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立花から「赤ん坊が生まれた」と聞かされた。
朝一番、ようやく篠目と共に村へ入ったところだった。
彼は相変わらず天幕の中をウロウロしていたが、そのいつもと変わらぬ行動からして、生まれた赤ん坊も、ユウの妻であるトキもまた無事なのだと知れた。
ただ、私は彼らにとって最も大事なときに、何の力にもなれなかったらしい。
私は大事にしていた壷が割れた時のような喪失感を抱きつつも、笑顔は崩さずにおいた。
「びっくりするほど安産だった。しかし、安産だったと言っても昨日の夕方から明け方近くまでかかってるわけだが。トキさんも赤子も無事に乗り切った。元気な女の子だ」
「そうか、ご苦労だったな」
立花は私の言葉を適当に受け流し、忙しそうに書類を捲り、微塵鏡を覗いていた。
子供が生まれたというのに、私は喪失感を感じた。そんな自分に、自嘲するしかなかった。
「それで、赤ん坊が無事に生まれたお祝いは、村の連中に任しておくとして」
言いながら、立花は地面の上に直接敷いた茣蓙の上に散乱した記録用紙を、拾い集め始めた。
それらは皆、湿気を含んで波打ち、砂をかぶって汚れていた。
どちらかと言えば几帳面な部類に入る私にしてみれば、傷付いた書類は我慢が出来ない域に入るのだが、彼は全く気にしないらしい。
「問題は、赤ん坊にこぶじゃくしの症状が出ないようにしてやることだ」
立花は抑揚のない口調で言った。そして私が彼の考えを促すと、彼はいったん記録用紙を拾う手を止めてこちらを見た。
「出産で疲れきってるトキさんには申し訳ないとは思ったんだが、これだけはハッキリさせておく必要があった。だから、赤ん坊に飲ませる前に、母乳の中にこぶじゃくしが含まれてないか調べさせてもらった。さすがに、兄嫁の母乳を覗けとカイに言うわけにはいかなかったから、この検査だけは私がした」
「お前にしては珍しい気遣いだな」
私の言葉は、立花の耳を完全に素通りした。
「結果としては母乳内にこぶじゃくしの卵は確認できなかった。予想通りと言えばそれまでだが。こぶじゃくしは卵の状態で口からヒトの体内に入り、膀胱か腎臓で孵化して、そこで卵を産み始めると考えていいだろう。尿と一緒に排出された卵は、沼や井戸に流れ込んで感染を拡大させる。そんなところだ」
立花はいったん言葉を切り、天幕の切れ目から、晴れ上がった空に視線を向けた。
「ただし、問題はすべての卵が体外に排出されるのではなく、一部の卵が体内で孵って、患者の皮下を移動し始めることだ。最初にお前に話した、生の豚肉から感染する有鉤条虫と同じで、自家感染してしまうということだな。そこが厄介だ。外科的に虫を摘出するにも限界がある。感染源そのものを断たない限り、同じことの繰り返しだ」
「ということは、患者の尿が水に流れ込まないように工夫する必要があるわけか」
私が言うと、立花は一度だけ素早く頷き、再び記録用紙を拾い始めた。
「そうさ。大仕事になる」
彼が言いたいことは分かる。私は背後の村に視線を向けた。
村では、ヒトや家畜の糞尿を肥料として畑に撒く。これは我が国では当たり前のことだ。よほど肥沃な土地でもなければ、そうでもしなければ野菜は育たない。特に、こぶじゃくし村の土地は痩せている。今まで見てきた中でも、一等だとはっきり分かるほど痩せた土地だ。この土地で収穫があることの方が、私にしてみれば信じられなかった。
「畑に肥を撒くなとは言えない。ただでさえ収穫が少ない村なんだからな。それでなくとも、これから冬になる。いったいどうやって村の連中が毎年、冬を乗り切っているのか、不思議なくらいだ」
立花が言い、私は静かに頷いた。
「肥料を撒く際に、どうしても手指が寄生虫卵に汚染される。その指で、井戸の釣瓶を触る。汚染された桶を井戸に落とせば、こぶじゃくしの卵が井戸に混入する。ささやかなことだが、たったそれだけのことでも長年にわたって繰り返せば、充分に井戸を汚染する原因になりうる」
私が何も言わないでいると、立花は目頭を擦りながら言葉を続けた。しかし、決して何かをしている手を止めることはなかった。
「当然、井戸は必需品だ。井戸を使うなと言うことは、水を飲むなという意味だ。そんなことは言えるはずはない。それに、これだけ沼が近いんだから、地下水脈と沼は繋がっていると考えて間違いないだろう。沼に小便したことがない連中がいるなら会ってみたいね。ついでに、家畜だって沼に入る」
私は、畑を耕していた牛が沼に入って水浴びしている光景を思い出していた。肥として糞尿が撒かれた畑を牛が耕し、その足で沼に入ることで、沼に卵が混入する。
あるいは、沼に入ったこぶじゃくしがそこで産卵する可能性だってある。
「唯一の救いは、虫が皮膚を突き破って入ってこないことだな。カタツムリなんかに寄生してる虫がそうだ。だから私はカタツムリが嫌いなんだ。高確率で汚染されているから」
「虫が皮膚を突き破って入ってくる? どういうことだ?」
私がついそう聞くと、立花の目の奥がキラリと光ったように思えた。その瞬間、私は激しい後悔に襲われたが、すでに話し出した立花を黙らせることはできなかった。
彼の話を要約すると、山梨県甲府盆地の風土病として知られる日本住血吸虫症において、寄生虫が皮膚から感染することが確認されたのだという。
住血吸虫は人間だけではなく、犬や牛にも感染が認められる寄生虫だ。
研究者たちは、東京から持ち込んだ健康な牛を四つのグループに分けた。
一つ目のグループは、虫がいる水を飲ませる。
二つ目のグループは、虫のいる水に浸からせる。
三つ目のグループは、どちらもしない。
四つ目のグループは、虫のいる水を飲ませ、なおかつ虫のいる水に浸からせる。
結果は、水を飲ませたグループに感染は認められず、水に浸からせたグループだけが感染したということだった。
寄生虫症は、必ず経口的に感染すると知られていたため、甲府盆地でのこの発見は、日本医学史に衝撃を与えた。
私は立花の口から語られた新たな事実に身が引き締まるような思いを抱いていたが、正直なところかなり疲労も感じていた。
これだけの内容を語るのに、話はあちこちに脱線し、実に半刻(一時間)を要していたからだ。
それにしても、こぶじゃくしは患者の皮膚から感染することはない。それは悪い知らせではないのだが、虫が患者の皮膚を突き破って「出て行く」ことは問題ないと言えるのか、と疲れた頭が考えた。
虫が体から出て行くことは、患者にとって確かに悪いことではない。その際に重要な臓器を傷つけることがあるから一概には言えないが、それでも一生涯、体内の虫と共に生きるよりはマシだろう。
私は敢えて何も言わなかった。ここで余計なことを喋り、立花の話が更に半刻以上も引き伸ばされたら堪らないからだ。
ふと、幼い頃、台所に立っていた母が、祖母から「野菜は綺麗に洗うように」ときつい口調で言われていたことを思い出した。
糞尿を肥として育てられた野菜は、かなりの確立で寄生虫卵に汚染されている。
無論、信仰と迷信だけに頼って生きていた祖母が、具体的に何がどう危険なのか分かっていたはずはないのだが、昔ながらの知恵の一貫として、その危険性を知っていたと言えるのだろう。
「さて、肝心の対策だが」
立花はあれだけ精力的に語り尽くしたというのに、相変わらず天幕の中をひたすら動き回っていた。
その体力には感心してしまう。彼には疲労というものが存在しないのだろうかとさえ思えた。
「現実問題として考えると、水に糞尿が流れ込まないようにすることは不可能だと言える。地面に穴を掘っても、いずれは地面から地下に浸透して、地下水を汚染してしまうわけだからな。デカイ壷に溜めるにしても無理がある。今までのように畑にでも撒かない限り、糞尿は溜まる一方で、別の感染症の汚染源になりかねない」
「だったら、どうする?」
私の声は、自分で驚くほど疲れきっていた。
「当面は、生水を飲まないということを徹底してもらうしかない。こぶじゃくしは熱に弱い。摂氏六十度で速やかに死滅する。だから、水を沸かして飲めば、こぶじゃくしに感染することはない。それだけのことしかできないが、それだけの効果は期待できる」
そして立花が静かになった。
私が目を離したのはそれこそ一呼吸する間だったように思うのだが、ほんの一瞬、私の好奇心を引いた天幕の裂け目から視線を戻したときにはもう、彼は安らかな寝顔を晒していた。
「いつでもどこでも寝れるのは、ある意味では才能だな」
畳に敷いた布団と蕎麦の枕が無ければ眠れない私にしてみれば、彼のこの図太いとも言える寝つきの良さが羨ましく感じられた。
これくらい図太くなければ海外ではやってられないのだろうが、本当に心の底から感心させられる。一種の呆れと共に。
立花からの指示が特に無く、朝一番でこぶじゃくしの摘出を求める患者の声もなかったので、私は村長の家に足を伸ばすことにした。
すっかり秋も深まり、昼間でも風の冷たさを感じる季節になったが、立花のことはそのままそこに放り出しておいた。
彼なら心配ない。
風邪をひいたとしても、本人が気付かないうちか、忘れているうちに治っている。
こぶじゃくし村を訪れるようになって三月が経過しようという頃、村長宅は今となっては見慣れたものとなっていた。
しかし、今日はいつになく人が出入りしていて、落ち着かない気分にさせられた。
無意識に袂を直しつつ、私は声をかけて入り口の筵を上げた。
私の顔を見るなり、家の中に集まっていた連中が明るく声をかけて迎え入れてくれた。
私は一人ひとりの顔を見て言葉を交わし、いつになく嬉しそうな顔をした家長にお祝いの言葉を送った。
板の間に筵を敷いただけの床には、出産を終えたトキが横たわっている。赤ん坊は今、父親となったユウの腕に抱かれていた。
「赤子が生まれるのはええことじゃが、こっちは一晩中、外に放り出されておりましてね。年寄りには堪えますわ、出産は!」
などと言いながら、家長は幸せで堪らないといった顔をしていた。
「何よぉ! 苦労して生んだんはお義父さんやなかろうに!」
トキがさっそくそんなことを言い、周囲は和やかな笑いに包まれた。私は、ありきたりの言葉で彼らをやり過ごし、赤子を見せてもらいに行った。
「こぶじゃくしは、まだどこにもおらんよ」
適当に言葉を交わした後、ユウは私に向かって赤ん坊を差し出してきた。日本全国どこの村でも生まれてくる、普通の赤子だった。
外見上、際立った特徴は見当たらない。
「お乳はよく飲んでいる?」
トキに聞けば、彼女は笑顔で頷いた。その顔には激しい疲労が浮かび上がっていたが、それでもその顔はどこか誇らしげだった。
その表情を見て、かつて娘を出産したばかりだった妻を思い出した。
「トキさんはどうですか? お乳が張って痛いとか、そういうことは?」
「大丈夫です」
そうですか、と頷き、赤子の方に視線を戻した。
「立花から何か聞いたかい?」
こぶじゃくしがいないとは分かってはいるが、その他の発達に問題がないか確認するために、赤ん坊の肌着を脱がせ、おむつを外した。
「水を飲ませるなって」
答えたのはトキだった。
その答えに頷き、私は赤ん坊の体を触診する。心臓の音に雑音はなく、目立った腫瘍も触れない。泣き声も元気があり、白目も正常だった。
「こぶじゃくしは水から罹るから、この子をこぶじゃくしで悩ませたくなかったら、水を飲ませるなって」
なるほど、と言いつつ、私は手早く赤子に服を着せた。
長く診療所をやっていれば、どうしても患者層が偏ることに気付く。よほど特殊な環境を除き、診療所の常連となるのはたいてい老人と、幼子だ。
彼らをうまくあしらう術を持ち合わせていなければ、診療所勤務は非常に苦労することになるだろう。
「しかし、水を飲ませるなとは……難儀なことを言うもんじゃ」
祝いに駆けつけていた年配の男が、難しい顔で呟くのが聞こえた。彼はゲンという名で、妻の名はサト、子供は三人。住んでいるのは西山の辻で、長女には付き合っている男がいて……。
そんなことまですべて思い出せる自分がおかしくもあり、誇らしくもあった。
そして、水を飲ませてはならないという指示「だけ」を伝えて去っていた立花に、私は呆れて肩を落とした。
立花らしいと言えば立花らしいことではあるのだが。
「水を飲ませたい時は、一度きちんと沸かしてください。そうしたら大丈夫ですから」
「それだけか?」
ゲンさんはポカンとした顔でこちらを見返してきた。長年に渡るこぶじゃくしの寄生のせいで、彼はほとんど表情を作ることができない。
しかしながら、すべての村人がそうであるように、顔が動かないからと言って、何も感じていないわけではないのだ。
「それだけのことで、この子はこぶじゃくしにやられんとや?」
彼の顔が苦悩に歪むのが見えた。最近では、目を見ているだけで彼らの心が手に取るように分かる。
感情は言葉として表されることで、第三者に伝わるとき、それそのものが持っていた激しい色が随分と薄められてしまう。
彼らは言葉に出さず、そして表情にも出せないため、その目が語る激しい感情が、より直情的に、そのままの激しさで伝わってくる。
私は、ゲンさんの思いに胸のあたりが締め付けられた。
「心配せんでいいですよ、ゲンさん。今、立花と一緒に、何とかしてこぶじゃくしを治す方法を探してます。きっと、なんとかなりますよ」
私が言えば、ゲンさんは戸惑ったように視線を落とし、組んだ指を強く握り合わせた。
期待しすぎれば、その分、期待が適わなかった時の絶望がより深くなる。あらゆる辛抱と抑圧を知っている、大人の反応だった。
「立花は見た目はあんな感じですけれど、優秀な研究者ですよ。僕らにはとても想像できないような遠い外国へ行って、幾つもの難病と戦ってきた過去があります」
私が重ねて言えば、ゲンさんはどこか縋るような目でこちらを見上げてきた。
自分より年上で、しかも上背もあり、体格もいいように見える男が捨てられた子ネコのような目で見上げてくる。
そんな様子を目の当たりにすると、つくづく病は体を蝕むだけでなく、その人の心をも侵していくのだと思った。
「きっと、なんとかなりますよ」
ゲンさんの肩を叩くと、その衝撃に驚いたのか、彼の体に寄生したこぶじゃくしたちが一斉に蠢いた。
肩そのものが震えたように見えて、私は反射的に手を離してしまいそうになったが、何とかその衝動を押さえ込んだ。
触れただけでは、決して感染しない。今は、彼らを勇気付けることも、私に与えられた仕事のうちだと考えている。
私は内心の恐れを悟られないように笑顔を作った。
「こぶじゃくしは妖怪だの、物の怪だの、化け物の類じゃあないんです。こんなんでも列記とした生き物ですよ。生きているんだから、殺す方法もあります」
その言葉は、ゲンさんに言って聞かせたというより、むしろ自分自身に向かって言っていたような気がした。




