛び散り、地面へ落ちてじゅうじゅうと音を立てた。
タリスは、その半拍の空白を逃さなかった。
炎剣を一気に前へ押し込む。
焼けた楔のように、そいつが口を開いているその軌道へ、強引に打ち込んだ。
「その臭ぇ口、閉じろ!」
怒りの頭が咆哮し、蛇体全体がぎしりと張り詰める。まるで広場そのものを狩場に変えようとしているみたいだった。
「先に……お前らの手を溶かす!」
言い終わるより早く、蛇体は内側へきつく締まり始めた。全身が前へ圧し込むのではなく、内へ内へと力を溜めていく。さっき尾で作った地面の裂け目を支点にし、身体全体が絞索みたいに一周ねじれた。
怒りの頭が吐き出したどす黒い一線は、そこで一気に太さを増し、粘度を膨らませ、真っすぐタリスの炎剣へ叩きつけられる。
火は一瞬で押し潰された。消えたわけじゃない。粘液に包まれ、鈍い嘶きだけを漏らしている。
タリスの手首が激しく震えた。その力は水みたいな流れじゃない。泥のように重く、剣そのものを下へ引きずり込んでいく。
「耐えろ!」
ガサンはもう斬り上げない。折れた石柱を蹴って飛び降り、横薙ぎに刀を振る。狙ったのは頭でも頸でもなかった。いま張り詰めている尾端そのものだ。
刀光が鱗列へ食い込んだ瞬間、蛇尾がびくりと痙攣する。全身を通っていた力の連鎖が、一瞬だけ断ち切れた。
その拍子に、どす黒い一線の圧がわずかに緩む。
タリスは炎剣を力づくで持ち上げた。押し潰されていた火が再び噴き上がり、今度は粘液の表面を逆流するように燃え返る。
まるで敵の攻撃そのものを燃料に変えたみたいに、その火は赤線を伝って開いた喉の奥へ突っ込んでいった。
怒りの頭が鋭い悲鳴を上げる。
「真正面からやるな――」
陰気な頭の声は、さらに低く沈んだ。
だが、狡猾な頭はもう反対側へ回っていた。助ける気配はなく、第二の隙間を探るように蛇体が再び滑り出す。退くためではなく、角度を変えるためだった。
ガサンは着地し、刀をわずかに垂らしたまま、火勢には目もくれず移動し続けるあの狡猾な頭だけを追っていた。
そこにあるのは痛みじゃない。ただ冷えた計算だけで、あの最も厄介な頭を好きに動かせば、次の「ばらせ」で本当に二人は引き裂かれる。
タリスは口元を手の甲で拭い、汗と灰を擦りつけた。
それでも笑みだけは無理やり残したまま、横目でガサンがまだ立っているのを確かめるみたいに、あるいはわざと声を外へ投げて、湿った圧迫感を胸の中だけに籠もらせないようにするみたいに口を開く。
「なあ、隊長……今回は、あの時よりきつそうだな!アハハハハーー」
笑い声は廃墟の壁にぶつかり、乾いた空洞みたいな反響になって返ってきた。
ガサンは振り返らない。ただ刀をもう一寸だけ下へ押し、地面を這う水気をさらに安定させる。
その動きは、二人の足元へ滑らない道を敷くみたいだった。
「あの時の話はするな」
声は低い。けれど叱責ではなく、タリスにも自分にも向けた忠告のように響いた。
タリスは肩をすくめた。笑みは消さないが、声量だけは落とす。何かを刺激しないようにするみたいに。
「え?まだ根に持ってんのかよ。あの時だって、俺は別にわざと――」
「根に持ってるんじゃない」
ガサンはようやく一瞬だけ彼を見た。
位置を合わせるには十分すぎるほど短い視線だった。
「時間を計ってるだけだ」
タリスは一度だけ瞬きをした。笑いは半拍だけ途切れたが、すぐに喉の奥へ押し戻される。
「……まあ、そうか。あの時はまだ壁も、道も、退ける場所もあった。けど今回は――」
そこまで言いかけて、視線が自然とあの狡猾な頭へ滑った。
「今回は、あいつが自分で道を壊してくる」
狡猾な頭は聞こえていたみたいに、口端の肉膜をかすかに持ち上げる。薄く、嘲るような吐息が漏れた。
ガサンは刀柄をさらに強く握り込んだ。指節が白くなる。タリスに「あの時」を最後まで言わせなかったのは、自分でも分かっている。過去をはっきり言葉にした瞬間、心の方が先に退くからだ。
「話すなら、生き残ってからにしろ」
タリスはにやりと口端を上げ、炎剣の火勢をまっすぐに戻した。その動きは、乱れた呼吸まで一緒に引き戻していくみたいだった。
「いいぜ。じゃあ先に生き残る」
そう言いながら、彼はそっと半歩だけガサンの影へ寄る。それは、あの時の教訓を行動で認めているみたいだった。
「でも隊長……あの時、お前も言ったよな?」
ガサンは答えない。
それでもタリスは、自分でその続きを口にした。声は低く、さっきよりずっと本物に近い。
「『俺に振り向いて探させるな』って」
その言葉は、二人が共有しているどこかの記憶へ、釘みたいに深く打ち込まれる。
ガサンの呼吸が半拍だけ止まり、それからまた静かに戻った。
「……だから今回も、同じだ」
低く言って、
「二度目は、助けに回らせるな」
タリスは「アハハ」と短く笑った。さっきよりも短く、何かを噛み砕くみたいな笑いだった。
「ほんと冷てぇな」
炎剣を横へ払うように構え直し、立ち位置をきっちり定める。
「分かったよ。じゃああの時と同じ分担でいこうぜ――お前は狡猾を縛れ。俺は怒ってる方の口を焼く。陰気なやつは……」
最後まで言い切る前に、狡猾な頭の目線がまたわずかにずれた。
まるで三つ目の隙間を、ついに見つけたみたいに。
ガサンの刃先がわずかに上がる。地表では水気が音もなく流れ、先に閉じる網みたいに広がっていく。
「来る!」
そう言ったのは、その二文字だけだった。
言葉が落ちた、その瞬間ーー
狡猾な頭がぴたりと止まる。
飛びかかってもこない。噛みついてもこない。ただ、その場で凍りついたみたいに静まり返った。
その不気味な静けさの方が、どんな攻撃よりも危なかった。
蛇体全体が内側へ収束し、三つの頭の位置が同時にわずかずつずれていく。まるで、今まさに網を締めにかかる弓のようだった。
怒りの頭は口を開いたままなのに、粘液を吐かない。
陰気な頭も、もう声を発しない。
狡猾な頭の瞳孔だけが、一本の細い線へと縮んでいく。
直後、蛇体が突然、地面へ向かって叩き潰されるように沈んだ。
尾端が裂け目の中心を激しく打つ。広場一帯がめくれ上がるように揺れ、石片が輪を描いて跳ねた。地表は耕されたみたいに半寸ずれ、噛み合いを失っていく。
その一撃で、さっきまで安定していた水気の流れが乱された。二人の足元を支えていた線が、まとめて崩される。
「あいつ、足場ごとひっくり返す気だ――!」
最初に気づいたのはタリスだった。
言い終える前に、蛇体はその揺れを利用して跳ね上がる。
真っ直ぐじゃない。斜め上から、交差するように食い込んできた。
狡猾な頭はガサンの刀筋を外れるように高い角度へ入り、怒りの頭は真正面から圧をかけて、タリスに炎剣を上げさせる。
ガサンは刀を横へ流し、そのままタリス側へ一歩詰めて、二人の距離を三歩以内へ戻した。
タリスはもう理解していた。炎剣は正面から受けず、側面へ払って怒りの頭の押し込み角度を狂わせる。
その一掃と同時に、ガサンの刀が狡猾な頭の落ちてくる一点へ突き入った。
狙いは頭そのものじゃない。着地の瞬間、そいつが必ず力を借りるその一寸の空間へ、先回りして刃が置かれていた。
狡猾な頭の目が、初めてほんの少しだけ変わる。
今回は、もう隙がなかった。
狡猾な頭は最後の最後で頸を縮め、全身を半寸だけ強引に押しずらした。
そのせいで、本来なら前へ落ちるはずだった陰気な頭が、刀筋の中へ押し込まれる。
刀はすでに落ちていた。
「アアアアーーッ!」
絶叫が炸裂する。
声の主は、陰気な頭だった。
刀は下顎から斜め上へ走り、鱗を裂き、血霧を噴き上げさせる。頸の側面に深い裂傷が開き、肉膜がめくれ、暗紫の血が裂け目から垂れて地面で煙を上げた。
怒りの頭が勢いよく振り返る。
「てめぇ――!」
その視線は狡猾な頭へ向けられていた。
狡猾な頭はもう外側へ滑っている。口端の肉膜がかすかに上がっていて、まるで何も起きていないみたいだった。
陰気な頭の呼吸が乱れる。声は途切れ、傷口はまだうごめいているのに、今度はすぐには閉じない。
蛇体のリズムが崩れた。
タリスはその空拍へ踏み込み、炎剣を横薙ぎに振る。傷口の縁を直撃し、まだ閉じきっていない肉膜をさらに一寸ぶん裂いた。
「仲間まで押し込むのかよ!」
火が傷口へ入り、焦げた煙が噴き上がる。
蛇体全体が激しくうねった。
そこでようやく、狡猾な頭が低く笑う。
「口が一つ減るだけだ」
火はまだ傷口の縁で燃え続けている。
ガサンとタリスの視線は、同時に狡猾な頭へ落ちた。
その笑いが、ひどく気持ち悪い。
陰気な頭の吐息が、ふいに止まった。
もう声も出さない。だが血を垂らしながら、その呼吸だけが妙に深くなっていく。まるで何かを吸い込んでいるみたいだった。
その一息に合わせるように、蛇体全体がぎりぎりと締まり始める。主幹の筋肉が層ごとに硬く盛り上がり、鱗の継ぎ目から細かな圧縮音が漏れた。
「まさか!」
狡猾な頭は後ろへ滑ろうとした。だが頸が突然硬直する。外から押さえつけられたわけじゃない。身体の内側から、脊椎ごと強引に固められている。力は逆流し、主幹へ呑み返され、もう動けない。
「おま――」
言い終わる前に、陰気な頭が噛みついた。
牙はそのまま狡猾な頭の側頸へ深く食い込む。怒鳴り声はない。ただ、骨の割れる音だけがはっきりと響いた。
タリスの笑みが凍りつく。
「……何やってんだ、こいつ」
狡猾な頭は狂ったように暴れた。だが蛇体全体が、それを逆に締め上げている。陰気な頭は引き裂かない。
喰い始めたのだ。
喉が一寸ずつ膨らみ、あの頭を内側へ押し込んでいく。
血が蛇体の紋様に沿って流れ落ちる。その色は次第に深まり、どす黒い紫が鱗の下へ染み込むように広がっていった。
「や、やめ――」
蛇体全体が、何か別の強制的な秩序に支配されたみたいだった。広場に残るのは、はっきりとした嚥下音だけ。狡猾な頭の声は喉の途中で途切れ、そのまま消える。
陰気な頭は止まらない。
次は怒りの頭へ向き直った。
今度の抵抗はさらに激しい。怒りの頭は咬み返そうと吠えるが、主幹はさらに締まり、頸骨そのものが圧し潰されるような音を上げた。
「く……!」
何か言おうとしても、もうその隙すら残されていない。
牙が食い込み、骨が砕け、血霧が飛び散る。
やがてその頭も喉へ押し込まれ、最後の頸骨が滑り落ちた瞬間、嚥下音が短く途切れた。
蛇体はその直後、急激に膨れ上がる。
高さが増し、筋肉が組み替わり、鱗が裏返るように変質していく。鉄灰色だった外殻はどす黒い紫へ完全に染まり、血紅の流体が紋路の下を奔っていた。まるで皮膚の内側で、別の鼓動が目を覚ましたみたいに。
三つ首だった場所には、もう一つの頭しか残っていない――陰気な頭だ。
そいつはゆっくりと顔を上げ、ガサンとタリスを順に見た。
そこにはもう、嘲りもない。激昂もない。ただ、冷たく研ぎ澄まされた飢えだけがあった。
「自分で、自分を食ってる……?」
タリスはその狂気じみた光景に目を見開いたが、すぐにガサンへ振り向く。
「こいつら勝手に内輪揉めしてくれて、だいぶ楽になったな! アハハハハーー」
「……違う」
ガサンの視線は、膨れ続けるその蛇体から一瞬も離れない。
内輪揉めなんかじゃない。
頭の奥で、ほとんど埃をかぶっていた記憶が急に鮮明になる.....
禁忌魔獣図鑑には、かつてこう記されていた――
三首、互いに喰らう
主幹は一を選ぶ
生けるもの王となり、
残るものは糧となる
すべてを喰らい終えし時、
「完全体」と成る
そこまで思い至った瞬間、ガサンの刀を握る手が無意識に締まった。
指節が少しずつ白くなり、掌は柄に押しつけられて痛みを帯び、背にはじわりと冷汗がにじんでいく。
ただ緊張しているわけじゃない。
もっと理性より前にあるものだ。
思考より先に身体の方が察してしまっている。目の前の存在が、決して踏み込んではいけない領域へ、いま足を踏み入れようとしていることを。
ようやく分かった。
何がおかしかったのか。
三つの頭は均衡なんかじゃない。
あれは、ただの過程だ。
本当の脅威は最初から「三」ではない。
「一」だ。
蛇体の膨張は、まだ続いている。
ばらばらだった気配が、いまひとつの軸へ集まっていく。互いに牽制し合っていた力はもうぶつかり合わず、一本の中軸へと収束していく。
どす黒い紫の艶が鱗を伝い、血紅の流体が紋路の下を奔る。それはまるで、別の心臓が体内で目を覚ましたみたいだった。
「おい……隊長?」
タリスの笑みが、ゆっくり消える。
ガサンはすぐには答えなかった。
呼吸が一瞬だけ乱れる。刀を握りすぎたせいで虎口が痺れているのに、それでも目だけは、あの唯一残った頭からどうしても離せなかった。
「弱くなったんじゃない……」
陰気な頭が、ゆっくり持ち上がる。
その目には、もう何もない。
嘲りも、怒りも、痛みさえもなく、残っているのは純粋な捕食本能だけだった。
広場全体の風圧が、すっと沈む。
そしてガサンは、ついにその名を口にする。
「……あれは、バリシャハだ」
>ここまで読んでくださりありがとうございます。
今回の戦闘では、クシャハーの三つの頭がそれぞれ異なる性質を持ち、連携しながら二人を追い詰めていく姿を描きました。
タリスとガサンのやり取りには過去の記憶が滲み、彼らの絆や覚悟が試される場面でもありました。
「二度目は助けに回らせるな」という言葉が象徴するように、互いの立ち位置を確かめ合いながら戦う姿は、物語の大きな転換点となっています。
次回以降も緊張感と熱を保ちつつ、さらに深い展開へと進んでいきますので、ぜひ楽しみにしていただければ嬉しいです。




