第十一話 命の価値
朝日が診療室の窓から差し込んでいた。長い夜だった。俺は椅子へ腰掛けたまま、いつの間にか浅い眠りについていたらしい。
「……先生」
小さな声で目を開ける。ノアが嬉しそうに俺を見ていた。
「熱、少し下がっています」
俺はすぐに立ち上がり、エリオの額へ手を当てた。まだ熱い。だが昨夜のような焼け付く熱ではない。呼吸も落ち着いている。脈を測る。昨日より速さが収まっていた。俺は小さく息を吐く。
「峠は越えたか」
その言葉に、ノアの顔がぱっと明るくなる。
「助かるんですね!」
「まだ油断はできない。でも、一番危ないところは抜けたと思う」
ノアは胸を撫で下ろした。俺も同じ気持ちだった。あの夜を越えた。この世界の医療でも、命は繋げられる。そう思えた、その時だった。診療室の扉が静かに開く。部屋の空気が一変した。
「旦那様……」
ノアの声が強張る。ヴォルフガングだった。いつものように静かな足取りで寝台へ近付く。俺は無意識にエリオの前へ立っていた。
「回復したようだな」
感情のない声だった。
「まだです」
俺は即座に答える。
「熱は残っています。傷も完全には──」
「歩けるか」
ヴォルフガングは俺の言葉を遮り、エリオへ問い掛けた。エリオはゆっくり目を開ける。俺を見る。そしてヴォルフガングを見る。
「……立てる」
「エリオ!」
思わず声が出た。無理をすれば傷が開く。そんなことは本人が一番分かっているはずだった。それでもエリオは寝台へ手を付き、ゆっくり身体を起こした。足が震える。立ち上がった瞬間、膝が折れそうになる。俺は反射的に支えようとした。
「触るな」
エリオが静かに言う。
「でも──」
「自分で歩く」
その言葉に迷いはなかった。ヴォルフガングは部下へ目を向ける。
「連れて行け」
二人の暗殺者が前へ出る。俺はヴォルフガングの前へ立ちはだかった。
「待ってください」
「何だ」
「まだ患者です」
「そうだな」
あまりにもあっさりと返され、俺は言葉を失う。
「なら──」
「だから治させた」
空気が凍った。
「……え?」
「死にかけのまま処刑しても意味はない」
ヴォルフガングの視線は、どこまでも冷たい。
「敵兵は、自らの足で死地へ向かわせる」
俺は何も言えなかった。俺は助けるために治した。この男は、殺すために治させた。同じ『治す』という結果でも、その意味があまりにも違った。
「テラ先生……」
後ろから声がする。振り返ると、エリオが立っていた。ふらつきながらも、自分の足で。
「ありがとう」
静かな声だった。
「……あんたに助けられたことは、忘れない」
俺は首を振る。
「礼を言うな」
「俺は兵士だ」
エリオは小さく笑う。
「お前は看護師なんだろ」
その一言に、胸が締め付けられた。何も返せない。エリオはゆっくり踵を返す。暗殺者は手を貸そうとした。だが、エリオは首を横へ振る。
「……一人で歩ける」
一歩。また一歩。傷の痛みで顔を歪めながら、それでも歩き続ける。診療室の扉の前で、もう一度だけ振り返った。
「テラ、先生……」
俺は顔を上げる。
「変な奴だった」
少しだけ笑って、エリオは扉の向こうへ消えていった。扉が閉まる音だけが、診療室へ響く。ノアはその場に立ち尽くしていた。震える声だった。
「助けたのに……」
俺は答えられなかった。遠くから、短く鋭い金属音が一度だけ聞こえた。その後は、何も聞こえない。診療室は静まり返っていた。俺は拳を握る。爪が食い込むほど強く握っても、その痛みは胸の奥の痛みには遠く及ばなかった。
看護師は命を繋ぐことはできる。だが、その先の人生まで守れるわけじゃない。




