13
翌日、こぶじゃくし村を訪れると、カイから夕べは結局、立花は来なかったという話を聞いた。
最近では、すっかり立花の助手としての立ち居地が板についてきているカイは、立花の不在をどこか残念そうに語っていた。
「立花も、君がいないとまともに仕事が進まないと言ってたよ。医者の私より、君の方が役に立つそうだ」
まんざら嘘でもないことを言ってやると、カイは照れたように笑って頭を掻いていた。
「立花先生たちが来てくれてから、毎日がとても楽しいんですよ。退屈しなくていい。俺、字も書けるようになったんですよ。簡単なレポートなら、俺が代筆してるんです」
カイの言葉を聞いて、私は思わず耳を疑った。
立花が扱うレポートともなれば、いくら簡単なものとは言え、それなりに専門用語が必要不可欠となってくる。
三月前まで文字も書けなかった彼が、これだけの短い期間に専門用語を理解し、代筆できるほど使いこなしているとは、とても信じられなかった。
彼を見ていると、人の能力というものは出生で決まるわけではないということを思い知らされる。
四民平等、太平の世とは言え、現実はそうそううまくはいかない。富は一部に集中し、貧しい村は今もずっと貧しいままだ。
本人と子供がどれほど優秀でも、農家の出の者が私のように独逸へ留学できるかと言われれば、まずそんなことはない。
貧困は連鎖する。
親が貧しければ、否応なくその子も貧しい生き様を余儀なくされる。
何をするにも現金が必要とされる世の中だ。こぶじゃくし村のように事情がなければ、現金収入のない大半の農家は、自分の娘たちを女工として工場に送り出す。
女工たちは休む間もなく酷使されると聞く。
彼女たちが身を削り、命を糧に稼ぎ出す金の十倍、あるいは百倍の金を、東京の旧家の主たちは、ただ椅子に座って煙管を吹かしているだけで懐に収める。
四民平等などは幻想だ。
願わくば、誰もがその能力に応じた教育を受けられる世が訪れればいい。
そうすれば、今の倍の速さでこの国は発展していくのではないか。私は書類を整理しているカイを見ながらそんな風に思った。
そして「女工」という存在から、私の思考は工場群を思い浮かべた。
この村を汚染しているのはこぶじゃくしという風土病だけではないかもしれない。
今ここでカイにそれを伝えるべきかどうか悩んだが、彼の優秀さを信じて話すことにした。
「沿岸部の工場群が、この村に害のあるゴミを捨てている可能性があるんだ」
私が、我々を悩ませている体調不良のことを交えて説明すると、カイは一瞬驚いたような顔をした。
大丈夫なんですか、と聞こうとしているように見えた彼を遮って、私は北山の方を示した。
「ユウから聞いたんだが、あそこの山には幽霊がよく出るんだってね」
カイは「幽霊」という言葉を聞いて苦笑いを浮かべたが、すぐに真剣な顔で北山の方に視線を向けた。
聡明な彼は、私が言わんとしていることに気付いたらしい。
「確かに、北山には墓場もあるし、村の男も滅多なことじゃあ入ったりしないです。それこそ……幽霊が出るなんて噂も多い山だし、昼間でも不気味なところだから。年寄りなんて、あそこは地獄がはみ出した場所だ、なんて言ってます」
地獄がはみ出した場所、という表現は、なかなか言い得ていると思った。
「君は、北山に登ったことがあるかい?」
私が聞くと、カイは戸惑いながら頷いた。
「何度もあります。と言っても、葬式の時だけなので、墓場があるあたりまでですけど。人が死ぬと、男手がいるでしょう? 人ひとり埋める穴を掘るのも、けっこう大変なんですよ。ほら、山って木の根がすごいから」
「ああ、そうか。この村では死者を土葬にするんだったね」
私は今更ながらにそんな単純な事実に気付かされた。カイは頷いて言葉を続けた。
「墓場をみてるのは、辻先に住んでるシンさんです。シンさんに聞いてみますか?
俺、呼んで来ましょうか?」
カイが腰を浮かせたので、私はさっそくその言葉に甘えさせてもらうことにした。
ただ、彼にシンさんを呼んできてもらうのではなく、自ら出向くという選択をした。
朝一番の患者は、薬を貰いに来ている老人ばかりだったので、篠目に任せておけば充分であったし、何より私は、問題の場所を自分の目で見てみたかったのだ。
「立花先生は、いったいどこに何をしに行ってしまったんでしょうね」
枯れた彼岸花が無残な姿を晒している畦道を、私はカイと並んで歩いていた。田んぼと言っても、このあたりは水が悪いのか土地が痩せているのか、稲は植えてもほとんど育たないらしい。
田んぼであった場所には、今は枯れかけた雑草がぽつぽつと見えるだけだ。
「さあ。そればっかりはね。立花は自由気ままな男だから。思いついたと同時に行動に移すんだ。私にはとても真似できないよ」
私がそう言うと、カイは小さく笑い声を上げた。
「そう言えば、立花はね、子供のころは凄まじく落ち着きがない子供だったと言っていた」
カイは興味深そうな顔をして、こちらを見てきたので、立花からかつて聞いた彼の子ども時代の話を披露してやることにした。
「立花も、子供のころのことはよく覚えていないそうなんだ。まあ、当然と言えば当然なんだけどね。彼の母君が、立花が子供のころのことを語るときは、般若のような顔になるということだ。何でも、母君が右を向いた瞬間、左側で川に落ちているとか。カエルを見た瞬間には、全速力で駆けて行って握りつぶす。そして今度は川辺に落ちている石に向かって走り出す。川に入ったかと思うと、今度は反対側の家に向かって走り出す。家の横に積んである薪を全部ばら撒いたら、今度は隣の家の畑に走って行って穴を掘る。そして今度はまた川の傍に走って行って頭から水に突っ込む」
カイは驚いたような、呆れたような顔をして私の話を聞いていた。
「彼の母君は、一日中彼を追いかけて走り回っていたそうだよ。済んでみれば笑い事で終わるような悪戯もあるけれど、二階の窓から飛び降りようとしたり、焚き火の中に突っ込んで行ったりするのは、命にかかわるからね。他にも、彼はとにかく手とか足とか、動かさずにはいられなかったと言っていた」
「俺は、立花先生のこと、とても動きが早い人だと思っていました」
私は、納得して頷いた。
「ついさっき書類を見ていたと思ったら、もう検体に向かってる。検体に向かってるかと思ったら、今度は微塵鏡をいじってる。微塵鏡をいじってると思ったら、外科箱を点検してる。外科箱を点検してると思ったら、医学書を開いてる。医学書を開いてると思ったら、今度はもう寝てる……。ずっとそんな感じだから。それで、しっかり結果を見つけているじゃないですか。何ていうか、立花先生の時間は、普通の人の三倍の速さで流れているんだなって思ってました」
「子供のころには、人の三倍同じことを言わないと分からない、と母君を呆れさせていたそうだ。今となっては、人の三倍の速さで動いて、三倍の成果を挙げる。だからきっと、三倍の結果を見つけて帰ってくるさ」
私たちは互いに笑いながら畦道を進んだ。ススキが風に揺れている。穂を飛ばした後のその姿を見ていると、じきに訪れる冬の予感が強く匂った。
「好きなところに行ける先生が羨ましいです」
もうじきシンさんの家につくというころ、カイがぽつりと言った。
「こんな見た目じゃ、下手に出歩けば殺されかねない」
こんな見た目、と語る彼の言葉が、私には少し皮肉に感じた。こぶじゃくしの病巣さえなければ、彼はかなりの二枚目であるからだ。
どちらかと言わずとも平凡な見た目に生まれた私にしてみれば、彼の言葉を素直に受け取ることができなかった。
しかしながら、彼の「見た目」つまりこぶじゃくしの病巣に慣れ始めている自分にも気付いた。
それこそ、初めてこの病巣を見た時は、そちらにばかり目が行ってしまって、本人の顔かたちなど、とても目には映らなかった。
医者として、その変化はどう受け取るべきなのだろう。あるいは、人として……。
どちらでもいい、と思えた。彼は私の患者であると同時に、良き友人だ。友人の見た目に慣れ、その言葉に皮肉を感じるのは、別に悪いことではない。
私がそんなことを考えていると、カイは辺りを窺うようにさっと視線を走らせ、声を落として話し出した。
「実は、親父には内緒で、何度かこっそり町に下りたことがあるんです」
私はどう答えたら良いものか判断がつかず、一瞬黙り込んで彼を見た。カイは苦笑しながら、言葉を続けた。
「どうしても、村の外が気になって仕方なかったんです。俺はまだ顔にコブが出来ていないから、首から下だけ隠しておいたら、普通の人と変わらないでしょう? ああ、別に何もしてないです。ただ、見て来ただけ」
私は頷き、彼に話を促した。ふと、彼の兄が「カイは、時々自分には考え付かないようなことを言ったりする」などと言っていたことを思い出した。
「工場の方にも行って来ました。働き手にならないかって声をかけられた時は、本当に迷いました。だけど、親父がいつもいつも、こぶじゃくしは何があっても外に出したら駄目だって言ってましたから。適当なことを言って帰りました」
「村長さんの気持ちも、君の気持ちも分かるから、何ともいえないよ」
私がそんなことを言えば、カイは自嘲するように笑った。
「どちらにしろ、あまり長い時間、着物できっちり覆ってると、こぶじゃくしが着物と体の間に溜まって気持ち悪いんです。だから、こぶじゃくしがどうにかなるまで、外で働くなんてことは考えられないですね。もし外に出て行けるなら、俺は、先生たちみたいに外国に行ってみたい」
私は思わず苦笑しながら首を振っていた。
「外国は、外にある国っていうだけで、天の国とは違う。人間がいる場所さ。いい経験ばかりできるわけじゃない」
私の言葉に、カイは「それはそうでしょうけど」と言った。
「工場で初めて機械ってやつを見た時は、本当に驚いた。村が変わらないだけで、世の中はどんどん進んでる。もっと知りたいんです、いろんなことを。知った後で後悔するより、何も知らないままでいることの方が、絶対に後悔します」
カイの言葉を聞きながら、そういう見方もあるのか、などと私は密かに考えた。
確かに、独逸という国、そして一部の白色人種に対し、私の考えは渡航前と渡航後では大きく変わった。
そして自分自身が差別「される」立場であるということも、否応なく知ることになった。
知らなかった方が幸せだったと、ずっと思っていた。
私は、カイがどういう反応をするのか知りたくて、簡潔に独逸で味わった劣等感について語ってみた。
「肌の色が黄色いから付き合いたくないっていう連中とは、別に付き合わなければいいじゃなですか。別に国と国との問題っていうわけでもないんだし。そこで真剣に悩んでも何にもならないですよ。こっちは絶対に白人にはなれないし、無理して白人になっても、向こうから見れば滑稽でしょう。それより、言いたいヤツには言わせておいて、自分が知りたいこととか、やりたいことを徹底した方がいいに決まってる」
「君は……自分より年下の、まだまだ子供のような女の子が自分よりも体格がよかったとしても、同じことが言えるかい?」
私が聞くと、カイは声を上げて笑った。
「そういう子なら、むしろ積極的に声をかけますね」
私は舌を巻く思いだった。さすが、男前に産まれると言うことが違う。
「それに、体格がいいのを自慢に思う子ばかりじゃないかもしれませんよ。西洋人って言っても、体格のいい人ばかりじゃないんでしょう? 立花先生が言ってたけど、南部の方に住んでる白人は、そこまで大きくないとか。だったら、小さいほうがいいって思う子だっているかもしれない。人それぞれじゃないんですか?」
私は曖昧に頷いた。
何と言うべきか、真剣に悩んでいた自分が馬鹿に思えてきた。要は、他人の評価を無駄に気にせず、自分のすべきことに集中すればいいのだ。
「まったく、君に話してよかったよ」
私が言うと、カイから「先生は真面目すぎる」などと言われてしまった。確かにその通りだと思ったので、私は笑うしかなかった。
そして私たち二人は、何と言うこともない会話を続けながら、シンさんの家に向かった。
「シンさん、いるかな」
勝手知ったる様子で、カイは入り口の筵を跳ね上げ、中に向かって声をかけた。しかし、反応はなく、家はしんとした空気に包まれていた。
人がいない家屋というのは、途端にそれが「人が住む場所」から単なる「物」に変わってしまうようだと思った。
家に帰って来たとき、台所で立ち働く母親がいるだけで、家という場所は生き生きとして感じられる。
母親でなくてもいい。誰かがいる家というのは、それだけで人間の生活の中心となる。
しかし、誰もいない家というのは冷え切っていて、どこか他人行儀の顔をして私たちを迎える。
そういえば、家は英語で「ハウス」家庭は英語で「ホーム」と使い分けられていると思い至った。
ハウスは家そのもの、単なる建物を意味するが、ホームと言えば、そこに住んでいる人間、あるいは日々の生活を想像する。
多くの人間は家を望むが、彼らが望むのはたいていハウスではなく、ホームだ。
誰もいない家は、途端にホームからハウスになってしまう。そして、人が帰りたいと思うのはハウスではなくホームだ。
それは、他人の家にも当てはまる。訪ねた先が留守だと何ともいえない気分になるのは、そこにホームがないからだ。
私がとりとめもなくそんなことを考えていると、カイは北山へと続く山道を示した。
「この時間なら、たぶん墓場で落ち葉を集めてると思います。行きましょう」
山道を見た瞬間、げんなりした私を知ってか知らずか、カイは何でもない顔で歩きだしてしまった。
やはり彼にシンさんを呼んできてもらった方が良かっただろうか、などと思いながらも、私は今更引き返すわけにもいかず、彼の後を追った。
私は自分の人生に悔いは持っていない。それだけは自信を持って言える。
しかし、過ぎ去った日々の中で取り戻したいと思えるもの……大人になった今だからこそ取り戻したいと心の底から思えるものがある。それは、体力だ。
特に急な坂道というわけではないのに、普段、座って仕事をしていることが多いせいか、足腰が悲鳴を上げている。
シンさんは私と同年代だというのに、毎日のようにこの坂道を往復しているらしい。それも、日に何度も。
彼らの体力に感服しつつ、私は日々の不精を悔やみ、若かりし日の有り余った体力を懐かしく思った。
二十代ならば、こんな坂道など平坦な道と変わりなく進めたはずだ、などと、二十代の自分が聞いたらウンザリするようなことを思いながら、ひたすら山道を登ることに専念した。
時々振り返って私を待っていてくれるカイは、必要があれば手を貸してくれ、そして休息も取り入れてくれた。そういう気遣いは、兄弟でよく似ている。
シンさんの仕事場である墓地に着いたのは、ちょうど太陽が真上に昇ったころのことだった。
ただでさえ静かな山の中だが、ここだけは更に別格の静寂を纏わり付かせていた。
それに、微かであるが墓地に独特の臭いが漂っている。
人間もナマモノだ。死ねば腐る。
地中に埋められた方が腐敗はゆっくり進むが、それでも肉は腐って剥がれ落ち、溶けて土に染み込み、やがて骨だけが残される。
その際に、それなりの臭いが上がる。
「シンさん、先生が話を聞きたいそうなんだ。北山の話を聞かせてやってよ」
墓地の入り口あたりでくたばった私を置いて、汗ひとつかいていないカイが、シンさんを呼びに行ってくれた。
シンさんとは面識がある。墓守と言うと陰険で陰湿、それでいて怖いという印象を抱きがちだが、シンさんに限ってはそんなことはない。
彼は、どこにでもいる普通の人だ。無論、こぶじゃくしの病巣を除いて、の話だが。
「この山の話って、この山の何の話じゃ? 出るんは幽霊くらいなもんじゃぞ」
「その幽霊の話を聞きたいんだって。他にも、ほら、シンさんは山の奥まで入ることがあるだろ? 山の奥の方はどんな感じなんだ、とか」
「山の奥の方? そんなん、草と石ばっかりや」
「それを先生に話してあげてよ」
しん、としているせいか、離れた場所で言葉を交わすカイとシンさんの声がよく聞こえてくる。
頭上を見上げる。ほとんど枝だけになった木が、ぽつぽつと根を伸ばしていた。ここが墓地であるせいか、それらは地中から手を伸ばしている骸骨の手のように見えた。
そんな子供じみた空想を、私は苦笑いで押し込めた。
「おう、先生。随分、疲れとるようじゃの。どうしたんじゃ。何が聞きたいって?」
やがて墓地の向こうから、竹箒を手にしたシンさんがこちらへやって来た。
彼は足元を見ることもなく、奇妙な道順を辿ってきた。どうやら、足元に眠っている死者を踏まないように気をつけているらしい。
よくよく見れば、地面には竹筒が幾つも差し込んであった。知らずに歩けば、まず間違いなく踏んでしまっていたことだろう。
私は、入り口でくたばったことにホッとしていた。
「どうも、シンさん。シンさんはお元気そうですね」
私が重い腰を上げながら言うと、彼は声を上げて笑った。
「先生が外科鞄を提げて歩くように、わしにとっちゃあ山に登るんが仕事ですけえな」
それもそうだ、と苦笑いを浮かべ、私はさっそく北山に出る幽霊の話を聞かせてくれと頼んだ。
覚えているのならば、ぜひその幽霊の風貌なども聞かせて欲しいと言えば、シンさんは呆れたような、驚いたような顔をして私を見た。
「医者の先生が幽霊なんか調べてどうするとや。まあ、ええけんど」
シンさんは腕組みをして、しばらく唸っていた。
「そうさねえ。最初に幽霊を見たんは、わしが子供のころの話や。じゃけえ、随分と前の話になるやろうね。わしだけやないぞ。北山は、昔から幽霊が出るで有名な山やから。そりゃあ墓場もあるしな。そうなって当たり前と言えば当たり前じゃけんど。ここで幽霊を見たって言う連中は、かなりおるさ」
言いながら、シンさんは腐葉土の上に腰を下ろした。シンさんの体からは、饐えたような臭いがした。
それは、長らく使われていない押入れの臭いだ。その臭いを嗅いで、私はシンさんがこの先ずっと、世間から取り残された人間として生きていく運命にあるのだと、そんなことを考えた。
「まあ、どっからどこまで本当で、どっからどこまで眉唾モンかは分からんわ。夕方になったら暗いけんな、野良仕事が終わった後に墓参りに来たりする連中もおる。そういう連中が、お互いに幽霊やて思って、腰を抜かしただけかもしれん」
「シンさんが見た幽霊というのは?」
私が聞くと、シンさんは腕組みしたまま上を見上げた。
「はっきりとは覚えとらん。何やろうな……侍さんではなかったわ。四人くらいおった。顔は見えんかった。ただ山の中に突っ立ってこっちをじーっと見てただけや。中には、立ち去れ、立ち去らんと祟るぞってなね、声を聞いたって言う連中もおる。生首だけが飛んでたとか、火の玉が見えたとか、後ろに妖怪がおったとか。そういう話は、よお聞くよ」
生首はともかく、火の玉は墓場では別に珍しいことではない。
むしろ、後ろの妖怪というのが気になった。
大量の荷を運ぶとすれば、荷車が絶対に必要だ。山積みになった荷車を真っ暗な山の中、それも墓地が近くにある山奥で見かけたらどんな風に見えるだろうか。
「わしは、幽霊を見て以来、日が落ちる前には山を下りるようにしとるけんな。あれ以来、幽霊とはご無沙汰じゃ」
シンさんが一息入れたところで、カイが僅かに身を乗り出してきた。
「うちの兄貴もよくそんなこと話してるよ。怖がりのくせに、なんだかんだと理由をつけて、よっちゃんたちと一緒に真夜中に北山に入って行くんだ。半刻もせんうちに真っ青な顔して帰って来るけどな。それで、山奥に誰がいたとか、何がいたとか」
シンさんとカイが笑い声をあげたのを見て、私もつい一緒に笑ってしまっていた。
「それでな、おもしろいから脅かしてやるんじゃ。兄貴が寝入ったところで、枕の傍に水を撒いておいたりな。そしたら、予想通りなんやけど、朝起きて大騒ぎしてやがるの。女の霊が枕元で泣いただの、取り憑かれただの! 俺は何にも言うとらんのやけど、兄貴が勝手に怖がってくれるんや」
「ユウ坊はなあ、相変わらずじゃのう」
シンさんは心の底から楽しげにカイの話を聞いていた。
思えば、これくらい年齢差がある者同士が仲良く会話を交わすというのも、東京では珍しいことだと思った。
若者は常に時代の最先端を目指し、年寄りは流れに付いて行けず、取り残された過去の遺物として生き、同時にそういう扱いを受ける。
田舎ならではの光景なのか、それとも彼らだからなのか。どちらにしろ、二人の会話を微笑ましく思った。
「こないだな、兄貴が出しっぱなしにしとった竹箒、俺が代わりに納屋に仕舞っておいたんや。そしたら竹箒が勝手に戻って来た! 九十九の神様が竹箒に宿った! とか言い始めやがって。おかしいやら呆れるやらでさあ、兄貴は兄貴で、すっごいこと考えるもんじゃて思うたわ。九十九の神様て」
「わしが作った箒か? ありゃあまだ半年も経ってないじゃろ。九十九の神は、九十九年も経たないと宿ってくれりゃあせんわ」
「いや、そういう問題じゃなくてだな……」
シンさんは真剣そのものの顔で、八百万の神たちの説明を始めた。カイはそんなシンさんの話を、馬鹿にした様子も呆れた様子もなく聞いていた。
「それで、山の奥はどんな様子ですか? ここより先に行かれることはありますか?」
八百万の神様に関する話が一区切りついたところで改めて聞くと、シンさんは難しい顔をした。
「山奥か……。これより先は、あんまり入らんとや。よほどの用でも無けりゃあな」
「と、言いますと?」
シンさんは僅かに唸り声を上げた。
「どうやら、山の下に大きな穴があるようでな。迂闊に歩き回っとったら、いきなり地面が抜けて真っ逆さまや。じゃけん、墓場より奥は行くなって、村の連中にはよぉ言うてる。それに、奥へ行っても何にもありゃあせんとよ。石ころばっかりゴロゴロ転がっとって、薪になるような木もなけりゃあ、使える草もない。ここよりひどい。上に行けば行くほど、何にもなくなる」
そうですか、などと、ありきたりな相槌を打ちながら、私は植物が育たないというのは、納得できる、などと考えていた。
硫化水素が大量に流れ出ているならば、それは充分に有り得ることだ。村人たちも、地獄穴を恐れて奥へは近付かない。
若者の肝試しはせいぜい墓場まで。何かあるとすれば、頂上付近だろうかなどと考えた。
「その頂上を、見てみたいんですが」
私が言うと、シンさんは「自分の話を聞いていなかったのか」と言わんばかりの顔をした。
カイまでもが、信じられないと言った顔でこちらを見てくる。
「先生、さっきシンさんも言うてたけど、頂上まで行くってなったら、兄貴らがやってる肝試しとは、ちょっと訳が違いますよ」
カイが真剣な顔で言ってきたので、私も真剣な顔で頷いた。
「こぶじゃくしの治療のために、どうしても確かめておきたいんだ。シンさん、手伝ってもらえないでしょうか」
シンさんはなかなか答えなかった。じっと黙り込んで地面を見つめていたが、ややあって顔を上げた。
「分かったわ。先生がそこまで言うんなら、やらせていただこうやないか。ただ、今日はもう頂上に着くより、日が暮れる方が早い。わしは幽霊と遭遇するんは嫌やけんな、山を登るんなら、明日にさせてもらう」
「もちろん、それでいいです」
「さっきも言うたように危ない山じゃけんな、途中で何かあったとしても、わしを恨んで化けて出るんは勘弁してくれると?」
私は苦笑いを浮かべつつ、分かりましたと答えた。
墓場まで登ってくるだけで一苦労だったというのに、頂上まで登るとなるとどれほどのことだろう。もしかしたら、日が高いうちには戻って来れないかもしれない。
私は一瞬、恐ろしい思いに駆られたが、敢えてその不安からは目を逸らした。
怖がって何もしなければ、何も変わらないし、何も分からないままだ。ここは、異国の山奥というわけではない。
生まれ育った我が国の、よく見知った村の山だ。それに、硫化水素のおかげ、というべきか、この山には動物がいない。
つまり、クマや山犬に遭遇することはないし、マムシにやられる心配もない。
私は自分に言い聞かせるように、この山が安全である理由を頭の中で列挙し、そしてまだ見ぬ頂上へと視線を向けた。
そこに何があるにしろ、まずは確かめることが第一歩だ。




