・日折屋・
・序・
昔、彼の地に頼豪と名乗りし僧ありて功を立てし折、
天皇や「思いのままに褒美をとらそうぞ」と給ひける後
頼豪、寺の建立を申し入りけり。
されど、比叡山延暦寺一派の横槍ありて叶えられず、
頼豪これを怨んで断食に入り死す。
頼豪の怨念、
巨大な鼠となりて数千の子鼠を率いて延暦寺の教典を食い破ると言ふ。
・日折屋・
頭が破れてしまった。
文吉の血の気が引いた。頭がなければ作家はどうやって文を作っていくのだろう。
「ど、どないなっとんねん」
横にいた版元仲入の藤兵衛が紙に駆け寄る。
食い破れ、散り散りになった文字の破片は文吉の乾燥蔵に力なく流れている。
元々、文吉が書き上げて数日墨を乾かすために蔵に置いていた。文吉すらも今日の今時まで知り得ないことだった。
そう、言い訳できるのか先方にーー。
「鼠ですかな」
文吉は呟いた。既に身体から力は抜け木偶のように立ち尽くす。
どう、どうするのだ。
「どないすんのや、先方にはもう十月には納ると言うてしまったで」
原稿ーー否、紙切れを藤兵衛が握りしめる。
「あんたの文章がなければどうやって共同出版すんねん」
「ど、どうって」
文吉は言葉に詰まったが、淀んだ胸内からなんとか言葉を汲み出す。
「そらどうにもなりゃしません。ばってん、私あっしも物書きですたい。こん
なよか話そう易々と諦められるものじゃなか」
「ほな、今から題とカシラァ書き直す言うんか。間に合うかわからんで」
いや、藤兵衛はそれしか選択肢がないことを諭していた。
抵抗、いつのまにか仄暗い蔵は陰鬱な空気を着ていた。
いや、文吉は言った。
「それはできんのです」
藤兵衛の目が丸くなる。
「どういうことや」
「冒頭だけは変え書きがきかんのです」
二度も決裂と言う文吉を目の前に藤兵衛は呆然とした。
文吉は思った。文字は生きている。否、本当は生きてなどいないし無論死んでいる。
だが、一人前の作家が書いた文字は生きている。もしくは生かされている。
そういう風に見せる。作家はーー。
然し、
「そんならあっしが同じような文章をつこうてくるからそれで代用や」
だめだ。
「そりゃなりません。あの頭かしらでないといかんのです」
「何寝ぼけたこと言うとんねん」
藤兵衛は怒鳴った。蔵の仄暗い闇が深まる。日が暮れ始めたのだ。
「ならんのです」
あの頭がないとこの物語はーー。
死ぬ。
作家とは命を吹き込む杖なのである。最高の杖に文字を吹き込んだ時
吹き師である作家は物語の中に溶けて消える。そうすると文字はまるで生きているかのように踊り、舞、笑い、泣き、怒る。
だから。
私はーー。
「妖物屋にかかるのがええと思いますたい」
妖物屋、藤兵衛の目から怒りの影が薄まった。
「ええ、言うなれば何でも屋です。表面おもてづらは本ば売る本屋語っとりますがね」
「其奴んとこ行ったらどうにかなる言うんか」
藤兵衛は文吉の目を見た。日が落ちかける蔵前の二人の会話を除いて物音はしない。
表通りに人も通らない。町は夕方だと言うのに凪いでいた。
「確証はできません。ばってんーー」
「行かんよりはマシ、言うんか」
文吉は頷いた。切羽詰まっているのは藤兵衛も同じだ。もし、このまま先方との話が覆水になってしまえば相手は江戸に轟く名作家だ。免職どころでは済まないだろう。
「相手ば本屋です。江戸元に何か繋がりがあってもおかしくなかと思います」
覆水は盆には帰らないのだ。文吉にもう一度文章を書く気はないらしい。
「ほな、善は急げや今すぐいくで」
そう言って藤兵衛は玄関へ走り出した。それを見て慌てて文吉はバラバラに散った
破片を拾い集めて布に包んだ。
月が出ていた。夜、蔵闇の中で何か文吉ではない概念の小さな足音がした。
ーー




