幕間の十一・消えずにいろ──父と子
>本編では、すでにピカの死が明かされています。
そしてその死は、やがて攻撃術式の解封へと繋がっていきました。
この幕間で描かれるのは、それより少し前の時間――
あの重い会議のあと、父と子の心がほんのわずかに近づいていた、名もないひとときです。
結末を知ったあとだからこそ、見えてくるものがあれば嬉しいです。
重い扉が閉まる音が、石造りの廊下に低く響いた。
四大貴族の会議は終わったはずなのに、空気の張りつめ方だけはまだ何ひとつ解けていない。
壁際に灯る魔導灯の淡い光が床を細長く照らし、その下を行き交う影は皆、言葉を失ったように足早だった。
ピカは口の中で小さく舌打ちした。
胸の奥がむず痒いように熱く、けれどその熱をどう扱えばいいのか分からない。
さっき自分が口を挟んだ瞬間の空気の冷え方も、黒いローブの男が何も言わずに視線だけを寄越してきたことも、全部まだ喉のあたりに引っかかっていた。
それでも、間違ったことを言ったとは思えなかった。
いや、思いたくなかった。
前を歩く者たちの気配が遠のいていく中、背後から低い声が落ちる。
「……来い」
ピカの肩がぴくりと揺れた。
振り向かなくても分かる……
その声は短く、冷たく、余計な感情を一切挟ませない。
ノーラントンだった。
ピカは一瞬だけ唇を噛み、それからふてくされたように肩をすくめる。
「……何だよ」
「聞こえなかったのか」
その一言に、ピカは舌の先まで出かかった反発を無理やり飲み込んだ。
父の前では、昔からこうだった。
言い返そうと思っても、その声が落ちてきた瞬間、胸のどこかが勝手に固くなる。
ノーラントンは振り返りもせず、廊下脇の細い外廊へと歩を向けた。
開け放たれた縦長の窓の向こうでは、夜風が城壁のあいだを抜け、遠くの空に重く垂れこめた雲をゆっくり押していた。
今にも降り出しそうな空だった。
ピカは数歩遅れてそのあとを追う。
誰もいない外廊に出ると、ノーラントンはようやく足を止めた。
灯りは弱く、壁に落ちる影だけが長い。
沈黙が先に落ちた。
それだけで、叱責はもう半分始まっている。
「……で」
ピカが先に口を開いた。
じっとしているほうが落ち着かない。胸の中でまだ燻っているものを押し込めるには、黙っているには熱すぎた。
「何だよ。俺、そんなに変なこと言ったか?」
ノーラントンはすぐには答えなかった。
横顔は暗がりに沈み、目元の影が深い。
だがその沈黙の長さそのものが、言葉より先に重くのしかかる。
「二度と、ああいう場で口を挟むな」
低く、切るように言った。
「はあ?」
「聞こえなかったのか」
「聞こえたよ!」
ピカの顔がかっと熱くなり、声が思わず大きく跳ねた。
その反響が石壁に当たって戻り、自分の苛立ちを余計に耳の奥へ刺してくる。
「でも、俺は間違ったこと言ってないだろ。父上の言うことが正しいって、そう思ったから言っただけだ」
「思ったことを、そのまま口にしていい場所ではない」
「じゃあ黙って立ってろってのかよ!」
ピカは一歩前へ出た。
胸元の偽物の宝石のブローチが、揺れた灯りを受けて薄っぺらく光る。
自分でも似合っているとは思わない。けれど今日は、少しでも大人に見られたかった。
父の隣に立っても、ただの子どもには見えないように。
「俺だって分かってる! あの場が軽くないことくらい! でも、みんな顔色うかがってるだけじゃねえか。あんなの、誰かが言わなきゃ何も動かねえだろ!」
言い切ったあと、呼吸が荒くなる。
半分は本心で、半分は勢いだった。自分でも、どこまでが正しさでどこからが意地なのか分からない。
ノーラントンは正面からその言葉を受けたまま、わずかに目を細めた。
「分かっていない」
たったそれだけだった。
ピカの喉が詰まる。
その一言は、怒鳴られるよりもきつかった。
「……何がだよ」
「お前は、自分がどこに立っているのかを分かっていない」
「何だよ、それ」
「言葉の重さも、場の重さも、自分の脆さもだ」
最後の一語に、ピカの眉がぴくりと吊り上がる。
「脆いって何だよ」
「そのままの意味だ」
冷淡な返しだった。
だがその冷たさの奥に、妙に硬いものがあるのを、ピカはうまく言葉にできなかった。
「お前に足りないのは度胸じゃない」
ノーラントンの声が低く続く。
「自分がどれほど簡単に壊れる側にいるのかを知る頭だ」
その言葉は真正面から胸に刺さった。
ピカは反射的に奥歯を噛みしめる。
「……壊れる側?」
「そうだ」
「俺が?」
「そうだ」
あまりにも迷いなく言われて、逆に笑いそうになった。
いや、笑うしかなかった。怒りと情けなさがごちゃついて、変な熱が顔に集まる。
「父上は、結局それだ」
吐き捨てるように言う。
「俺が何言っても、何しようとしても、危ないだの未熟だの、そうやって押さえつける。あんたにとって俺は、いつまでたっても半端者なんだろ」
ノーラントンの表情は変わらない。
変わらないのに、その沈黙が少しだけ深くなった気がした。
「父上の言うことが正しいと思ったから、味方しようとしただけだ」
その一言だけは、勢いではなく出た。
外廊を抜ける風が、二人のあいだを通り抜けた。
灯りが揺れ、影の輪郭がかすかに歪む。
ノーラントンはしばらく何も言わなかった。
その沈黙に耐えきれず、ピカが顔をそむけかけたとき、不意に父の手が伸びた。
思わず身を引こうとしたが、その指先は胸ぐらをつかむでも肩を押すでもなく、胸元に触れた。
偽物の宝石のブローチが斜めにずれていた。ノーラントンはそれを無言のまままっすぐに直す。
その手つきは驚くほど静かで、乱暴さがなかった。
「なっ……」
ピカの息が止まる。
「背伸びをするな」
低く落ちた声は、やはり厳しい。
けれどその指先は、壊れものを扱うみたいに一瞬だけ軽かった。
「壊れる」
ピカは何も言えなかった。
胸の奥で、さっきまで燃えていた反発が別の熱に変わっていく。
怒りなのか、悔しさなのか、分からない。ただひどく落ち着かなかった。
反射的にそれをごまかすように、ピカは上着の脇を乱暴につかんだ。
その拍子に、上着のポケットから小さな包み紙が半分ほど覗く。
ノーラントンの視線がそこへ落ちた。
潰れかけた紙包みの端から、ほのかに甘い香りが湿った夜気の中へ滲み出る。
「……何だ、それは」
ピカは一瞬だけ肩を強ばらせ、すぐに顔をしかめた。
「別に。昨日、もらっただけだ」
ぶっきらぼうに言いながら、奪われまいとするようにポケットを押さえる。
だが包みはすでに押し潰されていて、角のあたりから甘い生地が少しだけ崩れていた。
ノーラントンはしばらく黙ってそれを見ていたが、やがて短く息を吐いた。
「……お前は」
その声は呆れたようでいて、怒気とは少し違っていた。
「そんなものをポケットに押し込んだまま、あの場に立っていたのか」
ピカの頬がまた熱くなる。
うまく言い返せず、ただ唇を尖らせた。
「別にいいだろ……」
その言い方は強がっているのに、どこかひどく子どもじみていた。
ノーラントンはそれ以上責めなかった。ただ一瞬だけ目を伏せ、それから静かに手を離す。
「目立とうとするな」
その声は低く、硬い。
「……」
「消えずにいろ」
ピカの喉がひくりと動いた。
叱責の続きみたいな口調だった。
優しさなんてどこにもない。
慰めもない。
なのに、その短い一言だけが、妙に胸の奥へ沈んでいく。
ピカは視線を逸らした……
理解したくなかった。
したら……負ける気がした。
「……父上は、ほんとそういう言い方しかしないんだな」
小さく吐き出す。
ノーラントンは答えなかった。
窓からまた風が吹いた。
空の色はさらに重く、遠くでかすかに雷鳴のようなものが転がった気がした。
ピカは唇を引き結び、踵を返す。
その背中に、もう声はかからない。
「……」
数歩進んだあと、彼はほんのわずかに立ち止まった。
振り向きはしない。
「……俺は、あんたみたいにはならねえよ」
それだけ言い残して、今度こそ歩き去る。
ノーラントンは追わなかった。
ただその背を見つめたまま、指先をわずかに握り込む。
先ほど胸元に触れた感触だけではない。あの潰れた甘い包み紙の感触まで、まだ指先に残っているようだった。
やがて廊下の向こうへ息子の姿が消える。
ノーラントンは一度だけ目を閉じた。
それから、誰にも聞こえないほど低い声で呟く。
「……それでいい」
沈黙はすぐに戻った。
だが揺れる灯りの下、外廊に残ったその影だけは、しばらく動かなかった。
>最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
言葉は少なくても、態度や沈黙の中にしか出せないものもあるのだと思います。
今回は、噛み合わないまま終わる父と子のやり取りの中に、ほんのわずかに残る温度を書いてみました。
強さとも優しさとも言い切れない、そんな不器用な関係が少しでも伝わっていたら嬉しいです。
(´◡‿ゝ◡`)




