第31話:呼べなかった名前
「なあ、澪」
「はい」
「お前さ、最近全然俺のこと名前で呼ばねぇな」
「え……」
唐突な問いに、澪の反応が一瞬遅れた。
智矢はキャンピングカーのソファに背を預け、澪を見つめている。
「智矢とも呼ばねぇし、瀬尾さんとも呼ばねぇ。よく考えたら『ねぇ』とか『ねぇねぇ』ばっかだろ」
「そ、そんなことないですよ! ちゃんと『あの』とか『ちょっといいですか』とか言ってます!」
「それ名前じゃねぇだろ」
「うっ……」
思わず反論したものの、続く言葉が出なかった。
指摘された通りだった。うっかりではなく、澪がずっと避けてきたことだったからだ。
何も言えなくなる澪を、智矢はからかうでも追いつめるでもなく、ただ静かに車窓の外の夜空を眺めている。
「……気づいちゃいましたか」
澪はぽつりと呟き、視線を膝の上に落とした。
「私、瀬尾さんのこと、どうしても名前で呼べなかったんです」
「呼べなかった?」
「だって……瀬尾さんは瀬尾さんなんですよね。それに、恥ずかしさもあって。……あと、これでも一応尊敬してたんですよ」
「一応ってなんだよ」
「一応は一応です! だって前と全然違うじゃないですか! 私も逆に聞きたいです。なんで急に猫被るのやめたんですか?」
「……今は俺の話じゃねぇだろ」
軽く話をかわした智矢に、澪はフッと口元を緩めた。
街道で下の名前で呼び合うって決めた時も、『智矢君』と呼ぼうとして見事に撃沈した記憶が蘇る。あの恥ずかしかった時以来、今更「やっぱ瀬尾さんで」とも言えず、「智矢君」も照れくさくて呼びかけること自体を回避していたのだ。
だが、理由はそれだけではない。胸の奥には、智矢に対する心からの感謝があった。
(……ほんとに、助けられてばかりなんだよね)
入社直後、父親が倒れて実家の問題が重なり、思い詰めていたあの時期。思い出すのも嫌な胸騒ぎのする出来事も重なって参っていたけれど、職場の温かさに救われた。そして何より、指導係として一番近くで支えてくれた智矢がいたからこそ、逃げずにやってこれたのだ。
それに異世界に巻き込まれ、右も左もわからない森に放り出された時も、持ち前の強さで魔獣を倒して安全を確保して、前を向かせてくれたのは智矢だった。
自分にとって命の恩人以上の存在だからこそ、軽々しく呼べなかったのだ。
智矢はどこか可笑しそうに、少しだけ肩を揺らした。
「……そうか。じゃあ俺は、まだただの尊敬する元上司か」
「違いますよ! 友達とか、そういうのとも違って……」
否定したものの、その先の言葉が続かない。
智矢の横顔をじっと見つめる。
あの日から今日まで、この人が当たり前に前に立ち、自分は後ろで生活を支えて、協力しながらここまで一緒に旅をしてきた。
(あ……)
胸の奥でストンと何かが落ちた。
感謝や気恥ずかしさに縛られて勝手に距離を取っていたけれど、今のふたりを表す言葉はそんな硬苦しいものじゃない。当たり前に隣にいて、背中を預け合える、そんな存在になっていたのだと気づいてしまった。
壁を作っていた自分が急におかしくなって、澪はふっと肩の力を抜いた。
「分かりましたよ。……負けました」
「だから勝負してねぇだろ」
「これからはちゃんと呼ぶし、変な気遣いもやめます。……智矢さん」
「……そこは普通に智矢でいいだろ。なんでわざわざ『さん』つけるんだよ」
「急に変えるのもむず痒いじゃないですか。じゃあ、智君って呼ぶことにする!」
「お、おう、わかった」
「よく考えたら私達って相棒みたいなもんでしょ?敬語も無しで! ね、智君!」
「……急に開き直るじゃねぇか」
「開き直ってないよ!ほら、智君も返事!」
「……はいはい」
「はいは1回だし!」
「……ったく。お前のほうが猫被ってたんじゃねぇのか?」
「違うし! 私のは気遣いですぅぅぅ」
「ああそうですか。ってなんだよその顔」
可笑しそうに笑い出した智矢に、澪もつられて笑ってしまった。
ずっと引っかかっていた胸のつかえが取れて、急に気分が軽くなる。
心地いい解放感に後押しされるように、いつもよりお酒を飲むペースが自然と上がっていた。
「それよりここのお湯ほんとに凄くなかった!?おかげで肌がつるつるだよ」
「おーめちゃくちゃ効いたわ。俺のはちょっと熱めで、体の奥までしっかりほぐれたし」
澪はさらにテンションを上げて楽珍マーケットから追加のビールとレモンサワーを取り出した。
「ほんと良いお湯だったよね。ポリタンクで汲んで持って帰りたいくらい感動したんだけど!」
「いいねぇ、それ。ストレージに山ほど詰めて帰って、地球で『奇跡の美肌水』って売るか。一財産つくれるぞ」
「あ、悪い大人の顔になってる!」
「人聞きが悪いな。夢のある事業計画だろ」
「欲望に忠実な顔してたよー」
ニヤリと笑う智矢にサワーの缶を差し出すと、カチンと軽い音を立てて缶が合わさった。
「じゃ、その事業計画に乾杯!」
「乗るんかい」
冗談を言い合いながら、キャンピングカーの中で心地いい酔いに任せて二人の夜は更けていった。




