大阪
師匠、初代千野文吉が死んだ時
後の二代目、文吉の小間使いだった恵之助は蔵にいた。
最初に見つけたのも恵之助であった。
卓上に臥す師は既に死んでいる。その手元にはとある言葉が握りしめられていた。
ーー
「女郎花おみなえしでございますか」
奥座敷から出てきたこの慇懃な老人は令蔵と名乗った。
この日折屋は本屋使いにしては屋敷のような広さがあって奉公人も多い。
元々、日折屋と顔見知りだった文吉は来るや否や藤兵衛と共に奥座敷に通された。
「ええ、師匠もーー」
鼠、にやられた。そういいかけたい言葉を文吉は飲み込む。
そうとはわからない。だが、確かにあれはーー。
「紙ば突然散り散りになってしまうのですたい。半刻もしないうちに」
「それは面妖なことでございますな」
令蔵は側にいた奉公人に何か耳打ちをして奉公人が駆け出していくのを見るとこちらに向き直った。
「そんなことよりも令蔵さん」
藤兵衛が耐えかねた表情で令蔵を見る。怒り、それすらも含んだ焦りが藤兵衛の身体を包んでいた。
「どうにかなりませんか?」
どうにか、というのはーー。
令蔵は藤兵衛を見た。藤兵衛は版元の商売人である。
大阪、江戸、肥後あらゆる所であらゆる買い手に出会う。彼らは己が文章を売るために藤兵衛に声をかける。だから藤兵衛は人別眼には自信があった。
「難しいことでございますな」
藤兵衛には分かる。恐らく文吉にはわからないだろう。
「私あっしらも日折屋がこんな無理難題まで解決できるできるとはおもとりゃせん。ばってん、もう他に手はないですたい」
この男はかなりの器を持つ男だ。身体から藤兵衛も経験したことのないまさに
妖物の気が流れている。こんな気配、藤兵衛は見たことがなかった。
「一つ、手がございます」
手、文吉がポツリと復唱する。令蔵は頷いた。
「大坂に我ら日折屋の総本山がございます。そちらへ行けばそこは正に何でも屋でございます。何でも、と申しますものは何でもでございます。壊れ物の修理から人探しまで、当然でございますがーー。」
殺しもまた然り。でございます。
座敷一間に異様な空気が流れる。藤兵衛は既に手汗を握っていた。
そこはーー。
藤兵衛は日折屋の総本山を知っている。大坂で知らないものはいない。
本屋だが組合には一切入らずどの店とも群れず、添わず、ただ一店で大坂の商業都市の中心を廻っている。
「そこへ行けば道も開けましょう。大阪行くには今日常とは行きませんが出来るだけ早く着けるようにこちらからその道に詳しい者をつけます故」
道は、それしかない。刻限は残り半刻。
何時間、否、何秒でもいい。早く届けなければ
「ではお願い致します」
文吉と藤兵衛が頭を下げると襖が開いて藤兵衛と同い年程の若い男が入ってきた。
「隆蔵でございます」
では、行きましょう。隆蔵と名乗る男はそういい終わるや否や廊下へと歩き出した。
文吉と藤兵衛は急いで後を追った。
ーー
大坂は荒野だ。
香長は思った。
大坂に人はいない。いるのは獣、生霊、死者、だけだ。
獣は狡猾、
江戸の何十倍もの交易が行き交う街は人の食い合い。
駆け引きに近く他人の肉を食んで自らを成長させる。
そして食われれば後は魂のない生霊か死者として生きていくしかない。
そんな世界
そしてそれぞれの獣が大きくなればなるほど大坂という荒野も大きくなっていく。
座敷一間。男は香長の事を知っていた。
「紙の修理、でございますか」
男ーー。或いは、修繕屋の八郎は香長の一言一言にゆっくりと頷く。
「ええ、私も言伝でしか聞いてはおりませんが先方の納めるはずだった墨紙の冒頭句だけが破れてしまったのだと」
ここまではお千代のもたらした情報として知っている。
「紙、と申しましても多種多様な種類というものがございます。
例えば私は江戸者故、大坂半紙であると修繕に時間のかかるものでございます」
急用であることは読まれているらしい。
八郎は若い。香長よりも六つ程年下に見える。
しかし、口調や推察の良さは数えて十は年上、そう見える。香長には。
「先方は今日の昼周りには着くでしょう。どうかその時はお頼み申す」
香長は頭を下げた。
「そう気安く頭を下げてはなりませんよ。香長さん」
それにーー。
八郎は花瓶に生けられた見事な女郎花を見た。
「紙、というのは妖が宿りやすいものですから」
香長は女郎花を見た。座敷一間、
無風の空間に凍っているはずの女郎花がこゆれた気がした。




