第39話:密偵の受難と、箱庭の準備
街道の脇にそびえる大木の枝上。
魔族の密偵キールは、息を潜めて下の広場を見下ろしていた。風と同化し、生命としての鼓動すら極限まで抑え込む気配遮断の秘術。数多の危険な潜入を成功させてきたこの隠密術は完璧だったはずだ。
だが、眼下で繰り広げられる光景を前に、キールの思考は困惑で麻痺していた。
小娘が黒い鉄の部屋から出してきたクッションに深く身体を預け、パリパリと軽快な音を立てて未知の薄切りの菓子を口へ運び、黒く泡立つ液体を喉へ流し込む。周囲に並ぶ見たこともない道具。そして勇者は折りたたみの椅子に腰かけ、湯気を立てる筒状の容器から豪快に麺をすすっていた。
食欲をそそる濃厚な香りは、容赦なくキールの食欲を刺激する。込み上げる生唾を必死に呑み込みながら、キールは震える手で羊皮紙の手帳へそれを書き留めていく。
(よし……好みの生活道具と未知の魔法アイテム……しっかりと記録して――)
さらに観察を続けようとした、まさにその瞬間だった。
「おい」
低い声が聞こえた瞬間、キールの心臓が跳ねた。
(……嘘だろ? 鼓動も魔力も断ってたはずだぞ……っ!?)
全身の毛穴が縮みあがる。完全に気配を消していたはずだ。それなのに勇者は容器の汁をすすりながら、こちらへ冷めきった目を向けてくる。
「こそこそ何してんだ、変態か?」
(変態……!? 冗談じゃない、僕は隠密の――)
勇者が手を払った直後、ドォンッ! と凄まじい衝撃波が大気を切り裂く。
(なんなんだこの威力……っ!? 手を払っただけでこれかよ……!)
大木ごと吹き飛ばされ、地面へ激しく叩きつけられるキール。絶対の隠密を一瞬で破られた恐怖に身を震わせ、一目散に逃げ出すのが限界だった。
――魔王城、謁見の間。
「ふはふ……あふぁたかぃ(温かい)おふぁ(茶)を……いれなおひふぇ(淹れ直して)まひゅふぉ……っ」
「うん、セバスの淹れてくれるお茶が一番好きだよ」
「ふぁい……っ」
退場していくセバスを見送り、ルシアンが紅茶のカップを置いたその直後だった。
「ゼー、ゼー……ま、魔王様! ご報告がございます……!」
滑り込み、大理石の床へ激しく頭を擦り付けるキール。
玉座に腰かけていたルシアンは、身を乗り出してパッと目を輝かせた。
「やあキール、無事に戻ったんだね! どうだったんだい、澪の様子は!」
「ハッ! あの娘の異常さは計り知れません……! 無詠唱で車輪のついた巨大な黒い部屋を現出させ、中には見たこともないほど柔らかそうな絨毯やクッション、火も使わずに光と熱を発する道具まで揃えておりました……! 極上の快適空間を作り出し、さらには『ラアメン』なる熱々の麺料理や『ポテチ』という薄い黄金色の菓子、『コーラ』という黒く泡立つ液体まで思いのままに取り出し、優雅に味わっておりました……!」
必死に訴えかけるキールを見下ろし、ルシアンは目を爛々と輝かせた。
「ちょっと待ってよ……!? 車輪のついた部屋に快適な家具道具、それにラアメンにポテチ、コーラ……!? ああ、想像しただけで居ても立ってもいられなくなるよ……!そんな最高な能力まで持っているなんて反則じゃないか!」
「ですが魔王様、恐ろしいのは勇者です! こちらの気配遮断を完璧に展開していたにもかかわらず、一瞬で位置を捉えられ、挙句変態扱いされて一撃で吹き飛ばされました……!」
「ふうん……変態扱いかあ。キール、君まさか僕の可愛い澪に、不快な視線でも送っていたんじゃないのかい?」
「送ってません!! 真面目に隠れてただけです!!」
「まあいいや。とにかく最高の情報が得られたよ。ヴァレンティナ! キールの報告を元に、彼女を迎える『豪華な箱庭』の準備を進めておくれ」
「御意。一番景色の良いお部屋に、最高級の絨毯やクッションを手配いたします」
そこへ、ドレイクの体に駆け登ったペトラが、甲高い声を上げながらその頭をペチペチと叩き始めた。
「ずるいぞ! アタシも行く! ポテチとコーラ、アタシが一番に食べるんだから!」
「ペトラはダメだよ。君が行ったら加減できずに、彼女の部屋ごと潰してしまうだろ?」
「えーっ! ケチー! ハゲー!」
「誰がハゲーだ」
ペトラに頭を叩かれながら、ドレイクがガタッと重厚な鎧を鳴らして前へ出た。
「魔王様! その『調査』とやらが終わったのであれば、いよいよ俺の出番でございますな! このドレイク自らが赴き、あの勇者を叩き潰して、そのお嬢さんを無事にお連れしてみせます!」
「頼んだよ、ドレイク。ああ、でも僕の澪に傷一つ付けることは許さないからね。無傷で僕のもとへ連れておいで」
「ハッ! この命に代えましても! バルザックと共に必ずや成し遂げてみせます!」
「……ドレイク、気負いすぎだ。魔王様のお手を煩わせぬよう、冷静に仕留めるぞ」
嗜めるバルザックの言葉に、ドレイクは拳を固く握りしめた。
ルシアンは澄んだ光を放つ宝玉を取り出すと、バルザックへ向けてふわりと投げ渡した。
「バルザック、これを持っていきなよ。君の魔力制御ならうまく扱えるよね。魔力を極限まで高める宝玉さ」
「……魔力増幅の宝玉。お心遣い、感謝いたします」
「よしバルザック、行くぞ! 勇者を叩き潰し、魔王様の望みを果たす!」
「……指示通り、確実に遂行するとしよう」
二人は魔力を纏うと、そのまま魔王城を飛び立った。




