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失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編
51/61

幕間の十一・消えずにいろ──父と子

>本編では、すでにピカの死が明かされています。


そしてその死は、やがて攻撃術式の解封へと繋がっていきました。


この幕間で描かれるのは、それより少し前の時間――


あの重い会議のあと、父と子の心がほんのわずかに近づいていた、名もないひとときです。


結末を知ったあとだからこそ、見えてくるものがあれば嬉しいです。


重い扉が閉まる音が、石造りの廊下に低く響いた。


四大貴族の会議は終わったはずなのに、空気の張りつめ方だけはまだ何ひとつ解けていない。

壁際に灯る魔導灯の淡い光が床を細長く照らし、その下を行き交う影は皆、言葉を失ったように足早だった。


ピカは口の中で小さく舌打ちした。


胸の奥がむず痒いように熱く、けれどその熱をどう扱えばいいのか分からない。

さっき自分が口を挟んだ瞬間の空気の冷え方も、黒いローブの男が何も言わずに視線だけを寄越してきたことも、全部まだ喉のあたりに引っかかっていた。

それでも、間違ったことを言ったとは思えなかった。


いや、思いたくなかった。


前を歩く者たちの気配が遠のいていく中、背後から低い声が落ちる。


「……来い」


ピカの肩がぴくりと揺れた。


振り向かなくても分かる……


その声は短く、冷たく、余計な感情を一切挟ませない。

ノーラントンだった。


ピカは一瞬だけ唇を噛み、それからふてくされたように肩をすくめる。


「……何だよ」


「聞こえなかったのか」


その一言に、ピカは舌の先まで出かかった反発を無理やり飲み込んだ。


父の前では、昔からこうだった。

言い返そうと思っても、その声が落ちてきた瞬間、胸のどこかが勝手に固くなる。


ノーラントンは振り返りもせず、廊下脇の細い外廊へと歩を向けた。


開け放たれた縦長の窓の向こうでは、夜風が城壁のあいだを抜け、遠くの空に重く垂れこめた雲をゆっくり押していた。

今にも降り出しそうな空だった。


ピカは数歩遅れてそのあとを追う。

誰もいない外廊に出ると、ノーラントンはようやく足を止めた。

灯りは弱く、壁に落ちる影だけが長い。


沈黙が先に落ちた。

それだけで、叱責はもう半分始まっている。


「……で」


ピカが先に口を開いた。


じっとしているほうが落ち着かない。胸の中でまだ燻っているものを押し込めるには、黙っているには熱すぎた。


「何だよ。俺、そんなに変なこと言ったか?」


ノーラントンはすぐには答えなかった。


横顔は暗がりに沈み、目元の影が深い。

だがその沈黙の長さそのものが、言葉より先に重くのしかかる。


「二度と、ああいう場で口を挟むな」


低く、切るように言った。


「はあ?」


「聞こえなかったのか」


「聞こえたよ!」


ピカの顔がかっと熱くなり、声が思わず大きく跳ねた。

その反響が石壁に当たって戻り、自分の苛立ちを余計に耳の奥へ刺してくる。


「でも、俺は間違ったこと言ってないだろ。父上の言うことが正しいって、そう思ったから言っただけだ」


「思ったことを、そのまま口にしていい場所ではない」


「じゃあ黙って立ってろってのかよ!」


ピカは一歩前へ出た。

胸元の偽物の宝石のブローチが、揺れた灯りを受けて薄っぺらく光る。

自分でも似合っているとは思わない。けれど今日は、少しでも大人に見られたかった。

父の隣に立っても、ただの子どもには見えないように。


「俺だって分かってる! あの場が軽くないことくらい! でも、みんな顔色うかがってるだけじゃねえか。あんなの、誰かが言わなきゃ何も動かねえだろ!」


言い切ったあと、呼吸が荒くなる。


半分は本心で、半分は勢いだった。自分でも、どこまでが正しさでどこからが意地なのか分からない。

ノーラントンは正面からその言葉を受けたまま、わずかに目を細めた。


「分かっていない」


たったそれだけだった。


ピカの喉が詰まる。

その一言は、怒鳴られるよりもきつかった。


「……何がだよ」


「お前は、自分がどこに立っているのかを分かっていない」


「何だよ、それ」


「言葉の重さも、場の重さも、自分の脆さもだ」


最後の一語に、ピカの眉がぴくりと吊り上がる。


「脆いって何だよ」


「そのままの意味だ」


冷淡な返しだった。


だがその冷たさの奥に、妙に硬いものがあるのを、ピカはうまく言葉にできなかった。


「お前に足りないのは度胸じゃない」


ノーラントンの声が低く続く。


「自分がどれほど簡単に壊れる側にいるのかを知る頭だ」


その言葉は真正面から胸に刺さった。

ピカは反射的に奥歯を噛みしめる。


「……壊れる側?」


「そうだ」


「俺が?」


「そうだ」


あまりにも迷いなく言われて、逆に笑いそうになった。

いや、笑うしかなかった。怒りと情けなさがごちゃついて、変な熱が顔に集まる。


「父上は、結局それだ」


吐き捨てるように言う。


「俺が何言っても、何しようとしても、危ないだの未熟だの、そうやって押さえつける。あんたにとって俺は、いつまでたっても半端者なんだろ」


ノーラントンの表情は変わらない。

変わらないのに、その沈黙が少しだけ深くなった気がした。


「父上の言うことが正しいと思ったから、味方しようとしただけだ」


その一言だけは、勢いではなく出た。


外廊を抜ける風が、二人のあいだを通り抜けた。

灯りが揺れ、影の輪郭がかすかに歪む。


ノーラントンはしばらく何も言わなかった。

その沈黙に耐えきれず、ピカが顔をそむけかけたとき、不意に父の手が伸びた。


思わず身を引こうとしたが、その指先は胸ぐらをつかむでも肩を押すでもなく、胸元に触れた。


偽物の宝石のブローチが斜めにずれていた。ノーラントンはそれを無言のまままっすぐに直す。

その手つきは驚くほど静かで、乱暴さがなかった。


「なっ……」


ピカの息が止まる。


「背伸びをするな」


低く落ちた声は、やはり厳しい。

けれどその指先は、壊れものを扱うみたいに一瞬だけ軽かった。


「壊れる」


ピカは何も言えなかった。

胸の奥で、さっきまで燃えていた反発が別の熱に変わっていく。

怒りなのか、悔しさなのか、分からない。ただひどく落ち着かなかった。


反射的にそれをごまかすように、ピカは上着の脇を乱暴につかんだ。


その拍子に、上着のポケットから小さな包み紙が半分ほど覗く。

ノーラントンの視線がそこへ落ちた。


潰れかけた紙包みの端から、ほのかに甘い香りが湿った夜気の中へ滲み出る。


「……何だ、それは」


ピカは一瞬だけ肩を強ばらせ、すぐに顔をしかめた。


「別に。昨日、もらっただけだ」


ぶっきらぼうに言いながら、奪われまいとするようにポケットを押さえる。


だが包みはすでに押し潰されていて、角のあたりから甘い生地が少しだけ崩れていた。

ノーラントンはしばらく黙ってそれを見ていたが、やがて短く息を吐いた。


「……お前は」


その声は呆れたようでいて、怒気とは少し違っていた。


「そんなものをポケットに押し込んだまま、あの場に立っていたのか」


ピカの頬がまた熱くなる。

うまく言い返せず、ただ唇を尖らせた。


「別にいいだろ……」


その言い方は強がっているのに、どこかひどく子どもじみていた。


ノーラントンはそれ以上責めなかった。ただ一瞬だけ目を伏せ、それから静かに手を離す。


「目立とうとするな」


その声は低く、硬い。


「……」


「消えずにいろ」


ピカの喉がひくりと動いた。

叱責の続きみたいな口調だった。


優しさなんてどこにもない。

慰めもない。


なのに、その短い一言だけが、妙に胸の奥へ沈んでいく。


ピカは視線を逸らした……


理解したくなかった。

したら……負ける気がした。


「……父上は、ほんとそういう言い方しかしないんだな」


小さく吐き出す。


ノーラントンは答えなかった。


窓からまた風が吹いた。


空の色はさらに重く、遠くでかすかに雷鳴のようなものが転がった気がした。

ピカは唇を引き結び、踵を返す。

その背中に、もう声はかからない。


「……」


数歩進んだあと、彼はほんのわずかに立ち止まった。

振り向きはしない。


「……俺は、あんたみたいにはならねえよ」


それだけ言い残して、今度こそ歩き去る。


ノーラントンは追わなかった。


ただその背を見つめたまま、指先をわずかに握り込む。

先ほど胸元に触れた感触だけではない。あの潰れた甘い包み紙の感触まで、まだ指先に残っているようだった。


やがて廊下の向こうへ息子の姿が消える。

ノーラントンは一度だけ目を閉じた。

それから、誰にも聞こえないほど低い声で呟く。


「……それでいい」


沈黙はすぐに戻った。

だが揺れる灯りの下、外廊に残ったその影だけは、しばらく動かなかった。



>最後まで読んでくださって、ありがとうございます。


言葉は少なくても、態度や沈黙の中にしか出せないものもあるのだと思います。


今回は、噛み合わないまま終わる父と子のやり取りの中に、ほんのわずかに残る温度を書いてみました。


強さとも優しさとも言い切れない、そんな不器用な関係が少しでも伝わっていたら嬉しいです。


(´◡‿ゝ◡`)

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