94裏 木龍ギルムナバル
ギルムナバルはグレイスと相対しながらも、しかしグレイスを無視した。ルセリアージュと交戦しているテオドールの方へ向かおうとする。
「どちらを見ているんです?」
グレイスの手から放たれた斧と鎖が闘気を帯び、大きく弧を描いて魔人の身体に巻き付く。その時にはグレイス自身も石畳を砕いて爆発的な踏み込みで突っ込んでいた。
「お前は、邪魔、だ」
ギルムナバルの取った対処はその場での迎撃だった。但し、振り向きもしない。
顔と体勢だけはルセリアージュの方を向いたまま。全体的な姿だけは人に似ているが、黒衣の下の骨格に、不自然な違和感がある。
肩口から巨大な腕が飛び出して瘴気を纏わりつかせると、グレイスを叩き潰そうと上から迫る。
グレイスも大上段に振りかぶり、真っ向から叩きつけるという力技で対処した。闘気を纏う斧と、瘴気を纏うギルムナバルの腕。激突。爆発するかのような火花。
弾かれ合って、巨大な腕が黒衣の中に引っ込んでいく。
代わりに細い腕が鎖の隙間から飛び出す。グレイスは縛り付けていた鎖を解いて手元に引き戻し、ギルムナバルに突っ込む。
双斧と枯れ木のような腕が激しくぶつかり合う。闘気と瘴気が激突して、無数に弾けた。
グレイスが後ろに弾かれたその瞬間、追撃の構えを見せたギルムナバルの後方から、音も無くシーラが滑り込んできて。すれ違いざま、逆手に持ったダガーで斬りつけていく。闘気を纏った斬撃の軌跡だけが、青白い残光を刻む。
シーラの纏う外套が淡い光を放ったかと思うと、周囲の景色に溶け込んでいく。ルナワームの糸で作った外套だ。防御用の付加魔法でなく、光魔法による幻惑効果が組み込まれている。
「小賢し、い」
「――っ」
ギルムナバルは振り返りさえしなかった。黒衣の中から細い腕が飛び出し、シーラを捕らえようと真っ直ぐに伸びる。
それを防いだのはイルムヒルトの矢だ。伸びた腕と、魔人の身体目掛けて立て続けに撃ち込まれた。
ギルムナバルは瘴気を発生させて盾を生み出す。しかし、イルムヒルトのそれはただの矢ではない。
呪曲を乗せた矢は魔力に干渉して誤作動を起こさせる。生き物に当たれば精神にダメージを与え、それを受けようと魔力や瘴気で壁を作れば――。
「な、に?」
瘴気の防壁を散らして魔人の身体に矢が命中する。本体に届いた時には呪曲も矢勢も相殺されてしまっているが、これには魔人も少々面食らったらしい。
「まだ終わっていませんよ!」
怯みを衝くように。
氷の散弾混じりの猛烈な吹雪が魔人を呑み込んでいった。
アシュレイとラヴィーネによる同時魔法行使。2人がかりで氷の弾丸を生み出しての射出だ。相乗効果で冷気の強さも射出の勢いも、個々で行うそれよりも遥かに威力を増している。
それが通り過ぎたタイミングで、グレイスが懐に飛び込んでいた。
踏みしめるその脚力ただ1つで、石畳が砕け散る。全身のひねりを斧の一撃に乗せて、闘気を纏った斬撃が魔人の胴体を捉えた。
打ち込んだ魔人の身体がくの字に折れる。が、会心の手応えを斧の感触に感じながらも、違和感を覚えたのはグレイスの方だった。
「――重、い?」
申し分ない一撃だったはずだ。だが振り切れない。吹き飛ばない。
小柄な体に似合わない、異様に重たい感触。
あの巨大な腕はどこから来て――今どこにあるのか。そもそもこの魔人は、魔人の身でありながら、何故地上戦を挑むのか――。
「全員! 地面から離れてください!」
グレイスが注意を促して後方に大きく飛ぶ。
一瞬の間を置いて、広場の地面から、槍の穂先のようなものが無数に飛び出した。
近くにいたグレイス、シーラ。距離を置いていたアシュレイの立つ位置。イルムヒルトの浮かんでいた位置を正確に下から刺し貫く。
だが、グレイスの注意喚起の方がやや早かった。全員が上空に飛んで難を逃れている。魔人にしてみれば全員が空中に逃げる事が想定外なのだろう。一網打尽を狙ったギルムナバルの攻撃は、成果を上げる事なく終わっている。
「――外した、か」
さして残念とも思っていないような。抑揚のない、しわがれた声で魔人が呟く。
吹き飛ばされた黒衣の隙間から、枯れたような枝が見え隠れしている。
ギルムナバルは、半人半樹の魔人、ということなのだろう。
今しがたの攻撃は地下茎のように張り巡らされた根からのものという事になる。
ルセリアージュがギルムナバルに期待していたのは群れた人間の掃討だ。つまり、地上戦を得意とする魔人。そういう人選だった。
だからと言って、空中戦ができないのかと言えばそれは違う。
空中に逃げたグレイス達を見上げると、ギルムナバルの全身がめきめきと軋むような音を立てて肥大化していく。
あくまでも魔人であって、ドラゴンとは違うのだろうが。
複雑に絡み合った枯れ木の身体を持つ、赤い目の龍……という姿がギルムナバルの本性だ。
龍の額からは若い男の上半身が生えている。絡み合う木枝や蔦の先端にも、ぎざぎざに裂けた口のようなものが備わっていた。
人間の形態を取っていた時は、必要に応じて枝を絡ませたものを解放していた、という絡繰りだ。
図体のあちこちから枯れ木の腕が鞭のようにしなりを上げてのたうつ。広場の石畳を揺るがせながら、浮かび上がってくるような構えを見せる。
「さて……」
どうやってあれを片付けたものかとグレイスは思案する。
大蛇であるなら、頭を叩き潰せば死ぬだろうが……それは人間の方なのか龍の方なのか。或いは両方だろうか。
それでも死ななかった場合は? それはその時に考えるべき事だ。
グレイスは目を細める。視線の先はギルムナバルの人体部分。その脇腹に注がれていた。先ほど打ち込んだ斧による傷はしっかりと残っている。
先程の一撃で倒せなかった理由は、明白だ。図体に対して、傷が小さすぎる。急所でさえもない。
では、弱点は人体部か龍の頭部だと仮定したとして。あの大量の触腕。それをどう掻い潜るのか。
「グレイス」
シーラがグレイスに声をかけてくる。
「何でしょうか?」
「あいつ。何で視てると思う?」
「……それは」
それは、自身も斥候役で、イルムヒルトという友人を持つシーラならではの発想なのだろう。
思えば最初にグレイスと接触した時も、振り向きさえしないのに、正確に攻撃を合わせてきた。シーラが切り込んだ時も、先程の地面からの攻撃の際も――非常に正確だった。
目がある以上は視界もあるのだろうが――頭部のそれだけで、あの巨体の周囲、全てを把握しているとは思えない。恐らくは他の感覚系を持っている、ということなのだろう。
テオドールを視界の端で見やる。彼はルセリアージュとの戦いに没入しているようにも見えた。或いはゼヴィオンの時と同様、こちらの状況をきっちりと見ているのかも知れないが――。
自分の仕事はまず、テオドールに負担をかけない事だ。彼なら、こんな時どうするか。相手の立場で考えて手を打つのが、戦いだと。テオドールはいつだったか、訓練の時にそう言っていた。
「――作戦を考えました」
グレイスは自身の考えを大まかにではあるが手短に伝える。
アシュレイ達の戦意は、些かも衰えていない。目配せし合い、頷き合う。
それで、十分だった。ずっと一緒に戦って、訓練を重ねてきているのだ。互いのすべき事、したい事、できる事、できない事は全部分かっている。
「運が良ければ大量に喰えると、主に聞いてきた。だがガーゴイル共では、駄目だ。まずお前達を、喰らわせてもらおう」
浮かび上がってきたギルムナバルに、グレイスはただ1人、正面から相対する。他の仲間達は四方に散開した。
「行きます」
静かに言うと、薄い笑みを口元に張り付けてグレイスが前に出る。大量の枯れ枝が唸りを上げて、グレイスに迫ってくる。双斧でこれを払いながら、グレイスは一定の距離を保ちながら打ち合う。
その間も仲間達は魔人の巨体のあちこちで矛を交えている。
瘴気を纏いながら迫る枯れ木と蔦を掻い潜り闘気を纏ったダガーで切り払い、一撃離脱。後退しながらの射撃。メイスでの打ち払い。氷の刃でのすれ違いざまの斬撃。いずれも決定打どころかダメージになっているのかさえ怪しい。物量が違いすぎて踏み込めないのだ。
同時にいくつもの戦闘をこなしながら、ギルムナバルの攻撃には全く雑な所がない。シーラやイルムヒルトといった面々を相手にして、そこかしこで互角以上の戦いを繰り広げている。
グレイスも不利な戦いを強いられていた。
逃げ場を潰すように枝を伸ばして檻のように展開し、別方向から鞭のようにしなる枝が無数に迫ってくる。
いくら膂力に任せた速度があろうと、グレイスの腕は2本きりだ。脚部のシールドも合わせたとしても、対応できる数には限界がある。斧による迎撃を掻い潜った一撃がグレイスの頭部を掠めていく。
白い額を赤い血が伝って垂れてくる。自身の、血の香り。自分自身のそれでさえ――酷く暴力的な気分を覚えて、グレイスは戦いの最中にありながら自嘲気味の笑いを浮かべる。
「――全く、私は」
自身の襟元に触れる。防御魔法プロテクションが発動し、ルナワームの糸で紡がれた衣服を強固でしなやかな鎧へと変える。強力な防御効果を持つが、それ故に長くは発動させておく事はできない。
防御力を上げながらも、尚も打ち合い続ける。ギルムナバルの枝は、それでも防御を突き破って、グレイスに細かな手傷を負わせていく。まともに食らえば、再生が追い付かないダメージを負うだろうが――。
グレイスは防御的な選択をしなかった。斧に纏う闘気の密度を上げる。ここを退けば後がないとばかりに無数の枝や蔦と打ち合う。
それでも押し返すには至らない。ギルムナバルも最も警戒すべき敵はグレイスと見定めたのか、彼女との戦いに重きを置き始めたのだ。
そして、それこそがグレイスの望むところである。
「くっ」
圧倒的な物量により、じわじわと壁際に追い詰められたところで、それは来た。
巨大な氷嵐が、ギルムナバルの真下から吹き上がって、その頭部を呑み込んだのだ。水魔法第7階級ブリザードストーム。
アシュレイにとっては大技も大技。テオドールに教えてもらったものだ。
だが氷嵐の中から槍のような物が吐き出され、真っ直ぐにアシュレイに向かって飛んでいく。
アシュレイ自身は目を閉じてメイスを握り、マジックサークルの制御にのみ集中している。空中戦――どころか、回避も防御もままならない状態である。
が。魔法に集中しているはずのアシュレイが、そのまま高速でその場を離脱する。一瞬遅れて、槍が何もない空間を貫いていった。ラヴィーネだ。氷の鎧を身に纏い、その背に跨るアシュレイと人狼一体となって空中を疾駆する。
「これでも倒せませんか!」
氷嵐が上方に巻き上げられて収まると、ギルムナバルの姿が露わになった。その人体部の周囲には濃密な瘴気が渦巻いている。瘴気を纏って氷嵐を凌いだらしい。
「邪魔、だ!」
龍が大顎を開く。口の中に瘴気が集まっていく。
「ディープミスト!」
アシュレイの姿が、突然発生した濃霧の中に隠れる。
それで――ギルムナバルはアシュレイの姿を見失っていた。放った瘴気の吐息は虚しく空を切り、奈落の底に呑み込まれていく。アシュレイとラヴィーネはその全身を氷で覆って離脱している。
「あなたは――視界外のものは、温度で感知している」
グレイスがそう言って、目を細める。
視界以外の探知感覚。それは例えば、音の反射であるとか、温度の変化であるとか、色々な可能性が考えられる。その探知感覚次第で立てる作戦も変わる、が。
姿を消したシーラを正確に追尾した攻撃。地面から有視界外への正確な座標を捉える攻撃。吹雪を食らった後に生じた隙。
魔人は全員を一網打尽にしようと地下から攻撃した際、相当に正確な座標を攻撃していた。にも拘らず、それができていなかった相手が、ただ一匹だけ、いる。
ラヴィーネだ。冷気を纏う狼の正確な位置が掴めておらず、僅かにずれた位置を攻撃していた。それを、注意喚起を促した際、グレイスはきっちりと見ていた。
植物の温度変化の察知能力というのは――イルムヒルトのものとまた原理は違うのだろうが、いずれにしても温度変化で物を視ているという点に違いはないだろう。
冬場であるなら、さぞかし人間の位置はよく浮かび上がって視えるのだろうが、迷宮内部では話が違ってくる。
「それが、どうした?」
自身はまだ無傷に等しいと、ギルムナバルは鼻で笑う。
「何のために氷の嵐を叩きつけたのか、分かりませんか?」
グレイスの背後。外壁部に不自然な陽炎が揺らぐ。ギルムナバルがそれに気付いて、目を見開いた瞬間。そこから、巨大な槍のようなものが飛び出して、龍の頭に深々と突き刺さった。
「がぁぁあっ!?」
巨大弓を構えるイルムヒルトと、それを支えて光魔法の外套で覆っていた、シーラの姿が現れる。
ブリザードストームを食らったギルムナバルは、例えて言うなら強烈な閃光で目が眩んだようなものだ。
少なくとも頭部付近は――視界以外の感覚では、見えていない。シーラが外套で姿を消してしまえば、ギルムナバルにはもう感知する手段が、ない。
対するイルムヒルトも外套の裏側、しかも吹雪の直後では正確な位置が見えないはずだが――それを補ったのは別の感覚で知覚が可能なシーラである。
グレイスが両の斧から紫色の煌めきを放ちながら、突撃の構えを見せる。
「な、めるな! 貴様は見えているぞ!」
今のが切り札ならば、致命打には至っていない。グレイスでは触腕を突破できない事は分かっている。
グレイスが空中を蹴る前に、横合いから吹雪が一帯を呑み込んだ。同時に風上から濃密な霧が押し寄せてくる。アシュレイとラヴィーネによるものだ。
「な、に!?」
悪化した視界の中を、バラバラと人影が散る。
ギルムナバルは、追う。目で、追う。人影はシーラとイルムヒルトのもの。
最も警戒を払うべきグレイスの姿は――先程の矢よりも速く、吹雪の中を突っ切って最短距離を真っ直ぐに飛んできた。すれ違いざま。斧が振り切られ、驚愕の表情を浮かべたままでギルムナバルの頭部が泣き別れになる。
それでも致命傷に至らないのか。ギルムナバルの胴体部が身体をくねらせて、龍の頭が狂ったような咆哮を上げる。
通り過ぎたグレイスは掌にシールドを展開して、膂力に任せた急制動を掛けた。
斧を上空に投げて空中に固定。自身の身体を引き上げるようにして一挙動に高度を取ると、直上から赤い瞳の輝きで獲物を見据える。
ギルムナバルもまた、首を落とした敵を求めるかのように上を目掛けて動く。だが、その動きは先ほどよりも明らかに精彩を欠いていた。
「ふ――」
先程の暴力的な衝動に身を委ね。グレイスが冷たく笑う。
その――位置。龍の頭部に突き立った、巨大矢を見定める。
全身のバネで空中を蹴り、重力加速度と蹴り出した勢いに任せて。
温度を感知したのか触腕がグレイスを迎撃しようとするが、人体部の破損が大きいからか、悉くが正確性を欠いていた。
あちこちグレイスの身体を掠める――が。
――どうせこの程度の手傷。再生するのだから。
だから、意に、介さない。
巨大矢を拳で殴りつけて、龍の頭蓋の、奥深くまでめり込ませた。それから矢を引っ掴むと、傷口を広げるように捻りを加えながら力任せに引き抜く。
龍の身体はまだ狂ったようにのたくっていたが、急速に目の輝きと浮力を失う。ギルムナバルの巨体が、奈落の底へと落ちていき――その途中で光を放って四散した。




