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失われた断片 ― 風の環 ―  作者: 半々月光
ビグトラス島編
50/61

幕間の十・必要とされる限り──あの日のこと

>焼きたての風餅を手にした三人――ミコノパン、マンダコ、エドリック。


道中、マンダコの「防衛隊を見に行こう」という一言から、彼らの小さな冒険が始まります。


ただの学生だった彼らが、夢と憧れに突き動かされ、学院の外へ足を踏み出す瞬間を描きました。



「さっきのジーン教授の《水の精霊操術》の授業、みんな分かった?」


ミコノパン・シスは眉をひそめ、困ったような声で言った。揺れる緑髪の奥には、まだあどけなさの残る戸惑いがにじんでいた。


「何が分かったって? 俺なんか『水の流れは呼吸みたいに』ってずっと言われてたのしか覚えてなくて、危うくむせるところだったぞ。」


マンダコ・アンコが大笑いする。黒髪を揺らすその笑い方には、まっすぐで屈託のない少年らしさがそのまま残っていた。


「ルーンのつなぎ方は分かりやすかったよ。ただ、お前がちゃんと聞いてなかっただけだ。次は僕が描いて見せる。」


エドリック・ローエンが淡々と返した。茶色の髪はきちんと整えられ、細い顔立ちにはこの頃から年齢より少し大人びた落ち着きがあった。


「ふん、そういうとこだけはほんと冷静だよな。」


ミコノパンが小さくぼやく。


三人は肩を並べて学院を出た。石畳には午後の余熱がまだ残っていて、夕陽はアーチ門の影を金色に長く引き伸ばしていた。通りには帰っていく学生たちの声が残り、空気には平焼きパンの屋台の香りが混じっていた。


「行こうぜ、ガモ食堂の横の屋台で風餅でも買おう。」


マンダコが真っ先に言い出した。


「いいね、焼きたてがいちばんいい匂いするし、外側がサクサクでボロボロこぼれるんだよね。」


ミコノパンの目がぱっと輝く。


「うん、食べたほうが力も出る。」


エドリックはただ頷いた。


熱々の風餅が手の中で湯気を立て、三人は歩きながらかじりついた。笑い声は街のざわめきに溶けていく。すると突然、空が巨大な影に覆われた。


「わあ……ミルバだ。」


ミコノパンが思わず声を上げた。


「何百斤もの荷物を運べるって聞いたぞ。それに島の半分くらいなら飛び越えられるらしい。」


マンダコが風餅を頬張ったまま、もごもごと話す。


「防衛隊が補給を運ぶときによく使う。速いけど、乗りこなすのはかなり難しいらしい。」


エドリックも冷静な目のまま、空を見上げていた。



「私、あんなに大きい獣には近づくのも怖いよ……」


ミコノパンは肩をすくめた。


「いつか絶対、あいつの背中に乗って島じゅう飛んでみせる。」


マンダコはさらに大きく笑った。


「その前にジーン教授のルーンをちゃんと理解してからにしろ。」


エドリックが淡々と返し、その横でミコノパンは楽しそうに笑った。


ミルバは重い荷を背にくくりつけ、数人の貴族を従えて上空をかすめていった。獣の翼が長い影を落としていく。


三人は道端に立ったまま、まだ食べかけの風餅を手に、その巨大な影に目を奪われていた。あの瞬間の彼らは、まだただの学生だった。けれどもう、いつか忘れずにいる何かが、三人のあいだに静かに芽生えていた。


「防衛隊のほう、ちょっと見に行ってみようぜ。」


マンダコが風餅を丸ごと頬張ったまま、ふいに言った。


「やだよ、見つかったら学院で減点とかされそうだし。」


ミコノパンはすぐに首を振り、心配そうに言う。


マンダコは肩をすくめた。


「ちょっと見るだけだって。そんな大したことじゃない。」


そう言ってから、ちらりとエドリックに目を向けた。


「僕は別に興味ないけど……まあ……いいよ。」


エドリックは二秒ほど黙り、それから首を振って、最後には仕方なさそうに頷いた。


三人が通りの角を曲がると、防衛隊の営舎はすぐ近くにあった。重い木柵の門は半ば開いていて、中からは金属のぶつかる音と、獣のいななき、隊員たちの号令が響いていた。


ミコノパン・シスは緊張した様子でマンダコの袖をつかみ、声を潜める。


「ほんとに、見たらすぐ帰ろうね。面倒ごとはいやだから。」


けれどマンダコ・アンコの目は、夢の入口を見つけたみたいに輝いていた。


エドリック・ローエンは二人のあいだに立ち、冷静な目をしたまま、それでも門の奥へ視線を向けずにはいられなかった。



「だから言ったでしょ、見たらすぐ帰るんだからね......」


ミコノパンは緊張した様子でマンダコの袖をつかみ、声を潜めた。


「見ろよ、あの足並みのそろい方……あれこそ本物の力だろ。」


マンダコは目を輝かせ、感嘆を押し殺すようにささやいた。


「見て!あの防衛隊の制服、すっごくかっこいい!」


マンダコが目を輝かせて言う。


「もし俺があれを着られたら……」


言い終える前から、その目にはもう憧れが宿っていた。


「規律と訓練、それが防衛隊の根幹だ。」


エドリックはわずかに眉をひそめながらも、視線は逸らさなかった。


門の隙間から見えたのは、整然とした訓練場だった。隊員たちは身体に沿う青い防衛隊服を着て、隊列訓練をしている。号令は力強く、よく通っていた。


数人の新兵が隅で何度も槍を振っていた。動きはまだぎこちないのに、食らいつくような気迫があった。


三人は門の外に立ち尽くし、怖さと惹かれる気持ちの両方を抱えていた。あのとき彼らがのぞき見ていたのは、ただの訓練ではない。


学院の授業よりも厳しく、ずっと現実に近い、もうひとつの世界の入口だった。


「攻撃術式が解封されたら……どれだけ強くなれるんだろうな!」


マンダコは口元を上げ、空を見上げた。


「ああ、そんな日が来るかもしれない。」


エドリックは低く答えた。その声は冷静で、それでいてわずかな肯定を含んでいた。


「ほらな、やっぱり俺の言う通り――……ん?」


得意げに笑いかけたマンダコの表情が、ふいに固まった。頭上から落ちてきた大きな影に驚いたのだ。


三人の姿に、黒い影がふいに覆いかぶさった。


今度は獣ではなかった。そこに立っていたのは、防衛隊服を着た一人の隊員だった。

背が高く、体格も大きい。その鎧は夕陽の下で冷たく光っていた。



「お前らガキ、ここで何してる?」


低く響く声が落ちてきた。その威圧感には、有無を言わせないものがあった。


ミコノパン・シスの顔は一瞬で青ざめ、なおもマンダコの袖をぎゅっと握っていた。


マンダコ・アンコの口元の笑みも固まり、目にはあきらかな動揺が走る。


エドリック・ローエンだけはその防衛隊員をまっすぐ見返し、眉をわずかに寄せながらも、一歩も引かなかった。


三人はその影に包まれ、同時に心臓が強く締めつけられた――今度こそ、本当に見つかったのだ。


その防衛隊員は、三人を順番に見回した。鋭い目つきは、まるで胸の内まで見透かそうとしているみたいだった。


「攻撃術式は封じられてても、俺たち防衛隊が民を守るんです!」


ミコノパンは慌てて息をのみ、無理やり声を絞り出した。


「私たち……ただ気になって見てただけで、中に入るつもりはありませんでした。」


マンダコは目を泳がせながらも、声を抑えきれずに尋ねた。


「でも……もし、いつか本当に術式が解封されたら、防衛隊ってもっと強くなれるんですか?」


防衛隊員は眉を上げ、口元に笑みを浮かべた。


「強さってのは術式で決まるもんじゃない。規律と責任で決まる。術式は道具だ。心こそが武器だ。」


エドリックは落ち着いたまま、言葉を継いだ。


「つまり、あなたたちの力は破壊じゃなく、守ることから来ているんですね。」


隊員は彼を見た。笑みは少し引き、声は落ち着いたものになる。


「ガキ、お前の言う通りだ。覚えとけ。ほんとに大人になったとき、その言葉の重さが分かるかもしれねえ。」


そう言うなり、彼は急に大きな声で笑い、門の中を指さした。


「外から見てるだけじゃ分からんだろ。中に入って見てみろ! ははははーー」


ミコノパンは目を見開き、顔をさらに青くした。


「中に? わ、私たち……ほんとに入っていいんですか?」


マンダコの目は火がついたみたいに輝き、今にも駆け出しそうになっていた。


「やった! そういうの、まさに俺が見たかったやつだ!」


「中に入ったら、もうただの傍観者ではいられない。」


エドリックは少しのあいだ黙り、それからゆっくり口を開いた。視線は重く、その一歩の意味を量っているようだった。


防衛隊員はさらに豪快に笑い、胸甲を叩いた。その音は三人の耳にびりっと響いた。


「のぞきに来る度胸があるなら、一歩踏み込む胆も持て。ほら、来いよ。ガキども!」


彼の手で門が押し開かれ、重い木扉が低い音を立てる。

訓練場の光景が、三人の目の前に一気に広がった。号令と鎧のぶつかる音が耳を打つ。


ミコノパンは思わず一歩引いたが、マンダコに引かれて前へ進んだ。

エドリックもまた、二人のすぐ後ろについていく。


その目は落ち着いていたが、そこには確かに期待もあった。


門が開き、重い音が三人の胸を震わせた。


訓練場では、整った号令が次々に響き、槍が一斉に振るわれ、鎧のぶつかり合う金属音が雷鳴のようにこだましていた。


防衛隊員は気前よく手を振った。


「よく見とけ! これが俺たちの日常だ!」


ミコノパンは肩をすくめたまま、それでも目は中の光景に釘づけになっていた。彼女は小さくつぶやく。


「す、すごい……」


マンダコは今にも跳ねそうなくらいで、目をきらきらさせていた。


「これこそ本物の力だ! 想像してたよりずっとすごい!」


エドリックは隊列の動きをじっと見つめ、わずかに眉を寄せたまま言った。


「一歩一歩が、何百回も何千回も積み重ねられてる……こんなの、簡単に真似できるものじゃない。」


防衛隊員は豪快に笑いながら、訓練中の兵士の一人の肩を叩いた。


「こいつらはな、毎日ここで汗を流して、血も流して、それでもお前らみたいなガキが安心して暮らせるように立ってるんだ!」


それから三人のほうへ振り向き、その目をまっすぐ向けた。


「だから外から夢見てるだけじゃ足りねえ。力を知りたきゃ、この目で見て、この耳で聞いて、できるならこの身で感じろ! ははははーー」


訓練場の号令は地面まで震わせ、槍は一糸乱れずに振るわれ、空気には汗と鉄の匂いが満ちていた。


三人は場の端に立ち、その鼓動に自分たちの心まで引き込まれていくようだった。まるで別の世界に踏み込んでしまったみたいに。


「総隊長! 学院から緊急の連絡です、至急お戻りください!」


別の隊員が駆け寄ってきた。顔には焦りが浮かんでいた。


「そ、総隊長!?」


三人は驚きのあまり、あごが外れそうなほど口を開けたまま固まった。


「ははは、俺は防衛隊総隊長――シャスリ・ホープマンだ。先に仕事行ってくるから、お前らはゆっくり見てけ!」


シャスリは豪快に胸甲を叩き、振り向いて立ち去ろうとした。


だが、ふいにまた振り返る。その目は力に満ち、声は雷みたいに響いた。


「覚えとけ、守る力は攻撃に負けねえ! 大きくなったら、俺のところに来い。みっちり鍛えてやる! ははははーー」


そう言い残し、彼は大股で去っていった。その背中は、訓練場に響く声の中でひときわ大きく見えた。


ミコノパンはまだ呆然と立ち尽くし、唇を震わせていた。


「そ、総隊長……」


マンダコは火をつけられたみたいに目を輝かせ、熱に浮かされたような声を上げる。


「かっこよすぎる! しかも総隊長が直々に言ったんだぞ!俺たち、絶対ここに残るべきだ!」


エドリックは深く息を吸い込み、重い目で前を見つめた。


「守る力……その言葉は、覚えておく価値がある。」


訓練場には再び号令が響き、三人はその場に立ったまま、それぞれの胸の中でその言葉を反芻していた。


夕陽はゆっくりと沈み、金色の光が訓練場いっぱいに差し込んでいた。隊員たちの姿にも、三人の頬にも、その光が同じように落ちていた。


マンダコ・アンコはふいに拳を握りしめ、目をまっすぐ前に向ける。


「守るってこと……俺、決めた! 卒業したら防衛隊に入る!」


エドリック・ローエンは少し目を見開き、それから苦笑した。


「マンダコ、お前ほんとそういうので熱くなれるよな……でも、僕は別に興味な――」


マンダコはすぐに遮り、強い声で言った。


「だめだ。ミコノパンも一緒だ、俺たち三人で!」


そう言って、ためらいもなく手を胸の前に差し出した。


「わ、私……」



ミコノパン・シスはおずおずと二人を見た。顔には迷いが浮かんでいた。

だがそのとき、マンダコ・アンコが低くつぶやくのが聞こえた。


「必要とされる限り、立ち続ける……俺は、そう生きたい。」


ミコノパンの心臓が大きく跳ね、目の奥が熱くなった。彼女はついに手を伸ばし、その手の上にそっと重ねる。


エドリック・ローエンは二人を見つめ、しばらく黙っていたが、最後にはやれやれとでも言うように苦笑して、自分の手も重ねた。


「……ほんと、お前たちにはかなわないな。」



三人の手はしっかりと重なり、夕陽の残光がその決意を照らしていた。


「必要とされる限り、立ち続ける」――その言葉は胸の奥で何度も響き、やがて三人の共通の誓いになった。



今も。


「なあ、ミコノパン・シス……マンダコ・アンコのやつ、今ごろ誇らしく思ってるかな。」


「きっとそうだよ。だって私たち、ちゃんと同じ誓いを守ってきたんだから……」


ミコノパン・シスの声はかすかに震えていたが、その言葉だけは不思議なほどまっすぐだった。


エドリックは岩壁にもたれかかっていた。雨水が岩の割れ目を伝って落ち、冷たさが骨の奥までしみ込んでくる。


そう言ってから、エドリックは隣に座るミコノパン・シスへ視線を向けた。


彼女は全身を血に染め、マンダコ・アンコの愛剣をなお膝の上に置いたまま、虚ろな目で外に激しく降りしきる雨を見つめていた。


>今回の幕間は、三人の「原点」を描く場面でした。風餅をかじりながら笑い合う日常から、ふとした提案で防衛隊へ向かう――


その一歩が、彼らの未来を決定づける冒険の入口になっていきます。


マンダコの熱さ、ミコノパンの迷い、エドリックの冷静さ。それぞれの個性が交錯しながらも、最後には「必要とされる限り、立ち続ける」という共通の誓いに重なっていく。


書きながら、彼らがまだ学生でありながらも、すでに「守る力」を探し始めていたことに胸が熱くなりました。


この誓いが、後の彼らの選択や運命にどう響いていくのか。読んでくださる皆さんにも、その芽生えの瞬間を感じてもらえたら嬉しいです。


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