第九話 敵の命
診療室は静まり返っていた。先ほどまで部屋を支配していた張り詰めた空気だけが、まだ残っている。ヴォルフガングは去った。暗殺者たちは命令通り、診療室の外で見張りを続けている。この部屋にいるのは、俺とノア、スカーレット。そして寝台へ横たわる少年だけだった。俺はゆっくり息を吐く。
「ノア」
「はい」
「水をもう一度」
返事と同時に、水を入れた器が差し出される。俺は布を濡らし、少年の傷口を丁寧に拭った。乾き始めた血を落とし、裂けた皮膚の様子を確かめる。止血はできている。だが、安心はできない。傷が深い以上、一番怖いのはこれからだ。
「先生」
ノアが傷口を覗き込む。
「血は止まりましたよね?」
「ああ」
「じゃあ、もう大丈夫なんですか?」
俺は首を横に振った。
「違う。今度は傷が膿まないかを見なきゃいけない」
「膿む……?」
「傷口へ汚れが入ると、熱が出たり、もっと悪くなることがある」
ノアは傷口を見つめた。
「だから、あんなに洗っていたんですね」
「そういうこと」
元の世界なら、生理食塩水で洗浄して、抗菌薬を使う。必要なら縫合し、感染の兆候があれば血液検査もできる。だが、この世界には何もない。だからこそ、最初の処置が命を左右する。
「包帯も替えるんですか?」
「汚れたらな」
「血が付いていなくても?」
「汗でも汚れる」
「見た目が綺麗でもですか?」
「ああ」
俺は少し考える。どう説明するのが一番伝わるだろう。
「目には見えない小さな汚れがある」
「目に見えない……?」
「それが傷へ入ると、身体の中で悪さをする」
ノアは不思議そうな顔をした。
「見えないのに、いるんですか?」
……俺のいた国では、それを確かめる道具があったんだけどな。本当は細菌と言いたい。顕微鏡と言いたい。でも、この世界には存在しない。
「だから、見えなくても汚れていると思って扱う」
「……なるほど」
ノアは包帯を大事そうに抱えた。
「見えないからこそ、気を付けるんですね」
「そうだ」
理解が早い。教え甲斐がある。その時だった。寝台の上で、小さく布が擦れる音がした。少年の瞼が震える。ゆっくりと目が開いた。だが最初に動いたのは視線だった。天井。窓。扉。そして俺たち。一つひとつを確認するように見回している。
(……逃げ道を探してる)
身体は動けなくても、頭はまだ兵士のままだ。
「安心しろ」
俺は静かに声を掛けた。
「傷は開かせない」
少年は俺を見る。
「……逃がしもしないけどな」
その言葉に、少年の肩から少しだけ力が抜けた。逃げられないことは分かっている。なら、無駄にもがく意味はない。
「水、飲めるか?」
少年は微かに頷いた。ノアが身体を支え、俺が木の匙で少しずつ水を口へ運ぶ。一匙。飲み込む。少し待つ。もう一匙。吐き気はない。
「無理はするな」
少年は三口目で首を横へ振った。
「それでいい」
ノアが背中をゆっくり寝台へ戻す。その手つきは、昨日までとは比べ物にならないほど落ち着いていた。
「名前は?」
俺が尋ねる。少年はしばらく黙っていた。俺を見て。ノアを見て。最後に天井を見つめる。
「……エリオ」
「エリオか」
小さく頷く。
「俺はテラ」
「知ってる」
少し間を置いてから言う。
「患者として聞いた」
エリオは僅かに眉を動かした。それが何を意味するのか、自分でも分かっていないようだった。
「年は?」
「十七」
「十七……」
思わずノアを見る。
「ノア、お前はいくつだ?」
「十五です」
「二つしか違わないな」
ノアも同じことを考えたらしい。寝台の上のエリオを見つめ、小さく呟く。
「もっと大人かと思っていました」
「俺もだ」
こうして話してみると、まだ十七歳の少年だ。戦場へ立つには、若すぎる。その沈黙を破ったのは、ノアだった。
「先生」
「ん?」
ノアは少し言いづらそうに口を開く。
「僕は……まだ、この人を助けたいとは思えません」
診療室が静かになる。エリオも驚いたようにノアを見た。俺は少しだけ笑う。
「それでいい」
「え?」
「無理に好きになる必要はない」
「でも……」
「俺だって、この人が何をしてきたかは知らない」
包帯へ軽く手を添える。
「それでも、今ここにいるのは患者だ」
ノアは黙って聞いている。
「助けたいから助けるんじゃない」
「……」
「助けるべきだから助ける」
その言葉に、エリオの瞳がわずかに揺れた。しばらくして、掠れた声が聞こえる。
「……変な奴だ」
俺は肩をすくめる。
「よく言われる」
「敵を助けるなんて」
エリオは苦しそうに息を整え、それでも続けた。
「俺は……生きて帰れたら、またお前たちと戦う」
ノアの息を呑む音が聞こえた。俺は少しだけ考える。そして静かに答えた。
「そうか」
「……それだけか?」
「今は、その時じゃない」
俺はエリオの包帯をそっと押さえる。
「今のお前は剣を握ってない」
エリオは俺を見つめる。
「今のお前は患者だ」
その一言に、エリオは何も返せなかった。診療室には、ただ静かな呼吸だけが響いていた。エリオはしばらく黙っていた。俺の言葉を理解しようとしているのか、それとも理解することを諦めているのか。その表情からは読み取れなかった。沈黙を破ったのは、スカーレットだった。
「妾から見ても、お主は変じゃ」
腕を組みながら、呆れたようにため息を吐く。
「敵じゃぞ?」
「知ってるよ」
「普通なら、今のうちに始末してしまった方が後腐れがない」
「それは俺の仕事じゃない」
「……本当に面倒な男じゃな」
口ではそう言いながらも、スカーレットはそれ以上何も言わなかった。もう何度も見てきたのだ。俺がこういう人間だということを。諦め半分、といったところだろう。
「先生」
ノアが包帯を手に持ったまま俺を見る。
「替えてみてもいいですか?」
思わず笑みが零れた。
「やってみるか」
ノアは緊張した面持ちで寝台へ近付く。包帯を外す。まだ恐る恐るだが、前よりずっと手付きが丁寧だった。
「まずは傷を見る」
「はい」
「赤く腫れていないか」
「……少し赤いです」
「それは傷付いたばかりだからだ。問題なのは昨日より赤くなること」
ノアは真剣に頷く。
「膿が出ていないか」
「ありません」
「熱を持っていないか」
ノアは困ったような顔をした。
「熱……?」
「手を当ててみろ」
ノアは恐る恐る傷の周囲へ触れる。
「……少し温かいです」
「身体は傷を治そうとしている。少しなら普通だ」
「じゃあ、どこから危ないんですか?」
「昨日より熱くなる。赤みが広がる。膿が出る。臭いが変わる」
「臭い……」
「それも大事な情報だ」
ノアは何度も頷きながら覚えていく。昔の俺も、こうやって先輩から教わった。教科書だけじゃ覚えられない。患者を診ながら覚えるしかないことがある。
「じゃあ巻いてみろ」
「はい!」
ノアが新しい包帯を手に取る。慎重に。本当に慎重に巻いていく。途中で少しだけ力が入った。
「止まれ」
「は、はい!」
「きつい」
「えっ」
「指一本入るくらいを意識する」
俺は包帯へ指を差し込んで見せる。
「締め付け過ぎると血が流れなくなる」
「そんなことまで……」
「包帯は巻けばいいわけじゃない」
ノアは慌てて巻き直した。今度は少し緩い。
「もう少しだけ」
「……難しいです」
「最初から上手い人なんていない」
ノアは何度もやり直し、ようやく納得のいく形になった。
「どうですか」
俺は少し眺める。
「うん。昨日よりずっといい」
「本当ですか!」
「ああ」
その一言だけで、ノアの顔がぱっと明るくなった。エリオはその様子を黙って見ていた。
「……弟子か」
ぽつりと呟く。
「まだ弟子なんて立派なものじゃないよ」
「でも先生です」
ノアが即座に言う。俺は苦笑した。
「その呼び方、まだ慣れないな」
「先生は先生です」
「頑固だな」
「先生ほどじゃありません」
思わず笑ってしまう。診療室の空気が少しだけ和らいだ。その時だった。エリオが小さく咳き込む。
「ごほっ……!」
俺はすぐに表情を引き締めた。
「ノア」
「はい!」
「額だ」
ノアが額へ手を当てる。
「……さっきより熱いです」
俺も触れる。確かに熱い。嫌な熱だ。傷の炎症だけでは説明が付かない。呼吸も少し速くなっている。
「スカーレット」
「何じゃ」
「身体はどう見える」
スカーレットはエリオへ近付き、しばらく目を閉じた。竜である彼女は、人よりも生命の熱に敏感だ。
「熱が上がっておる。」
「急か?」
「うむ。さっきより明らかじゃ」
やっぱりか。俺は拳を握る。現代なら抗菌薬を使う。採血をして、原因を調べる。点滴を繋ぎ、水分と薬を投与する。だが、この世界には何一つない。頼れるのは、自分の知識と経験だけ。
「先生……」
ノアの声が震えていた。
「この人、助かりますよね」
俺はエリオを見る。苦しそうな呼吸。滲み始めた汗。閉じられた瞼。ここからが、本当の勝負だ。
「分からない」
正直に答えた。ノアが息を呑む。
「でも」
俺は静かに立ち上がる。
「命は助けると約束できるものじゃない。だが……諦めるにはまだ早い」
診療室の空気が、再び張り詰めた。夜は、まだ始まったばかりだった。
俺はエリオの額から手を離し、小さく息を吐いた。
「ノア」
「はい!」
「新しい水を汲んできてくれ。それと、布も何枚か頼む」
「分かりました!」
ノアはすぐに桶を抱え、診療室を飛び出していった。その背中を見送り、俺はもう一度エリオの様子を観察する。呼吸は浅く、速い。額には汗が滲み始めていた。傷口からの出血は止まっている。それでも熱が上がっているということは、傷による炎症か、それとも既に感染が始まっているのか。判断する術はない。採血も、検査も、この世界には存在しない。だからこそ、目の前の変化を見逃さないことが何より大切だった。
「喉は渇くか?」
エリオはゆっくりと目を開き、小さく頷く。俺は器から木の匙へ水を汲み、唇へ運んだ。
「一気には飲むな。少しずつだ」
一口。ゆっくりと飲み込む。もう一口。その途中でエリオが小さく咳き込み、俺はすぐに匙を引いた。
「無理するな」
「……すまない」
「謝るな」
俺は器を脇へ置く。
「今は飲める分だけでいい」
エリオは静かに目を閉じた。その横顔は苦しそうで、年相応の幼さも残っている。十七歳。戦場へ出るには、あまりにも若い。
その時、診療室の扉が勢いよく開いた。
「先生、持ってきました!」
ノアが桶と布を抱えて戻ってくる。
「ありがとう」
俺は布を水へ浸し、固く絞った。
「まずは汗を拭く」
「熱を下げるためですか?」
「ああ。それと、汗をかいたままだと身体が冷え過ぎることもある」
俺は額から首筋へと布を滑らせる。
「汗をかいたままだと気持ち悪いし、濡れた布や服で身体が冷えることもある。こまめに拭いて、乾いたものに替えるんだ」
ノアは真剣な表情で聞いていた。
「僕がやります」
「頼む」
ノアは布を受け取り、慎重にエリオの腕を拭き始める。昨日までのノアなら、怖くて手も出せなかっただろう。それが今では、自分から動こうとしている。ゆっくりではあるが、その手つきには確かな成長が見えた。
「そうだ。そのくらいでいい」
「強く擦らない方がいいんですよね?」
「ああ。傷の近くは特にな」
ノアは小さく頷き、さらに丁寧に布を動かした。その様子を見ていたスカーレットが、小さく笑う。
「随分と板についてきたの」
「まだまだですよ」
ノアは照れくさそうに笑った。
「先生には全然敵いません」
「最初からできる人間なんていないさ」
俺がそう言った、その時だった。エリオの身体が小さく震えた。
「っ……」
呼吸が荒くなる。苦しそうに眉を寄せ、熱にうなされ始めた。
「エリオ」
呼びかけても反応は薄い。意識がぼんやりしている。
「母さん……」
掠れた声が漏れた。
「待って……」
夢でも見ているのだろう。
「帰らないと……」
ノアの手が止まる。
「家族、いるんですね……」
俺は静かに頷いた。
「兵士になる前は、誰だって普通に暮らしてたんだ」
敵でも味方でも、それは変わらない。エリオは十七歳の少年だ。家族がいて、帰る場所があって、それでも戦場へ立たなければならなかった。ただ、それだけのことだった。俺は新しい布を絞り直し、そっとエリオの額へ当てる。
「ノア」
「はい」
「今日は長い夜になる」
ノアは迷うことなく頷いた。
「最後まで、一緒に診ます」
その返事が、少しだけ嬉しかった。
「頼りにしてる」
ノアは照れくさそうに笑い、小さく「はい」と返事をした。診療室の外では、ゆっくりと夜の帳が下り始めていた。この夜を越えられるかどうか。それが、エリオの命を左右する。




