12
ユウのところに赤子が生まれてから一週間ほど経った日、珍しく立花は夕方になっても町の診療所に留まっていた。
普段なら、私がそろそろ町へ戻ろうかと思い始めた頃、示し合わせたように立花が村へ入ってくるというのに。
「いったい、どうしたんだ? 風邪でも引いたのか」
立花は、診療所の奥にある居間に転がっていた。
普段に比べて、立花の動きは緩慢だ。彼は曖昧に返事をして額を押さえた。
「まさかと思うが、本当に風邪を引いたのか」
信じられない思いで聞き、私は彼の傍に腰を下ろした。ちゃぶ台の上には篠目が調合したと思われる薬の包み紙と湯のみが残っている。
いつぞや、気を失うように寝入ってしまった立花を放っておいたことが頭に浮かんだが、きっとそれは関係ないと思うことにした。
「頭痛がひどい。阿弗利加で腹を下した時よりはマシだが、けっこうしんどい」
頭痛というありふれた言葉に、私は背筋がヒヤリとしたのを感じた。
「なぜ頭痛なのか、いくら考えても分からない。お前も頭痛がひどいと言っていたな? 思い当たるふしはないか?」
「それが分かれば苦労はしない。篠目もだ。彼女も、ずっと頭が痛いと言っている」
無表情の中に不調を押しこんで仕事に向かう篠目の姿を思い出し、意見を求めて立花を見やる。
彼はしばらく目頭を抑えてごろごろと畳の上を転がっていたが、やがてゆっくりと腕を下ろした。
「こぶじゃくしはまず腰の裏側に出る。それに、見た目に反してほとんど症状らしい症状が出ないのが特徴だ。だから、頭痛の原因は、こぶじゃくしではない。それだけは確実だ。だとしたら、別に原因があるということになる」
立花は静かに言い、私はぎょっとしていた。
私は今の今まで、自らを悩ますこの体調不良について、こぶじゃくし以外の可能性を、微塵も疑っていなかったのだ。
こぶじゃくしに感染していないことが、果たして自分の身が健康であるということの絶対的な証明になるだろうか。
それはまるで、腹痛がないから心臓の病では死なないと断言しているようなものではないか。
私は自分がひどく驚いた顔をしていることに気付き、慌てて表情を変えた。
医師たるもの、「いつでも、どんな時でも、私に任せておけば安心です」という顔をして立っておくことが、どんな看板よりも診療所の宣伝になると知っている。
私はいつものくせで、無理やり笑顔を取り繕った。
しかし、病魔に向かって笑顔を振りまいたところで効果はないし、そんなことをしても内心の動揺が消えてなくなるわけではない。
こぶじゃくしとは違う病。それが今も私の体を着実に蝕んでいる……。
それは紛れもない事実だ。
なぜなら、すでに症状が出ているからだ。
体は、何の異常もなければ、何の防御反応も示さない。症状が出ているということは、それはすでに私の中に入り込み、私の体を破壊し、そして今もなお破壊を続け、消えることなく居座っているということを意味する。
私は身震いしそうになった。
これは、ただの風邪とは違う。
ついさっきまで、私にとって「明日」というものは確実に約束されていた。寝て起きれば必ず来るはずの「明日」が、いきなりグラリと揺らいだ気がした。
日進月歩の勢いで発展を続ける医学の世界に身を浸していると、どんな病も完治するのではないかという錯覚を抱くことがある。
事実、江戸の時代に比べれば、死は格段に人から遠のいた。
だが、我々は思い知らされた。現時点で人間が持ち得た知識に比べて、世の中にはびこる病魔の数はあまりに複雑で、あまりに数が多いのだと。
拳を握り締めて息をつく私をちらりと見やり、立花は再び額を押さえながら目を閉じた。
その表情から、彼も原因不明の頭痛に苦しんでいることが知れた。
しかし、動揺してつい自分のことだけで頭がいっぱいになってしまった私とは違い、彼はどこまでも医学者である自分を貫いていた。
いや、むしろ立花の感情に「動揺」というものは存在しないのかもしれない。彼はいつだって、自分の研究のことしか考えない男なのだから。
「村の連中は、誰もこういうことを言ってこない。頭痛がひどい。風邪に似た症状がずっと続くと訴えているのは、我々のように外から来た連中だけだ」
「ああ、それはそうだが……」
言いながら、私は考え込む立花をじっと見やっていた。気が付けば、診察鞄さえ持ったままだった。
柱時計の秒針が鳴る音が、やけに大きく聞こえてくる。
思えば、秋の虫たちはとっくに死に絶えてしまったらしい。静かな夜だった。それは、こぶじゃくし村の山を思わせる。
「黒い水……」
ふと、私の頭の中に、美しい沢を流れる一筋の黒い流れが浮かび上がってきた。
立花がこちらを見る。その目には、不思議と何の感情も浮かんでいなかった。
「初めてこの町を訪れた時、私は確かに硫黄のような臭気を嗅いだ記憶がある」
私がそう言うと、立花がすかさず「硫黄は本来、無臭。一般的に硫黄のような臭いと表現されるのは、硫黄と水素が結合して「硫化水素」となった時だ」などと講釈を垂れてきた。
私は溜め息を落としつつ、その「硫化水素」こそ問題であると口にした。
すると立花は、
「硫化水素は、低濃度ではほとんど無症状。そこから濃度が濃くなれば、刺激臭を感じるが、嗅覚麻痺も同時に引き起こすため、その独特の臭いに気付かなくなる。濃度が濃くなればなるほど危険度は増し、超高濃度では一瞬で死亡する」
などと、寝転がったまま話し始めた。
本人は歩き回れないほど頭痛がひどいということだったが、一人で喋っているときの立花は、いつも通り活力に溢れていた。
私は、どこまでも果てしなく続きそうな彼の講釈を、身振り手振りで遮った。
閃きとは、空に咲く打ち上げ花火のようなものだ。その一瞬を逃してしまえば二度と目にすることはできないし、散っていくその光を掻き集めて、元通りの姿に戻すこともできない。
立花は、話を遮られて不快というより、どちらかと言えば不安そうな顔をしながら私を見ていた。
私は立花を牽制しつつ、話を続けた。
「低濃度の硫化水素では、確かに目に見える症状は現れない。しかし、長期間に渡って晒され続けるとどうなる? 頭痛、倦怠感、眩暈、下痢。そういった症状が出てくるはずだ。今の我々を悩ませている症状、そのものじゃないか」
内心の動揺が興奮に代わり、私はつい早口になっていた。
「硫化水素の発生原因は、産業廃棄物だろう」
私は声を潜めて、静かに言った。立花は何も言わなかった。
「こぶじゃくし村の山には、獣どころか虫もいなかった。その理由は、危険な硫化水素を発生させる廃棄物が遺棄されているからだ。それも、かなり長期に渡って。だから生き物が棲めないんだ」
「なるほど。一理ある」
そして立花は、静かに言い、立ち上がって窓の障子を開けた。
四角く切り取られた景色の中に、日が暮れてなお赤々と明かりが灯った工場郡が、人間の視界に許される地平の最後に聳え立っている。
「そういえば、こぶじゃくし村の北山には、よく幽霊が出るらしい」
私は、ユウから聞いた話を、痛む頭の中から無理やり引っ張り出してきた。
あの時は、ありがちな怪談話だとしか思わなかった。しかし、今となっては話が違う。
「こぶじゃくし村はああいう場所だ。まず間違いなく町の人間は近寄らないし、村人の方もそう思っている。だから、日が暮れてから北山で見た見知らぬ人間は、幽霊なのではないかという考えになるんじゃないだろうか」
私は言葉を続けた。
「幽霊なんだから、別に正解でなくても構わない。最近死んだ人間の中から、適当な顔と名前を引っ張り出して、家に帰ってから「こないだ死んだ誰々を見た」と捲くし立てればそれで済む。幽霊の方も、見つかっては困るから、敢えて幽霊らしく振舞うかもしれない」
私は言葉を重ねれば重ねるほど、自分が正しいことを言っているという気になっていた。
もうそれ以外の可能性は考えられなかったし、ある種の発見、あるいは真実の暴露を体験し、気分が高揚するのを抑え切れなかった。
「それについては調べてみる必要がありそうだ」
珍しいことに、この時、立花が私の意見に異を唱えなかった。いつもなら、例え結論が同じであっても他人の言葉を自分なりの言葉に言いなおさなければ気がすまない男が、その一言だけを口にして黙り込んだ。
そんな立花の態度に、私は非常に満足を得ていた。
「しかし、硫化水素は高濃度になればなるほど、一瞬で命を持っていかれる危険性がある致死性の毒ガスだ。下手に近付けば命取りになる。どうやって調査する気だ?」
私が思い出したように聞くと、立花は意味不明の単語や文章を連発した。
考えが纏まっていない立花は、よくこういった行動を取ることを知っていたので、私は「それは、まだ考えていない」という意味だと受け取った。
「では、なぜ村の連中は平気でいられるんだろう?」
私は、立花に向かって、というより自分に向かって呟いていた。硫化水素に長期間晒されているのだとしたら、確実に何かしらの症状が出ていなければならないはずだ。
しかし、私が知る限り、村人たちはこぶじゃくしという寄生虫以外、特にこれと言った不調を訴えてはいなかった。説明がつかない。
いくら考えてもまるで分からなかった。
「こぶじゃくしか……」
立花は言いながら、溜め息を落とした。そして彼は黙り込んだ。
何を考えているのか、私には見当も付かなかった。おもむろに、立花は立ち上がった。
「出かける」
そう言って彼は、頭痛などまるで感じさせない力強い足取りで部屋を出て行った。
一人残された私は、しばらくその場に留まって窓の外を眺めていた。




