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 立花が唐突に帰って来たのは、その日の夜更けのことだった。


 明日へ備えて早めに布団に入ったはいいが、私は一向に訪れぬ眠気に幾度となく寝返りをうっていた。


 時間は刻々と過ぎていく。


 早く眠らなければ明日が堪える、と焦れば焦るほど、居間に置いてある柱時計の秒針の、微かな音さえ気になってしまう。


 そんな状態だったから、裏戸が開かれる独特の音も耳に入った。


 廊下を歩き回る静かだが遠慮のない足音を聞いて、すぐに立花の顔が思い浮かんだ。


 その瞬間、私は寝ようとする努力を諦めた。


 じっと布団を被ったまま鬱々として過ごすより、立花が持ち帰ったと思われる何かしらの情報か、あるいは研究機材を確かめに行った方が、まだマシだ。


「まだ起きていたのか」


 階段を降りてきた私をチラリと見て、立花は気のない声でそう言った。そして私が何か答えようとした時にはもう、立花は廊下の向こうに歩き出していた。


 すれ違った立花から、汗と外の匂いがした。


「何か手伝うことは?」


 一心不乱に歩いている立花に向かって問いかけると、彼は一度その言葉を無視した。


 正常な聴覚を持つ彼にとって、聞こえない距離ではないのだが、どうやら彼は考え事に夢中で聞いていなかったようだ。立花相手には、今更だ。


 もう一度同じことを問いかける。はっとしたようにこちらを見た立花は、裏口の傍に積まれている木箱の山を指差した。


「それを居間に運び込んでくれ」


 分かった、と答えた私の声は、おそらく立花には聞こえていないだろう。彼は今、別のことを考えるのに忙しいようだ。


「明日の朝、こいつを村へ運ぶ。硫化水素の検出道具一式だ」


 私は自分の目と耳を疑った。


「そんなもの、どこで借りてきたんだ?」


 立花は、何でもない顔をしてこの地方に唯一存在する大学の名を答えた。普通に考えれば、ここからだとどんなに急いでも二日はかかる距離だ。


 しかし、彼は一晩で戻って来た。私は、つい怖いものを見るような目で立花を見てしまっていた。


 つくづく思うのだが、彼の行動力の速さと、何よりその力強さには舌を巻く思いだ。


 頭が痛い、体調が悪いと零しながらも、彼は夕べから今まで一睡もせず、ひたすら馬を変えつつ、道具を取りに行って来たのだ。


 それも、三つ揃いの背広を着て……。彼はいつだってその服装をしているが。


「変わったことはなかったか?」


 居間に運び込んだ木箱の間をウロウロしながら、立花は聞いてきた。


「いつもと変わらないさ。ただ、明日は北山に登ってみようと思ってる。墓守をしてるシンさんが案内してくれることになった。カイも連れて行きたいが、彼はお前が助手として必要なんだろう?」


 お茶でも淹れようか、と問いかけたが、彼は見向きもしなかった。


 私にしてみれば信じられないことだが、彼にとってはここから一晩かけて休み無く馬を飛ばすことの方が、居間に座ってお茶を飲むことより何倍も苦痛が少ないのだ。


 立花にとって立ち止まるということは、そのまま死を意味しているのかもしれない。


「ユウを連れて行けばいい。カイには手伝わせることが山のようにある」


 そして彼は、いきなり掛け軸の裏を点検し始めた。


「そんなところを調べても穴など無いぞ」


「あ、いや、つい」


 盗み聞きしている者はいない、と言外に含ませたつもりだったのだが、予想通り伝わらなかったらしい。


 立花は医学分野の研究にかけては我が国でも屈指の実力者であるのだが、ちょっとした言い回しや、冗談の類などはまるで通じない節がある。


 呼んで字の如く、文字通りの意味にしか受け取らないのだ。


 成人男性同士の会話でありがちな、性生活を匂わせるような会話があっても、他の者たちはニヤニヤと絞まりの無い顔をして話の中心になっている男を見ているというのに、立花は「今日はちょっと? ちょっとって何だ?」と、真顔で周囲に聞き始めてしまう。


 これで彼が医学者でなければ、ただの変わった男、取るに足らない男、頭の悪い男だと思われて石を投げつけられるような生き方をしなければならなかったはずだが、どういうわけか、彼には人並みはずれた頭脳と行動力、何より旧家という家柄と金があった。


 一緒に遊びに出かけて、おもしろいと思える男ではないのは確かだ。


 遊郭に行っても、花魁相手にひたすらバイキンや微細鏡の話を喋りまくり、落ち着かない様子で調度品をひとつひとつ調べて回る。


 女たちから犬か、ガチョウでも見るような目で見られ、同時に、一緒にいる男たちを心底げんなりさせる。


 酒を飲んでいても変わらない。話をしていても、ほとんど立花が一人で勝手に喋っているようなことになる。


 しかし、彼は屈指の実力者であるため、ないがしろにするわけにはいかず、無視もできない。


 結果、立花はその豊富な資金力にモノを言わせて、世界各国を回る研究者という立場となった。


「つまり、水銀と反応させれば硫化水素は検出できるわけだから、ここにビーカーと試験管を用意して、村の拠点から検体を集め、それを科学反応させればいいんだ。そこに、こぶじゃくしを入れる。そして再び検出する。こぶじゃくしを入れた検体と、入れていない検体の三時間後の結果を比較する。もし硫化水素の濃度が低くなっていることが証明できれば、こぶじゃくしの感染が、化学物質の汚染から何らかの形で村人の生命を維持している可能性を指摘できる」


 休み無く喋り続ける立花に、私はふと興味を引かれて「旅はどうだったか」と聞いてみた。


 一瞬、立花は凍りついたように動きを止め、口を閉じたが、すぐにまた硫化水素の検出実験の話を始めてしまった。


 長い旅だったはずだ。


 普通に考えれば、ここから一昼夜かけて都会まで出てくるのは、相当な苦労が伴うはずだ。


 長い道中なのだ。


 すれ違った人、話しかけた人、道端のお地蔵さん、稲が刈られた田んぼ、優雅に空を舞う鷲。


 馬を飛ばし続けるのがどれほど大変であったのか、あるいは、交渉に出向いた大学の教授がどんな顔をして出迎え、そんな言葉で器具や薬品の持ち出しを了承したのか。


 我々のような普通の人間が興味を持つようなことは、立花の頭の中ではまるで興味のないもの、気に留める必要の無いものとして処理されてしまう。


 早馬を駆って、ひたすら先へ先へと急いでいる者が、決して道端の石に気付くことがないようなものだ。


 生きていれば誰しもそういう体験はあるものだが、立花の場合はそれが極端に限定されている。


 彼は、おそらく自分が思っている以上に、人間と木の区別が付いていない。


 彼が興味があるのは、微細鏡の中に広がる小さな世界の探求だけだ。


 それが結果的に、我々のような人間の役に立っているというだけで、もし仮に私が明日死んだとしても、彼はおそらく戸惑うだけで、悲しむことはないだろう。


 彼にはおそらく、悲しいという感情が分からないのだ。


 同時に、どうやったら悲しむことができるのかさえ分かっていない。そういう意味でも、立花は周囲の人間と切り離された存在だと言える。


 居間の中をあちこち動き回り、調度品を調べ、掛け軸をひっくり返し、柱時計を開き、水墨画の飾られた欄干の額をひとつずつ手にとって元の位置に戻し、今度はたった今、自分が持ち込んだ荷物の点検を始めていたかと思うと、彼は風呂にも入らず、その場で意識を失うように眠り込んでしまった。


 いつものことだが、困ったものだ。


 まるで子供のようなその振る舞いに溜め息を落としつつ、さすがにこのまま放り出しておくのは気が咎めたので、私は彼の体に何か掛けるものはないかと周りを見渡した。


 適当なものが無かったので、二階の客間の押入れを探ってみようと襖を開けたとき、マツさんとばったり出くわした。


「あの、お茶をね……」


 マツさんは寝巻きのままで、丹前を羽織って背中を丸めていた。


 お茶を、と言いつつも、彼女は何も手にしていなかった。立花ならば気付かないかもしれないが、この状況でマツさんが本当にお茶を用意してくれようとしていたとは思わない。


「あの人、なんかおかしいわ」


 私が咎めるような目で彼女を見ていたのが気に障ったのか、マツさんは自分が盗み聞きしていたことなど棚に上げて不機嫌な顔になった。


 そして、遠慮もなく立花の方を顎でしゃくって見せた。


「あの人、何なの? まるで姑が生き返ったみたいやわ。こんだけ毎日毎日、何度も何度も家の中を点検されたら、腹がたってくる! いちいち言われんでも、ちゃんと掃除はしてますよ! あちこちあちこち、ウロウロ、ウロウロと……!」


 立花が落ち着きが無い男であることは、私にしてみればもう慣れきったことであり、気にも留めていなかったのであるが、診療所の実質的な「女将」であるマツさんにしてみれば、彼の行動は自分の怠け具合を調べる姑のような行動に映ったらしい。


 思いがけない考えに感心しつつ、どう言えばいいものかと思考を巡らせた。


 立花が微細鏡の世界にしか興味を示さないように、マツさんもまた「人間は人間」としか理解できない人だ。


 特に、彼女のような昔気質の女性は、自分の考えが万国・男女・世代すべてにおいて共通だと信じて疑っていない節がある。


 よって、彼は「そういう男だ」と言っても、まず理解してはもらえない。


 立花はただじっとしていられない男というだけで、別にマツさんの仕事具合を確かめているわけではない。


 しかし、マツさんにしてみれば、身分も高く……四民平等、太平の世になって四十年が過ぎてもなお、身分にこだわる人は多い……高い学歴があり、立派な職業についている人、つまり立花のような男が、常識外の言動や行動を取るはずがないのだ。


 そういった行動を取る人間は、世の中のはみ出し者、ならず者、あるいはキチガイに限られており、立花のような男は決してそうであってはならないのだ。


「まあ、あまり気にしないでください。もうじき、あっちの病気の方も片付きますから。そうすれば、立花はまず間違いなくまた海外に出て行きますよ」


 余計なことは言わないのが一番だと決めた私は、立花を悪者にしたままマツさんを撃退することにした。


 マツさんは何ともいえない顔をしていたが、厄介者は近いうちにいなくなると分かって、幾分か気分が晴れたようだった。


「市井はどうですか? 彼はうまくやってますか?」


 このまま「では、おやすみなさい」と言って別れるのも気が引けたので、最近、会話をする暇さえない市井について聞いてみることにした。


 正直、今の私にとっては市井のことなど、どうでも良かった。私の頭の中は、こぶじゃくし村の風土病と硫化水素の汚染のことでいっぱいだったのだ。


 市井の方も意図的に私を避けているようで、ここ一ヶ月ばかり私にとって市井は気配は感じるが姿が見えない、まるで幽霊のような存在だった。


「市井先生なら、心配いらんですよ。町の人たちからも、信用されとるしねえ」


 そう言って私の方を見るマツさんの目は、明らかに「お前のことを信用してる町のモンはおらんぞ」と言っていた。


 激しい敵意が込められた眼差しに、さすがに居心地が悪くなり、私は「立花に掛けてやる布団はないか」と切り出した。


「立花先生の部屋から、使ってるものを持ってきてくださいよ。新しいのは出さんで」


 マツさんは二階の部屋をしゃくった。


 私は分かりました、と答えて早々に階段を登った。背中を、彼女の視線が追ってくる。


 踊り場で下を振り返ったとき、ちょうどマツさんが踵を返して立ち去っていくところだった。


 彼女は懐から何か白い紙のようなものを取り出し、それを大事そうに胸に抱えながら歩いていった。


 お札だろうか、と思い当たった。


 真っ白な半紙に、毛筆、赤い印。使ったことも信じたこともないが、この国に住んでいれば、一度ならずお札というものを見たことはある。


 マツさんがそういったものを持っていたことに、多少なりとも衝撃を受けた。


 我々は医者だ。物の怪の類ではない。そして、病は物の怪が運んでくるものではないのだ。


「言うだけ無駄か……」


 私は諦めて、立花が私室として使っている四畳間の襖を開いた。


 その瞬間、むっとした独特の臭いが鼻を刺激した。ここしばらく、掃除も洗濯もしてもらっていないらしい立花の部屋の様子を見て、私は溜め息をついてしまった。

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