第3話:二つの月と最初の夜
日が沈むと、森の表情は一変した。
木の隙間から見える空が真っ暗に染まり、周囲は足元すら見えないほどの暗闇に包まれる。不気味な虫の鳴き声や、遠くの暗がりから聞こえる正体不明の獣の唸り声が、夜の静寂を切り裂いていた。
瀬尾は周囲から手際よく乾いた枝や落ち葉を集めると、スーツのポケットから銀色のオイルライターを取り出した。カチッとフタを開け、慣れた手つきでホイールを回す。小さなオレンジ色の炎がゆらりと立ち上り、集めた枝に燃え移った。
パチパチと薪がはぜる音とともに、温かな明かりが二人を包み込む。あたりを包む圧倒的な暗闇と冷気の中で、その小さな焚き火だけが唯一の救いだった。
「瀬尾さん、タバコ吸うんですね」
「会社じゃ控えてたんだけどな。臭いがつくのも面倒だし。……まあ、こんな状況だし一本くらい許せ」
瀬尾は煙草に火をつけ、一口吸うと白い煙を夜空へ吐き出した。焚き火の明かりに照らされた横顔には、隠しきれない疲労が静かに滲んでいる。
ふと、瀬尾は手元の煙草の火を眺めながら、自嘲気味にぽつりと呟いた。
「……にしても、27で勇者か……。体力だけあっても、色々キツイなぁ……」
「社会人としてのプライドが邪魔してます?」
「邪魔するだろ普通。名刺に『勇者』って書けるかよ。いい歳こいて中二病みたいな肩書背負わされて、メンタル削られてんだわ、これでも」
呆れたような瀬尾の愚痴に、澪は思わずフッと小さく笑ってしまった。会社では絶対に見せなかった人間くさい姿が、少しだけおかしい。
だが、静寂が戻ってくると、押し殺していた不安が再び一気に押し寄せてくる。川辺の湿った地面に座り込み、澪は膝を抱え込んで小さくなった。
「……瀬尾さん」
「ん?」
「私達……本当に帰れるんでしょうか。家族とか、会社の人たち……今頃きっと大騒ぎになってますよね。探してくれてるのかな……」
ぽつりと漏れた声は、焚き火がはぜる音にかき消されそうなほど小さかった。
「スマホも繋がらないし、ここがどこかも分からない。もし、このまま一生帰れなかったらどうしようって……考えたら、急に怖くなって……」
一度口にしてしまうと、溢れ出そうになる涙を必死にこらえた。
瀬尾は静かに川面を見つめている。暗い水面に焚き火の光がちらちらと反射していた。
長い沈黙が流れた。
やがて瀬尾は深く息を吐き出すと、煙とともに言葉をこぼした。
「……帰るんだよ」
「……え?」
「帰る方法がここにあるかどうかも分かんねぇし、ぶっちゃけ俺もどうすりゃいいかさっぱり分かんねぇよ。急にこんな森に放り出されて、テンパってないわけねぇだろ」
瀬尾は煙草を川の近くの石で押し消すと、どこか呆れたように、けれど力強い視線で澪を見た。
「でもな、帰る以外の選択肢なんて最初からねぇんだよ。相沢さんを巻き込んだのはたぶん……俺なんだから、何が何でも連れて帰る。だから、そんな無駄な心配してないで、明日からちゃんとメシ食って帰る方法探すぞ」
何の根拠もない、ただの気休めだ。けれど、瀬尾なりに気を遣ってくれたのだと分かって、ぎゅっと縮こまっていた胸の奥が少しだけ軽くなった。
「……はい。そうですね」
不安が消えたわけじゃないけれど、不思議と落ち着いた。
「よし。……ほら、これ着とけ。夜は冷える」
瀬尾は肩にかけるようにして持っていたスーツのジャケットを脱ぐと、雑に澪の肩へと羽織らせた。
「え、でも瀬尾さんは? シャツ一枚になっちゃいますよ」
「俺は変に体が頑丈らしいから平気なんだよ。熱いくらいだ。……いいから大人しく着とけ」
少し照れくさそうに目を逸らす瀬尾に、それ以上拒むのをやめた。ジャケットからは、微かなタバコの香りと、爽やかなシトラスの香水の匂いが残っていた。
「見張りは俺がしとくから、相沢さんは少し寝とけ」
「……限界が来たら教えてくださいね。交代しますから」
「相沢さんの体力じゃ起きてても役に立たねぇだろ。……ほら、目瞑れ」
澪は仕方なくジャケットに深く包まった。ふと、木々の隙間から覗く夜空に目を向ける。
「あ……」
思わず息を呑んだ。
そこにあったのは、見慣れた月ではなかった。まるで血のように、深く、鮮やかに赤く染まった大きな月。そしてそのすぐ隣には、ひとまわり小さな青い月が寄り添うように浮かんでいる。
空に浮かぶ、二つの月。
昼間、ステータス画面が出た時もスマホが圏外だった時もどこか現実感がなかった。けれど、夜空に浮かぶその異様な光景を目にした瞬間、理解してしまった。
(ああ……私、本当に日本のオフィス街から、誰も知らない別の世界に来ちゃったんだ……)
「……瀬尾さん、空」
「ん? ……あー、月が赤ぇな。しかも二つあるし。気味が悪い空だわ」
呆れたように呟く瀬尾の横顔を見ながら、澪はジャケットをぎゅっと引き寄せた。
「……絶対、連れて帰ってくださいね」
「へいへい。任せとけって」
二つの月が見下ろす異世界の森で、二人の長くて静かな最初の夜が過ぎていく。




