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鉄鼠  作者: 森久上水
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・江戸者・

江戸の噂風は早い。

江戸市街に一度潜ればあとはのべつ幕無し。水のように広がり伝わっていく。



それはーー。


江戸作家、香長春水は愕然とした。


「先方と話が合わない。と、言うことですか?」


香長の家は家というより屋敷に近い。客間に通された町服の女は小さな肩で大きく揺れ動いて激しく息をしている。


「そ、そうなんです」


まあ、まずはーー。

水を柄杓に入れた水が出てきた。


それを女は女らしからぬ動きで飲み干した。


「お急ぎで失礼しました。どうにも急で少しでも早く香長さんに伝えなきゃと思って」

「それはわざわざご親身にありがとうございます」


香長はゆっくり頭を下げた。然し内心は動揺していた。新刊は後日と決まっている。


そもそも、版元の藤兵衛という男はまた日を改めて必ず出す。と言っていた。

まだ若く熱気も溢れていて、嘘を言うような男には見えなかった。


恐らく。

「先方の書き手 千野文吉さんに問題があったのでしょうか」


女ーー改め、香長の屋敷の小間使いのお千代は頷いた。

お千代は数年前始めて香長が雇った小間使いだった。

それきりお千代は小間使いでありながら方々を渡り歩いて世間の情報を集めている。


「なんでも紙が良くなかったらしくて夕方頃に先方のお二方も気づいたと言っていました」


夜、障子、縁側、庭、その先にかかる中天の月を見る。日はとっくに落ちた。


何か、対策を講じているのだろうか。


「どうしましょう」


お千代は香長の顔を見た。射抜くような黒瞳が香長の頭を貫く。


「わかりました。ご報告ありがとうございます。お千代さん」


私はーー。香長は立ち上がって月を見た。

「大阪へ向かいます」


そうですか。くれぐれもお気をつけて。そういってお千代は下がった。



千野文吉。

彼は二代目である。

先代の文吉は二年前に亡くなったと香長は聞いていた。

それは香長の師匠 藤野 与兵衛が亡くなってから一年後の出来事である。


師匠、与兵衛と向こうの先代千野文吉は昔から仲が良かったらしい。

まだ香長が与兵衛の小間使いだった時、与兵衛はよく先代を招いて話をしていた。


一度。


先代千野文吉の文章を見たことがある。


湖上の冬月や凍りて出づる有明の月、湖上より凍り咲く女郎花おみなえし。


未だに、その頭かしらが頭を離れない。

作品の中身までは見なかったし題目もみようとも思わなかった。


ただ、その一文を見た瞬間、この物語は生きている。と思った。


文字が生きている。拍動している。


この微々たる言葉の中に文吉は生きていた。

彼が舞い、動き、文字を身に纏って、有明の月そのものを我々に見せているような。


二人には共通点が多かった。


あまり詳しく香長は覚えてないがなによりも鮮烈に共通だったのは

死に様だった。


二人共、執筆の卓上で死んだ。


書き上げていたのは共同出版の書籍。


然し原稿は何者かによって散り散りにされおり文字の判別もつかず結局

幻の一作となった。



ふ、と。

我に戻る。


香長は夜月を見た。月輪が満ち欠けることなく輝く。

有明の月はーー。こんな月だったのだろうか。香長は静かに月に背を向けて

先にお千代が聞かなかった大阪へ行く理由を心中で説明した。




二代目千野文吉はきっと大坂に来る。



ーー次回投稿12月10日


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