生まれた未練
「ぅ……あ、危なかった……」
ケルベロスが倒れたのを確認した恵菜がサンクチュアリを解除する。それと同時に、ガンガンと響くような痛みが頭を駆け巡り、堪らず恵菜はふらついて膝をつく。
この頭痛は魔力が尽きかけている初期症状。あと一分……いや、三十秒でも我慢比べが続けば、恵菜の方が先に倒れていただろう。それ程にギリギリの戦いだった。万全の状態だったのならもう少し余裕があっただろうが、先の戦いで彼女は幾分か魔力を消費してしまっている。クルーエルに魔力を取られたのも一つの原因だ。
もちろん、この再戦では魔力の消費を抑えていた。クルーエルの無詠唱に対抗するために用いたホーリーウォールを除けば、使った魔法は詠唱省略によるアクアボールのみ。恵菜の魔力総量からすれば、それによる消費は微々たるものだ。
それでも、残存魔力とケルベロスの恐るべき力を鑑みた場合、この勝負はどちらに転ぶか分からなかった。ケルベロスが何もせず、消耗を押さえて耐えることを選択してしまっていたら、恵菜の方が先に力尽きていたはずだ。故に彼女は、ケルベロスを挑発するような言動を取り、無駄に体力を消費するように誘導したのだ。
「水膜は……浄化までこのまま、かな」
ケルベロスは倒れたままだが、死んだわけではない。今も実はこちらの隙を伺っていて、水膜が消えた瞬間、いきなり襲い掛かってくることも考えられる。万が一に備えるなら、そのままにしてもらった方が良いだろう。
「ひぃやああああああああああ! エナさんっ! エナさああああああああんっ! 助けてくださいいいいいいいいいいいい!」
「ウーラメシーヤ」
耳に入ってきた悲鳴に恵菜が振り返る。その視線の先には、未だに水華に追いかけられているクルーエルの姿。ケルベロスに集中していたせいで気づかなかったが、どうやらずっと彼女らは鬼ごっこを続けていたらしい。
「水華、追いかけるのはもう大丈夫だよ」
『終ワリ?』
「うん。あ、でもこれは残しておいて。ケルベロスが起き上がって襲ってくるかもしれないから」
『分カッタ』
恵菜に言われた通り、水華が追いかけるのをやめる。だが、追いかけられていたクルーエルはなおも走り続け、隠れるように恵菜の背中にしがみつく。
「エナさぁ~ん……ゴーストがぁ……ゴーストがぁ~」
半泣き……いや、完全に泣いている。顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。未知のゴースト(?)に追いかけられる恐怖は、彼女に相当の心理的ダメージを与えたらしい。
「あー、クルーエルちゃん。この子はゴーストじゃないよ」
落ち着かせるため、恵菜がクルーエルの頭を撫でながら種明かしをする。誤解を抱かせるように仕向けたのは恵菜だ。その誤解を解いてやるのは彼女の義務だろう。
「ご、ゴーストじゃない、です……? なら、一体何です?」
「大精霊だよ。水のね」
「だ、大精霊っ!? う、嘘です! 大精霊がこんな場所に現れるなんてあり得ないです!」
「普通はあり得ないんだろうけど、私の友達だからね。呼んだら来てくれるし、この水膜を作ったみたいに助けてくれるの」
嘘は言っていない。全て本当のことだ。
「大精霊と、友達……? は、ははは、エナさんが訳の分からないことを言い出したです……」
笑い出すクルーエル。誰だって大精霊と友達などと言われたら笑うしかない。信じようとしない相手を説得するのは、いつも一苦労だ。ただ、今は説得に時間を割くよりも別にやることがある。
「ちゃんと説明してあげたいんだけどね。でも、クルーエルちゃんがやるべきことをしてからかな」
「やるべきこと、です?」
「ケルベロスの浄化だよ。そのためにここに来たんでしょ?」
「そ、そうですっ! そのために苦労してここまで来たです!」
わざわざここまで来た目的を思い出したクルーエル。パタパタとケルベロスが囚われている水牢へと駆け寄っていく。
「どう? 浄化できそう?」
「……はい。負の力も大分弱まってるです。この水も浄化に影響はないですから、このままでもできるです」
「よかった……」
これで終わる。そう思っていた恵菜だったが、ケルベロスの体が僅かに動くのを見逃さなかった。
「っ、離れてクルーエルちゃん!」
異変に気付いた恵菜はクルーエルを下がらせる。倒れていたケルベロスは顔を動かし、目を開いて恵菜達を見つめていた。
すっかり動けなくなったものだと思い込んでいた恵菜は、心の内で焦る。さっきまで地面に展開していたサンクチュアリは、ケルベロスにダメージを与えると同時に、ゴーストの力で地面の下へ逃げるのを阻止する役目もあった。それが無い今、ケルベロスは簡単に逃げられる。
当然、もう一度サンクチュアリを使えば、ケルベロスを逃げられなくすることができる。問題は、再びサンクチュアリを発動しようにも、残存魔力が雀の涙ほどしかないことだ。二回目の我慢比べをしても、恵菜の勝算は限りなく低い。
唯一の救いは、恵菜が倒れても水華とクルーエルがいることか。彼女らに頼めば、自分も連れてここから逃げることができるだろう。
むしろ、クルーエルが浄化を成功させる可能性も考えれば、サンクチュアリを先に発動させてしまった方がいい。恵菜は残りの魔力を使い切るつもりで、サンクチュアリを唱えようとした。
『無事で……よかった……』
「え……?」
だが、声が聞こえてきたことでそれを止める。戦闘前、そして戦闘の途中でも聞いた、あの声だった。
「嘘……正気に戻ったの?」
その言葉を発した直後、ケルベロスが頷いた。間違いなく、恵菜の言葉に反応を示している。
一度失ったはずの自我。もう戻ることはないと思っていただけに、恵菜は驚きを隠せなかった。
「ど、どうしたですか、エナさん?」
「ケルベロスが……正気に戻ったみたい」
「戻った……? ということは声が聞こえたですか!?」
クルーエルも嬉しさと驚きが入り混じった表情を見せる。
「うん。無事で良かった、って」
「無事で? もしかして、私達のことを言ってるですか?」
「たぶん、私達に対してだと思う。……そうだよね?」
『そう……誰か傷つくの……見たく、なかった』
「やっぱり、私達と戦いたくなかったんだね……。浄化されたくなかったからじゃないんだね」
恵菜の想像通りだった。戦い始める前にこれに気づけていれば……。そう思わずにはいられない。
「ま、待つです……。じゃあ、まさか、一年前のあの時に逃げたのは、浄化されたくないからじゃなくて、私から離れるためだったですか? 近くにいたら襲い掛かってしまうと思ったからですか……?」
ハッとしたようにクルーエルが問いかける。ケルベロスが言っていることが本心なら、あの時に見た光景には、全く別の意味があるように思えた。
しばしの沈黙。だが、ケルベロスが意を決したように頷く。
「……グルルォ」
「そう、だって」
「そんな……」
自分の予想が当たった。だが、それは彼女の心を締め付ける事実でしかなかった。
「辛かったですよね……。私がもっと早く気づいてあげられれば……もっと早く来ていれば……。あなた達もこんなに苦しまなくて済んだのに……っ!」
一年間、ずっとケルベロスは自我の崩壊と戦っていた。誰も傷つけないように、この洞窟に身を隠してまで。
ただ、これはケルベロスの本当の意志が聞けた今だからこそ分かること。一年前のあの日――何も知らなかった彼女は、誤った理由を想像してしまうに決まっている。
だが、今、彼女の心を埋め尽くしているのは後悔の二文字。何故あの時気づけなかったのか。何故こんなにも待たせてしまったのか。自分の不甲斐なさを責める言葉だけが浮かび上がってくる。
「ごめんなさい……。一年も待たせてしまって、本当に、ごめんなさい……っ! 」
崩れ落ちるクルーエル。謝罪と共に目から溢れてくる雫が頬を伝わり、地面を濡らす。
そんな懺悔を繰り返す彼女を、ケルベロスは優し気な瞳で見つめていた。
「……グウォゥ」
「……浄化、早く解放してって言ってる」
「グスッ……そう、ですね……」
目元を拭ってクルーエルが立ち上がる。今、自分がすべきことは懺悔ではない。ケルベロスが自我を取り戻していられるのも、僅かな間かもしれないのだ。
「……一年、よく頑張ったです。もう苦しまなくていいですからね。ゆっくり休むですよ」
一刻も早くケルベロスを救ってやる。それが彼女の使命であり、今できる最大の償い。
『世に縛られ 世を彷徨いし悲哀の魂よ 恐れることなかれ 寛大なる創生の主は全を受容す 永遠の苦辛より解き放たれ 安息の楽園へと還りたまえ この光は天へと導く揺り籠なり』
クルーエルが浄化魔法の詠唱を紡ぐ。聴く者を安心させる心地よさを含むそれは、詠唱そのものが鎮魂歌の役割を持っているように感じさせる。生者である恵菜でさえ、聴いていて心が洗われていくような気がした。
『ソウルプリフィケーション』
詠唱が完了し、魔法が発動する。それによって生まれた光がケルベロスを包み込んでいき、その巨体が端の方から徐々に薄れていく。
『ああ……暖かい……』
だが、ケルベロスは嫌がることなく、まるでその光に身を預けるようにしながら目を閉じる。苦しむことも暴れることもせず、ただ自分の身が消えていくのを受け入れていく。
「向こうへ行っても、三匹仲良くするですよ……」
クルーエルがそう優しく囁く。そして、ついにケルベロスの大きな巨体が四散し――
「――ワンッ!」
「…………は?」
可愛らしい鳴き声に呆気にとられるクルーエル。さっきまでケルベロスがいた場所――そこに子犬の姿をした半透明のゴーストがいた。
「ワォン!」
「アォン!」
しかも、三匹。
「ちょっ、どうなってるですか、あなた達!? なんでまだ残ってるです!? 完全に浄化されなかったですか!?」
「ウゥ?」
「ウゥ?じゃないです! あ、こらっ、どこへ行くですか!」
水膜越しに慌てるクルーエルなどお構いなしに、子犬達がフワーっとどこかへ飛んでいこうとする。落ち着きの無さは、まさしく子犬のそれだ。
「み、水華。ちょっと水膜解いてくれる?」
何が起きたのかさっぱり分かっていないのは恵菜も同じだったが、とりあえず水華に水膜を消してもらう。どうもケルベロスのような凶暴性は持っておらず、水膜で捕獲しておかなくても無害な気がしたからだ。
水華は恵菜にお願いされた通り、水膜を消し去る。それと同時にクルーエルが散らばっていこうとする子犬達を引き寄せるが、そんな彼女を見た三匹は首を傾げるような仕草を見せるだけ。
「失敗した、ですか……?」
「し、失敗なんかするの?」
「普通はないですよ! ただ、浄化魔法よりも強い念……この世で絶対にやらないといけないような未練があると、浄化ができないことはあるです……」
つまり、この子犬達には何らかの未練がある可能性が高いということだ。問題はその未練が何かであるが……。
「ワンッ! ワン!」
「オォウ!」
「アン!」
「あ~、そういうこと……」
三匹の声を聞いて、一人恵菜が納得する。
「な、なんです!? なんと言ってるですか、この子達は!?」
「クルーエルちゃんの言う通り、未練あるんだって」
「やっぱりですか! 何なのです!? 何の未練があるですか、あなた達!?」
脇を抱えるように、子犬の中の一匹を抱え上げて問いただすクルーエル。だが、子犬達からはヘッヘという息遣いが返ってくるだけだった。
「散歩」
「……はい?」
「だから、さ・ん・ぽ。生きてた時、全然外に行ってなかったから、散歩に行きたいんだってさ」
子犬の代わりに恵菜が答えたのは、拍子抜けするような未練。人間からすれば、その程度で現世に留まるのかとツッコミたくなるレベルだ。だが、犬にしてみれば中々に重い未練である。
「は、はは……。そっか、散歩ですか。……そういえばあなた達、コッソリ飼ってたせいで、どこにも連れて行ってあげられなかったですね。そりゃ未練も残って当たり前ですよね……」
「「「ワン!」」」
三つ重なって返ってきた元気いっぱいの鳴き声に、クルーエルは片手で顔を覆うようにして苦笑いを浮かべる。
「――分かったです。散歩、連れて行ってあげるですよ。今までお預けさせてしまった分、いっぱい散歩するですよ! どこへでもいつまでも、あなた達の未練がなくなるまで!」
「「「ワォウ!」」」
嬉し気な三匹の鳴き声。この瞬間、クルーエルにもこの世界でやり残した新たな未練が生まれた。
未練と書いて「さんぽ」と読む。
あけましておめでとうございます。




