第18話:夕暮れの街道と、新しい呼び方
木々の隙間から差し込む夕暮れ時の赤橙色の光が、舗装されていない街道を柔らかく照らしていた。無事に大きな狩りを終えた安堵感からか、二人の足取りは行きよりもずっと軽い。
手元にある大量の素材と魔石があれば、当面の宿代や食費に困ることはなさそうだった。そんな実感を踏みしめながら、澪は並んで歩く瀬尾の横顔を盗み見た。
「……ねえ、瀬尾さん。ちょっと提案があるんですけど」
「ん? なんだよ」
瀬尾は首の後ろで両手を組み、視線だけを澪に向けた。
「ギルドで名前を聞かれた時に思ったんですけど、これから先、街で行動するときは苗字を使わない方がいいと思うんですよね。ここ異世界ですし、日本の苗字って明らかに目立つし、ルヴィニアの追手とかに余計な情報を与えたくないですし」
「あー……確かにそうだな。フルネームで名乗るのも面倒だし、これからは下の名前だけで通すか。手っ取り早いしな」
瀬尾は「ごもっとも」と言わんばかりにあっさりと頷いた。
「じゃあ、これからは澪でいいか。よろしくな、澪」
「……っ!?」
何の躊躇もなく、当たり前のような口調で「澪」と呼び捨てにされ、澪は思わず足を止めて固まった。
(え、ちょっと待って!? 呼び捨て!? 距離感詰めすぎじゃない!?)
「……なんだよ、急に立ち止まって」
不思議そうに振り返る瀬尾に対し、澪は顔に上っていく熱をごまかすように口を尖らせた。
「な、なんでもないですけど……瀬尾さんって、躊躇なく下の名前で呼び捨てにできるんですね。なんか、女慣れしてるみたいでちょっと嫌なんですけどー」
からかうようにジト目で突っ込んでみると、瀬尾は呆れたように肩をすくめた。
「は? 呼びやすいように呼んだだけだろ。考えすぎだっつの。で、そっちはどう呼ぶんだ?」
「う……」
急に振られて、澪はゴクリと唾を呑み込んだ。
「智矢」と呼ぶには、いくらなんでもハードルが高すぎる。ずっと会社の先輩として「瀬尾さん」と呼んできただけに、いきなり呼び捨てにするのは違和感がありすぎて無理だった。
「と……智矢……君、で……」
消え入りそうな声で呼んでみたものの、途端に気恥ずかしさが怒涛のように押し寄せてきて、澪は自分の耳たぶが熱くなるのをはっきりと感じた。
「智矢君……うん、智矢君で……」
「言い慣れてなさすぎて不自然極まりないな。まあ好きに呼べよ、その、智矢くぅんってやつをよ」
面白がるようにニヤニヤと笑いながらオウム返しにしてくる瀬尾を見て、澪は悔しそうに「うぅ……」と小さく唸った。
(絶対に面白がってるでしょこの人……!)
意地悪そうに微笑む彼の背中を追いかけながら、澪は密かに頭を抱えた。
(……ていうか冷静に考えたら、瀬尾って二文字だしセオで通せば普通に目立たなかったんじゃ……自分で提案しといて失敗だったかな……それにしても……)
ゆったりとした足取りで前を行く瀬尾の背中を見つめながら、澪は自身の胸の内を静かに探った。
(そういえば私、瀬尾さんのことって全然知らないな……)
召還されて恐ろしい森に放り出されてからサバイバルをし、神殿で倒れて女神ローザに魔力回路を治してもらったり、今日だってギルドで荒くれ者と大立ち回りを演じたり……ここ数日は、とにかくこの異世界で生き残ることに必死すぎた。
瀬尾智矢という男が、元の世界でどんな日常を送り、どんな人間だったのか。会社では完璧な先輩で、仕事上のやり取りばかりだったから、プライベートな話なんて一度もしたことがなかった。
会社にいた頃、同僚の友達や女の先輩たちが「瀬尾さんってクールで仕事もできて本当かっこいいよね!」「目の保養すぎる!」なんて給湯室やランチタイムにキャーキャー騒いでいるのを思い出す。社内での彼は、文句のつけどころがない人気者だった。
(……もし会社の女子たちに、今私たちがこの人と異世界で二人きりで旅してて、下の名前で呼び合ってるなんて知られたら……絶対猛烈に嫉妬されて蜂の巣にされるやつじゃん……)
元の世界の女子たちの群れを想像して、澪は一人でゾッとして余計な心配をしてしまう。……まあ、今は地球に戻る方法すら分からないのだから、完全に杞憂でしかない。
あの頃はあんなにすまし込んでいたのに、こうして二人きりになると素の口の悪さや雑さを隠そうともせずに出してくる。
(でも、私がピンチの時は必ず助けてくれるし、頼りになるのは間違いないんだけど……)
自分の前を歩く背中が、少しだけ大きく見えた。
夕暮れの風が静かに吹き抜け、二人の影を長く街道に引き伸ばしていく。
「おい澪、置いてくぞー」
「あ、待ってください!」
澪は恥ずかしさと余計な雑念を振り切るように大きな声を出し、前を行く彼の隣へと駆け寄ったのだった。




