15
翌日、大荷物を抱えた私たちが村へ入るなり、血相を変えたユウが駆け寄ってきて赤ん坊の様子がおかしいと訴えてきた。
私は慌てて村長の家へ向かった。
筵を跳ね上げるようにして家の中に入ると、その場に集まっていた大人たちの視線が一気に私に集中した。
光の加減のせいで、彼らの体に寄生しているこぶじゃくしの病巣が光り、まるで数十万の目が、ギラリとこちらを向いたように見えた。
「先生、ああ良かった。サヨが……!」
トキがよろめくように私の方へ寄って来て、赤ん坊を差し出してきた。
彼女とユウの最初の娘、サヨは生まれて二月ほど経った。
この二月、トキの乳としっかり煮沸した水を飲み、すくすくと問題なく育っていた。
尿検査の結果、サヨの体内にこぶじゃくしは認められないことも分かっている。
私は、この村の中で唯一、こぶじゃくしに感染していない幼子が成長していく様子を、私は微笑ましいと同時に興味深く眺めていた。
生後半年を過ぎなければ、赤ん坊は普通、熱を出すことはない。今、腕の中に抱き取った乳児は、明らかに発熱していた。
「先生、いったいどうしたらええのっ?」
たいていの母親がそうであるように、初めての我が子が初めて熱を出し、トキはほとんど恐慌状態に陥っているように見えた。
そんな彼女を、家長やその妻たちが宥めるが、彼女にはほとんど聞こえていないようだった。
そして、私もまた「よくあることだから、心配するな」と気軽に言えない状態だった。
「先生、熱を下げる薬、出しますか?」
篠目がすでに薬箱を広げながら聞いて来た。私はどうしたものかと逡巡した。
熱が出れば下げればいいと考えられがちだが、最近の研究で、発熱は体内に入り込んだ細菌などに対する人間の防御反応なのではないかと考えられるようになってきた。
せっかく体が生まれながらに持ち合わせている力を駆使して、体内に入った細菌を殺そうと努めているのに、下手な投薬で解熱させてしまうと、病が逆に悪化してしまうというわけだ。
「少し様子を見よう」
私が言うと、篠目は何とも言えない顔をし、村人たちは不安そうな顔を向けてきた。
「水で冷やしてやるといい。今は下手に手を出すべきではない」
断固たる口調で言えば、その場にいた誰もが私を信用し、私が出した決断に納得したようだった。
医者は、何があっても不安をあらわにするべきではない。今まで幾度と無く考えたことを、今また改めて実感させられていた。
「先生、カイから聞いたんやけど、今日は北山に登るって?」
私がじっとサヨを見下ろしていると、ユウが頼りなげな声でそう聞いて来た。
同時に、トキが我が子の死刑を宣告されたような顔になる。
「ああ、そうだよ。しかし、明日にしようと思う。今はサヨちゃんが心配だから」
私がそう答えると、歳若い夫婦は明らかに安堵した表情になった。
「ただ、シンさんにそのことを伝えなければならないんだ。誰か手が開いている人はいないかな? 申し訳ないんだが、シンさんに今日は山登りはできないということを伝えて来てもらえないだろうか」
「それなら、俺が行って来る。じっとしてられんし」
そう言って、ユウはこちらの返事も聞くことなく家を飛び出して行ってしまった。
その瞬間、ユウの母親が盛大な溜め息をついた。私には、ユウの行動のいったい何が母親を呆れさせたのか、見当もつかなかった。
「まったく、男はこれだから困る! 都合が悪いことなったら、すぐ逃げる。ユウもカイも、あんたにそっくりやわ!」
いきなり非難を浴びせかけられた村長が、戸惑うような仕草を見せ、その直後に腰を浮かせた。
そんな村長を見て、身に覚えのある私もつい視線を逸らしてしまっていた。だが、村長の妻は、彼が逃げ出すことを許さなかった。
「座っときんさい! まったくもう、どこに行くつもりか知らんけど、ウロウロしてても何にもならんやろうが! でかい図体してウロつかれるだけ邪魔になるだけやわ!」
村長の体が、心なしか一回り縮んだように見えた。
「ユウにも困ったもんやわ。あんたがジタバタしても、サヨは良くなりゃあせんのに。いつでもそうや。こっちが大変な時に限って、男はすぐおらんようになる! 今年の正月のこと、私は未だに忘れんよ! 正月には餅つきをするよって言うてあったやろうに! 三人が三人とも、朝起きたらおらんようになっとる! どういうことなのっ?」
このまま放っておくと、延々と愚痴が始まってしまいそうな雰囲気だったので、私は早々に村長の妻を宥めた。
なんだかんだ言って、彼女も不安なのだ。
サヨは、彼女にとっては大事な初孫だ。可愛いに決まっている。その孫が、熱で苦しんでいるのだ。
見ているしかできない辛さは分からないでもなかった。
男はとりあえずその場から逃げ出し、女はとりあえず心の中のもやもやした不安に適当な理由を付けて口から吐き出す。
方法は違っても、心の中に居座る不安や恐怖をどうにかしてしまいたいという思いは同じなのだ。
ただし、その方法の違いを、互いに理解できないというだけの話だ。
しかしながら、家の中を流れる空気はまさしく糸をピンと張り詰めていて、いつ何がきっかけで、あらゆるものが崩壊してもおかしくないような緊張感に包まれていた。
私はとりあえず彼らに「何か」させておくことにした。
ただただじっと座って、時間が幼子の病を治してくれるのを待つことは、彼らに必要以上の忍耐を強いることになる。
こういう時は、むしろ体を動かしていた方がいい。
何より、本音を言わせて貰えるならば、この一触即発状態を私が耐え切れなかったとも言える。
とりあえず、サヨのために飲み水を確保するために湯を沸かさせる。
その水は、冷ました後に体を冷やすためにも使うので、なるべく多目に用意させた。
そして吐き戻したときのために着替えも準備させ、彼らが動き始めると同時に、私は村長宅を辞去した。
そして、私は村長の視線に気まずい思いをしながらも、立花の天幕に向かった。
立花は、相変わらず落ち着かない様子であちこちを動き回っていて、私の存在にさえ気付いていない様子だった。
一画では、カイが真剣な顔で試験管を振っていた。
「サヨの具合はどうでした?」
立花より早く私の存在に気付いたカイが聞いてきた。
私は「まだ、何とも言えない」と答えた。カイは頷き、自分の仕事に戻った。立花がようやく私に気付き、私はつい苦笑を浮かべて口を開いた。
「普段なら、赤子が熱を出したと診察に来たら、適当な薬を処方してそれで終わりなんだ。だから、患者を家に帰した後、両親があれほどまでに緊迫した雰囲気になるなんて知らなかった。食い殺されるかと思ったよ。まるで野獣の檻の中というか、戦場というか」
「戦場と言えば」
私は自分が余計なことを言ったと自覚した。
私が伝えたいことはほとんど伝わっていない様子だったが、例えとして持ち出した「戦場」という単語が、彼の頭の中で言葉の爆発を引き起こしてしまったようだ。
私は少しばかりうんざりしながら、最新式の米国式戦車がどうの、米国の何とかという会社が開発した散弾銃がどうの、射程がどうの、命中率がどうのと一気に捲くし立てる立花に、曖昧に相槌を打っていた。
少しでも誰かと会話を楽しむことが好きな人間であれば、私が彼の話に退屈し、話を最後まで聞かなければならないという状況に、苦痛さえ覚えていると察してしまうところだろう。
それほどまでに、その時の私の態度は熱が籠もっていなかったはずだ。
だが、立花相手にはそんな常識は通用しない。
彼はただ、自分の前に「何か」があって----必ずしもそれが人間である必要は無いのではないかとさえ思う----自分が喋りたいことを力尽きるまで喋れればそれでいいのだ。
残念ながら、私には銃火器に対する知識がほとんど存在しない。
よって、彼が語った専門的な内容の会話など、まるで覚えてはいない。釣瓶落としと例えられる秋の陽のように、彼が額に汗さえ浮かべながら語った言葉は、私の耳からすーっと抜け落ち、どこにも留まること無く消えていったのだった。
「立花先生の話は、すごくおもしろいですよね」
私と違って、自分の仕事をしながら彼の話を真剣に聞き入っていたカイの言葉に、私は愕然とした。
今、戦車の話をしていたかと思うと、次の瞬間には大砲の話になる。
大砲の話をしていたかと思うと今度は米国の政治の話になり、政治の話が一段落さえしないうちから再び戦車の話が始まり、戦車の話が終わらないうちからまた政治の話になる。
思ったことを思ったまま、それこそ機関銃の一斉射撃のように喋り散らすこの話し方のせいで、立花は大学で教鞭を取るという職業から、うまい具合に追放された。
彼自身、誰かに教えることに時間を使うより、自分の興味対象をとことん追求したいという性分の持ち主なので、気にしてはいない……というより、むしろ追放されたという、その事実そのものを認識していないのかもしれなかったが、とにかく立花の話は、分かりにくいことと面倒臭いことで有名だった。
「君は、立花の話についていけるのか?」
私が思わずそう聞くと、彼はむしろ意外そうな顔で私を見た。
村長宅から私を呼ぶ声が聞こえていた。カイに対して複雑な思いを抱きつつも、医者を呼ぶ声を無視するわけにはいかず、私は足早にその場を後にした。
若者が知識を吸収する能力は、我々の想像を絶するものがある。
私自身、変化していく時代の流れに対して柔軟な思考の持ち主であるということを自負していたつもりだったのだが、自分はいつの間にか流れに付いて行けなくなっていたようだ。
「やれやれ。私も年なのかな」
若者の才能や能力、力強さに嫉妬しても仕方がないと分かってはいるが、取り残されていく自分、ただ枯れていくだけの自分、このまま終わっていく自分、未来のない自分に、どうしても納得できない思いが胸の内で渦巻いている。
突き詰めていけば、そういった感情は、死の恐怖ということになるのだろうが、私の本心はまだ自分の価値を過小評価したがってはいなかった。
甲府盆地の日本住血吸虫症においては、長らく謎とされていた中間宿主を発見した研究者の功を称え、その巻貝は「宮入貝」の名を送られたと聞く。
私は自分の名が付けられたこぶじゃくしを想像した。いとうじゃくし。もしくは、ただひでじゃくし。
考えた瞬間、何ともいえない嫌な気分になった。これではまるで私が病原体となり、村人を苦しめているようではないか。
こぶじゃくしは、やはりこぶじゃくしのままでいいようだ。
私は「水の用意はできた」「サヨは大丈夫なのか」「替えの着物は用意した」「サヨは大丈夫なのか」「何か食べさせてやりたい」「サヨは大丈夫なのか」「ユウはいつごろ帰って来るのだ」「サヨは大丈夫なのか」そんな家族らの言葉を聞きながら、努めて冷静に乳児の診察を行った。
「先生、やはりこのまま様子を見るのは厳しいのでは?」
篠目が、私が膝を付くなりかなり緊張した顔でそう言ってきた。乳児の肌は燃えるように熱く、顔面は蒼白、心拍・呼吸ともに速く、なおかつ空咳まで出るようになっていた。
家族が、縋るような目で私を見ている。
「分かった。試してみよう。熱はともかく、咳はどうにかしてやらなければ、苦しそうだ」
篠目に具体的な指示を送ると、彼女は疾風の勢いで調合を始めた。その要領の良さを見ていると、私が指示を出すであろう薬剤をはじめから予想していたとしか思えなかった。
「助かってくれるとええんだが」
村長の兄であるロクさんが、地獄穴から吹きすさぶ風のような声で呟いた。
もともと、乳児の死亡率は高いものだが、こぶじゃくし村ではそれが群を抜いていると言っても過言ではない。
私は、何と言って良いものか、言葉に迷うしかなかった。
認めたくは無いが、町の診療所であればまだしも、器具にも薬にも限りがある状況で、私にできることはほとんどないに等しい。
サヨの生きる力に賭けるしかないのだ。
私は彼らから視線を逸らすように、荒い呼吸を繰り返しているサヨを見やった。
篠目がサヨを抱きかかえ、調合した薬を頬の内側に塗りつけた。途端に、乳児は薬の味を嫌って顔を顰め、涎を出し始める。
篠目がさっと白湯を含ませ、口を無理やり閉じさせて薬を飲み下させた。私には到底、真似できぬような早業だった。
これからどうなるのだろう。
私は、まんじりともしない思いでサヨを見下ろした。
こちらの緊迫した雰囲気を察したのか、サヨは余計に大きな声で泣き声をあげ始めてしまう。
泣ける元気があるうちは大丈夫だ。私は、経験から、サヨにはまだまだ時間と体力の猶予があることを察した。
大人と子供は同じ人間でありながら、まるで別の生き物のようなふるまいを見せる。
大人は具合が悪ければじっとしているが、乳幼児の場合は、体調が悪ければ悪い分、不機嫌になって動き回る者が多い。
まだ自分の力で歩けない赤子の場合は、ひたすら泣くという行為がそれにあたる。
そして、いよいよ体調が悪化すれば、動き回る力も無くなり、ぴくりとも動かなくなる。
ようやく静かになったと大人は安心してしまいがちだが、乳幼児が静かになった時こそ要注意だと言える。
トキが慌てたように駆け寄ってきて、そのこぶじゃくしだらけの腕を伸ばし、サヨを抱き上げた。
黒い、小さな生き物が無数に潜んだ出来物だらけの肌が、乳児の滑らかな肌に触れる。その瞬間、私は何とも言えない嫌悪感を覚えていた。
母親の腕に抱かれて泣き止む兆しを見せるサヨを見て、私は何とも言えない思いを抱いた。
私にしてみれば肌が粟立つような光景でも、サヨにとっては他の何より安心できる母親の腕なのだ。
入り口にかけられた筵が、風に揺れている。
光と影がゆらゆらと、床を踊っていた。あまりにも不確かなその動きを見ていると、それはまるでサヨの運命そのものだという気がしてきた。
彼女の体は今、必死で病と戦っている。生に傾くか……光が留まるのか……それとも死に傾くか……光は追放されるのか……、それを決めるのはおそらく、我々には想像も付かないような小さな世界の、小さな生き物たちが繰り広げる、小さな営みの結果だ。
空を飛ぶ技術さえ作り出す人間の命を握っている生き物が、肉眼では見ることもできなければ、指で触れることさえできないような小さな生き物だというのは、あまりにも皮肉だと思った。




