第十話 夜を越える
夜が深まるにつれて、エリオの熱はさらに上がっていった。額へ当てた布は、すぐにぬるくなる。取り替えても、しばらくすれば同じだった。呼吸も速い。胸が浅く上下するたび、唇から苦しそうな息が漏れている。
「……三十六、三十七、三十八」
俺はエリオの呼吸を数えながら、手首へ指を当てた。脈も速い。弱くはない。だが、落ち着いているとは到底言えなかった。
「先生」
隣に座るノアが、不安そうに俺を見る。
「さっきより悪くなっていますか?」
「熱は上がってる」
嘘をついても意味はない。
「呼吸も速い。このまま水が飲めなくなると、もっと危険になる」
「水が飲めないだけで?」
「熱が出ると、汗もかく。呼吸だけでも身体から水は失われる」
俺は木の匙へ水を掬った。
「入ってくる水より、出ていく水の方が多くなれば、身体は弱っていく」
「だから少しずつでも飲ませるんですね」
「ああ」
ノアは真剣に頷いた。
理解するだけではなく、今まで教えたことを繋げて考え始めている。俺はエリオの肩へ手を添えた。
「エリオ。聞こえるか」
返事はない。瞼が僅かに動いただけだった。
「水を飲むぞ」
身体を起こそうとすると、エリオの顔が苦痛に歪んだ。
「……っ」
「傷が痛むか?」
掠れた声が漏れる。
「……全身が、痛い」
熱が高い時に感じる、あの独特の身体の痛みだろう。俺はノアへ目を向けた。
「背中を支えてくれ」
「はい」
ノアが寝台へ上がり、エリオの上半身を慎重に起こす。俺は匙を唇へ近付けた。
「ゆっくりでいい」
一口目は飲み込めた。二口目も、時間はかかったが喉を通った。三口目を運ぼうとすると、エリオは顔を背けた。
「……もう、いい」
「あと一口」
「いらない」
「飲まないと、もっと苦しくなる」
エリオは薄く目を開いた。
「敵に……命令される筋合いはない」
こんな状態でも、そこだけは兵士らしい。俺は思わず息を漏らした。
「患者には命令することもある」
「横暴だな……」
「よく言われる」
さっきも似たような会話をした気がする。俺はもう一度、匙を差し出した。
「あと一口飲んだら休ませる」
エリオは暫く俺を睨んでいたが、やがて諦めたように口を開いた。水が喉を通るのを確認してから、俺は匙を置いた。
「よし」
「子供扱いするな……」
「十七歳なら十分子供だ」
「お前も……似たようなものだろ」
そういえば、今の身体は十八歳だ。言われてみれば、一つしか違わない。
「見た目だけならな」
「……何だ、それ」
エリオが怪訝そうに眉を寄せる。危ない。熱に浮かされている相手とはいえ、余計なことを口にするべきじゃなかった。
「経験の差だよ」
そう誤魔化し、ノアと一緒にエリオの身体を寝台へ戻す。エリオはそれ以上追及する余裕もなかったのか、再び目を閉じた。
「先生」
ノアが声を潜める。
「僕にできることはありますか?」
「呼吸を見ていてくれ」
「呼吸を?」
「急に遅くなったり、止まりそうになったり、苦しそうな音が出たらすぐに呼べ」
「分かりました」
「それから、名前を呼びかける。反応があるか確かめるんだ」
ノアはエリオの顔を見つめた。
「眠っているのとは違うんですか?」
「違うことがある」
「違うこと……」
「眠っているだけなら、強く呼べば目を開けたり、嫌がったりする。でも、身体が弱り過ぎて意識がなくなると、それすらできない」
ノアの表情が強張った。
「反応がなくなるのは、危ないということですか?」
「そう思っていい」
「……はい」
緊張しているのが分かる。それでもノアは逃げなかった。寝台の傍へ椅子を寄せ、エリオの胸の動きをじっと見つめている。俺はその間に、傷口をもう一度確認した。包帯を外す。血は滲んでいない。だが、傷の周囲は先ほどより赤みが強くなっていた。指先で触れると、熱も増している。
「悪くなっておるのか?」
背後からスカーレットが覗き込む。
「少しな」
「妾の炎で焼けば、汚れごと消せるのではないか?」
「傷まで消える」
「加減はできるぞ」
「却下」
即答すると、スカーレットは不満そうに唇を尖らせた。
「お主は妾を信用しておらぬな」
「炎を傷口へ当てようとする奴を、どう信用しろっていうんだ」
「人間は面倒じゃ」
それはこちらの台詞だ。俺は傷の周囲を、清潔な水で慎重に洗った。エリオが痛みに顔を歪める。
「我慢しろ」
「……殺す方が、楽なんじゃないか」
唐突に落とされた言葉に、俺の手が止まった。ノアも顔を上げる。エリオは目を閉じたままだった。
「捕虜として……話せることはない」
「誰も今は聞いてない」
「どうせ朝になれば……あの男が来る」
あの男。ヴォルフガングのことだろう。
「殺されるくらいなら……今、終わらせろ」
弱々しい声だった。だが、その言葉には諦めが滲んでいた。俺は包帯を巻き直しながら答える。
「嫌だ」
「……なぜ」
「死にたい人間の願いを、何でも聞くつもりはない」
「敵だぞ」
「何度言わせるんだ」
俺は最後に包帯を留めた。
「今のお前は患者だ」
「そればかりだな……」
「大事なことだからな」
エリオは小さく息を吐いた。
「朝になれば、どうせ……」
「朝のことは朝に考える」
「逃げてるだけだ」
「そうかもな」
俺は否定しなかった。明日になれば、ヴォルフガングは再び現れるだろう。エリオをどう扱うのか。捕虜として閉じ込めるのか、情報を引き出すのか、それとも殺すのか。俺に決める権利はない。だが、今だけは違う。
「それでも、今夜は俺が決める」
エリオが薄く目を開いた。
「今夜のお前は死なせない」
その瞳が揺れる。何かを言おうとして、結局エリオは目を閉じた。やがて、診療室へ静けさが戻った。薪の爆ぜる音。水を絞る音。エリオの荒い呼吸。それだけが、夜の中で繰り返されていた。どれほど時間が経っただろう。窓の外は完全に暗くなっている。ノアは眠気を堪えるように、何度も瞬きをしていた。
「ノア」
「はい」
「少し休め」
「大丈夫です」
「その返事をする奴は、大体大丈夫じゃない」
「でも、先生も休んでいません」
「俺は慣れてる」
「僕だって慣れます」
思わずノアを見る。頑固な目をしていた。誰に似たのやら。
「倒れたら患者が増える」
「倒れません」
「そう言って倒れる人間を、何人も見てきた」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。俺自身も、その一人だった。休めと言われても休まなかった。大丈夫だと思い込み、自分の身体が上げる悲鳴を無視した。その結果が、これだ。
「休むのも仕事だ」
俺は静かに言った。
「一人で全部やろうとするな。交代できる時は交代する。それが、患者を守ることにもなる」
ノアはまだ納得していない顔をしていた。
「でも……」
「一刻だけでいい。横になれ」
「先生は?」
「その後で休む」
ノアは迷った末、渋々頷いた。
「絶対ですよ」
「ああ」
「約束してください」
「分かった。約束する」
ようやくノアは診療室の隅へ移動した。毛布を敷き、横になる。それでも暫くはエリオを気にしていたが、疲れていたのだろう。やがて静かな寝息が聞こえ始めた。
「良い先生になってきたの」
スカーレットが小声で言う。
「まだ何も教えられてない」
「技術の話ではない」
俺はスカーレットを見る。
「お主は、あの小僧に己と同じ道を歩ませたくないのじゃろう」
図星だった。
「何のことだ」
「惚けるな。妾はお主の魂を知っておる」
スカーレットは眠るノアへ視線を向けた。
「己を使い潰して死んだ男が、休むことも仕事だと説くか」
「……悪いか」
「いや」
彼女は僅かに笑った。
「ようやく、自分の死から学んだようじゃな」
何も言い返せなかった。俺はエリオへ視線を戻す。呼吸はまだ速い。だが、先ほどよりは深くなっている気がする。額へ触れる。熱い。それでも、さらに上がっている様子はない。
「下がったか?」
スカーレットが尋ねる。
「まだ分からない」
「人間は不便じゃの。妾なら一目で分かるぞ」
「だったら見てくれ」
「最初からそう言えばよい」
スカーレットはエリオの胸元へ手を翳した。目を閉じ、何かを感じ取るように黙り込む。やがて、ゆっくりと目を開いた。
「生命の火は、先ほどより安定しておる」
「本当か?」
「うむ。弱ってはおるが、今すぐ消えそうな揺らぎではない」
俺は無意識に詰めていた息を吐いた。安心するには早い。熱が下がったわけでもない。感染が治まったとも限らない。それでも、悪化し続けている状態からは抜けた可能性がある。
「夜を越えられるかもしれない」
「お主が越えさせるのであろう?」
スカーレットの言葉に、俺はエリオを見る。汗に濡れた黒髪。苦しそうに寄せられた眉。まだ幼さの残る横顔。
「ああ」
俺は新しい布を水へ浸した。
「そのつもりだ」
夜はまだ長い。熱も下がっていない。何が起こるかは分からない。それでも、先ほどまで微かに遠ざかっていた命が、今は踏みとどまろうとしている。ならば、俺も手を離すわけにはいかなかった。布を絞り、エリオの額へ載せる。その直後。
「……テラ」
弱い声が聞こえた。俺は顔を上げる。エリオが僅かに目を開けていた。
「どうした」
「俺が……生き残ったら」
途切れ途切れの声だった。
「お前は、後悔するぞ」
俺は少しだけ考えた。そして、静かに答える。
「それは、生き残ってから言え」
エリオは僅かに目を見開いた。やがて、ほんの少しだけ口元を緩める。
「……やっぱり、変な奴だ」
それを最後に、再び目を閉じた。今度の呼吸は、先ほどよりも穏やかだった。窓の外は、まだ暗い。朝までは遠い。だが俺は初めて、この夜を越えられる気がした。




