第九十七話 上機嫌の理由
「朝だよ、拓也くん。起きて!」
「…ん、唯か。……おはよう」
「おはよう! ご飯の用意もできてるから、リビングで用意してくるね!」
「あぁ……ありがとう」
休日の朝。どうやら時間はとっくに朝になっていたようで、拓也の体を揺さぶってくる唯の声で目を覚ました。
寝起き直後なことも相まって意識が朧気だが、瞼を開くと優しく微笑んでいる唯の姿が目に入ってきた。
昨日は特に夜更かしをしていたわけでもないので寝過ごしかけたのは意外だったが、たまにはこんな時もあるだろう。
唯に手間をかけさせたことは申し訳なかったが、ここは素直に感謝しておこう。
「ふあぁ……とりあえず、顔洗ってくるか」
口からこぼれるあくびを噛み殺しながらベッドから降り、眠気覚ましも兼ねて顔を洗いに洗面所へと足を運んでいく。
起きたばかりで寝ぐせもついているし、ついでにそれも直しておこう。
軽く朝の支度を終えてから着替えも済ませ、今は唯と二人で朝食を取っている。
夏の暑さが鳴りを潜め始め、段々と涼しさが増してくるのを実感してくるようになってきたが、普段の生活としてはこれくらいが過ごすのにちょうどいいものだ。
味噌汁のほっとするような温もりが全身を駆け巡っていくのを感じ取りながら咀嚼していれば、ふと目の前の彼女の様子がいつもとは少し違うように思えた。
「…何だかご機嫌そうだな。良いことでもあったのか?」
「え? そんなに機嫌良さそうだった?」
「そりゃもう。なんなら鼻歌だって歌ってるくらいだったし」
「え、嘘!?」
詳しく聞いてみれば無意識だったようだが、こちらとしてはパッと見てわかるくらいには唯は上機嫌だった。
なぜそんなにも楽しそうなのかはわからなかったが、時折漏れて聞こえてくる鼻歌はどう考えても良いことがあったのだろうと確信させてくるほどだった。
常日頃から温和な雰囲気を漂わせている唯だが、今日はそれに加えて楽し気なオーラも纏っていたので、それで分かったという面もあるが。
「…良いことかぁ。まぁ、無いって言ったら嘘になるけど……」
「やっぱりか。唯がそんなになるくらいだから相当なもんだろ。…それで、何があったんだ?」
思い返してみれば上機嫌だった要因に心当たりがあったようで、なぜか気まずそうに顔を逸らしているがそう言われれば俄然気になってくる。
なのでより詳しく聞き出そうと尋ねてみるが……反応は著しくなかった。
「…拓也くんには秘密! もし言っちゃったら私の楽しみが減っちゃいそうだもん」
「ん? 俺に関係のあることなのか?」
「そうだよ。だから言わないの。…というか、言うのも恥ずかしいし……」
何やらごにょごにょと言い訳をするように声をすぼめているので聞き取れなかったが、彼女の機嫌の良さは拓也に関連したことだったようだ。
こっちとしてはそんな出来事に思い当たることなど皆無なので疑問符が浮かんでくるが、当の唯はいくら問い詰めたところで教えてくれそうもない。
…だけど、本当に何なんだろうな。
◆
時は少し遡り、唯が拓也の家にやってきて間もない時間。
まだ早朝といって差し支えない時間帯であり、辺りが静けさに満ちた空気に囲まれた中で唯は訪れていた。
「お邪魔しまーす……って、まだ寝てるよね」
もはやすっかり慣れてしまった部屋の床を踏みしめながら、小声でつぶやく。
ここの家の住人である拓也もさすがにまだ睡眠の最中だろうし、あまり大きな音を立ててはいけないと思い静かにドアを閉めた。
そのままそっと足を進めながらリビングへと向かい、自宅から持ってきた荷物を軽くまとめていく。
持ってきたものは主に勉強の道具だったり、ちょっとした生活用品だったりと様々だが、それも終えてしまえばやることはなくなってしまう。
(朝ごはんを作るのにはちょっと早いし……それじゃ、拓也くんには悪いけどまた今日もお邪魔させてもらおうかな!)
時計を見ればまだ時刻は午前の六時を過ぎた頃。
今から朝食を作ってもまだ誰も食べないし、無駄に冷ましてしまうだけなのでいつもであればこの時間はただぼーっと過ごすだけだった。
…そう。いつもであれば、だ。
普段ならば暇で仕方なかっただけのこの時間。
しかし、この前思いついたばかりのある過ごし方をするようになってから、むしろもっと続いてほしいとまで思うようになってしまった。
(音は立てないように……静かに……)
そろそろと立ち上がりながら、目的の一室へと足を進めていく。
極力気づかれないように細心の注意を払いながら、その部屋のドアをゆっくりと開けていく。
…そこにいたのは、まだ起きる時間でもないので心地よさそうに眠りについている拓也だ。
腹の周辺がわずかに上下しているところを見るに未だ熟睡状態であり、ちょっとやそっとのことでは起きてこないだろう。
(…うふふ。最初はちょっと罪悪感もあったけど、これも私だけの特権だよねぇ)
彼にも話していない、唯の秘密の楽しみ。
それは、こうして起きる前の拓也の寝顔を眺めに来ることだった。
ベッドの横にもたれかかりながら座りこみ、あどけない表情で寝入っている拓也の顔は唯にとってこれ以上ないほどに魅力的に映るものだった。
…もちろん、最初はこれを実行するかどうかも悩んだ。
思いついたばかりの時には拓也に黙ってそんなことをするなんて嫌がられるだろうとか、人に寝顔なんて見られたいものではないだろう、なんて理性が訴えかけもしてきたが……結局、いつもは見られない好きな人のあどけない顔を見られるという誘惑に勝つことはできずにあっさりと陥落した。
それから機会があればこうして寝室に忍び込み、拓也の寝ている姿をこっそりと堪能するという日々を送っている。
当然、拓也にバレてしまえば即座に禁止されることではあるのだろうが……要はバレなければいいのだ。
(可愛いなぁ……こんなに綺麗な顔立ちなんだし、そりゃ私以外にも狙ってくる人はいるよね)
拓也の前髪をそっとかき分けて閉じられた瞼を見れば、そこにはいつもの頼りがいのある雰囲気ではなく、年相応の少年らしさを全面に出した表情が見られる。
男子に対して可愛いなんて言っても微妙な反応を返されるだけだが、常日頃から見ている姿とのギャップからそう感じてしまうのだからどうしようもない。
改めて拓也の顔を見てみると嫌でも実感してくるが、やはり彼は整った顔立ちをしている。
サラサラの黒髪や長く添えられたまつ毛。それに、素っ気ない雰囲気の中に隠された果てしない優しさ。
自らの懐に入れた者に対しては何だかんだと言いながら手を差し伸べてくれる彼の魅力は、見る者が見れば他の何にも代えがたい魅力だった。
実際、最近ではクラスの女子たちからも密かに拓也の人気は増してきているようだし、それに焦りを感じたことだってあった。
…彼の魅力が増していくのは唯からしても嬉しいことだが、それによって他の女子からも狙われてしまうことはさすがに予想できなかった。
(…まぁ、誰にも譲るつもりもないけど。もう拓也くんの隣から離れるなんてこともありえないし)
だが、そんなことは大した問題でもない。
唯自身も拓也以外の者の隣に立つことなど考えられないし、他の者に彼をみすみす奪われるようなことはさせない。
意地の悪い女だと思われるかもしれないが、それくらいには拓也に惚れ込んでいるのだし、離れられなくなっているのだ。
最初は拓也に自分のことを好きになってもらおうと決意を固めたはずだが、そんな覚悟とは反対に、同じ時間を過ごしていけば過ごすほど彼の虜にされてしまっている。
限界など無いとでも言わんばかりに増していく想いの強さは、張本人である唯をもってしても呆れるくらいに激しくなるばかりだった。
(駄目だなぁ……でも、仕方ないよね。好きになっちゃったんだもん)
たとえ自分の身を削ることになったとしても、唯を救ってくれた人。
それが辛く苦しい道だったとしても、他人のために頑張れる人。
そんな格好良い姿を間近で見せられて、好きになるなという方が難しい話だった。
…今はまだ仲の良い友人止まりだが、拓也とならばその先の関係に進みたいとも思う。
その未来を夢見たことだって一度や二度の話ではないし、もしそうなればどれだけ幸せなことだろうとも想像してきた。
けれど、まだこの想いを伝えるには早い。
以前に聞かされた拓也の過去から、彼が周囲の者から拒絶されてきたことは忘れていない。
そのトラウマは克服したと拓也自身の口から言っていたが、決して辛い記憶が消えたわけではないのだ。
ふとした瞬間に思い出すことだってあるだろうし、そのせいで唯と関係を進めることに二の足を踏むことだってあるのだろう。
なればこそ、今唯がやるべきことは彼の隣で支え続け、その辛さを癒してあげることだ。
(…まっ、そう難しいことでもないよね。いつも通り頑張るだけだよ)
何もややこしいことではない。
要は、拓也が過去に縛られもされないくらいに唯に惚れ込ませればいいだけだ。
多少時間はかかるかもしれないが、それとて些事でしかない。
もう覚悟は決めているのだ。いつまでも傍に居続けると。
ならば、その程度の手間は許容しよう。
彼と過ごす時間が何よりも至福な自分にとって、それもまた歓迎なことに違いはないのだから。
「…ん、んぅ……」
(あっ、もう起きちゃうかな? …それじゃ名残惜しいけど、そろそろ朝ごはんを作ろうかな!)
唯が密かな決意を固めたタイミングで、ベッドで横になっていた拓也が寝返りを打っていた。
気づけば時間もそれなりに経ってきているので、もう少しすれば目を覚ましてくるだろう。
さすがにこの秘密の楽しみを彼に知られるわけにはいかないので、もうそろそろ朝食を作りにキッチンへと向かう頃合いか。
「ゆっくり寝てていいからね、拓也くん。…おやすみ」
部屋を出る直前、拓也の髪をそっと撫でながら小声で語り掛ける。
おそらく届いていないであろうその声は部屋の静寂へと吸い込まれ……笑顔でその場を去っていく唯だけが捉えていたのだった。




