第十二話 命を繋ぐ理由
診療室は静かだった。
昨日までエリオが横になっていた寝台は、きれいに整えられている。包帯も畳まれ、水桶も洗われていた。何一つ変わっていない。それなのに、この部屋だけ何かが欠けてしまったような気がした。俺は寝台へ手を置き、小さく息を吐く。まだ、温もりが残っている気がした。
「先生」
後ろからノアの声がした。振り返ると、抱えるように木の器を持っている。昨日、エリオが水を飲む時に使った器とスプーンだった。
「これ……どうしますか」
少し迷っているようだった。
「洗って棚へ戻しますか?」
俺はそれらを見つめる。小さな傷が付いている。昨夜、熱で震えるエリオの唇へ何度も運んだ匙だった。
「……残しておこう」
「え?」
「次の患者にも使う」
ノアは不思議そうな顔をした。
「嫌じゃありませんか?」
「何が?」
「あの人が使っていた物です」
俺は少しだけ笑う。
「洗えばまた使える」
そう言って器を受け取る。
「物まで捨てる必要はない」
ノアは黙って頷いた。それでも、どこか納得できないような顔をしている。しばらく沈黙が流れた。
「先生」
「ん?」
「僕、昨日ずっと考えていました」
ノアは俯いたまま言う。
「僕たちは……間違っていたんでしょうか」
俺は何も答えなかった。ノアは続ける。
「助けても殺されるなら……」
その声は震えていた。
「助けなかった方が、苦しまなくて済んだんじゃないかって」
診療室が静かになる。その疑問は当然だった。俺だって昨夜、何度も考えた。助けた意味はあったのか。助けなければ、あいつは苦しまなかったんじゃないか。何度も何度も、自分へ問い掛けた。それでも。
「違う」
俺は静かに首を横へ振った。
「俺たちは間違ってない」
ノアが顔を上げる。
「命を救うのが俺たちの仕事だ」
「でも……」
「その人が、この先どう生きるか」
一度言葉を切る。
「どう死ぬか」
胸が締め付けられる。
「そこまでは俺たちには決められない」
ノアは黙って聞いている。
「俺たちにできるのは、命を繋ぐことだけだ」
「命を……繋ぐ」
「そうだ」
俺は寝台へ視線を落とした。
「昨日、エリオは最後まで自分の足で歩いた」
あの姿を思い出す。傷が開きそうになりながら。ふらつきながら。それでも、自分で歩いた。
「あれは俺たちが繋いだ時間だった」
ノアは何も言わない。
「短かったかもしれない」
俺は苦笑する。
「それでも、繋がなければ歩けなかった」
ノアは唇を噛んだ。
「先生……」
「だから」
俺はノアを見る。
「助からないかもしれない命でも、俺は助ける」
その時だった。
「相変わらず甘いの」
診療室の窓からスカーレットの声がした。今日も窓枠へ腰掛け、退屈そうに足を揺らしている。
「死ぬと分かっておる命じゃった」
「そうかもしれない」
「ならば治療など無駄じゃ」
俺は首を横へ振る。
「無駄じゃない」
「何故じゃ」
「生きている間は、生きているからだ」
スカーレットは目を細める。
「死ぬ運命は変わらなかったぞ」
「運命は変えられなかった」
俺は認めた。
「でも」
器を静かに棚へ戻す。
「苦しみは減らせた」
それだけは胸を張って言えた。熱にうなされるエリオへ水を飲ませた。身体を拭いた。痛みを和らげた。最後まで一人にはしなかった。それは、看護師だからできたことだ。
「命を救えなくても」
俺は静かに呟く。
「苦しみを減らすことはできる」
スカーレットはしばらく黙っていた。やがて、小さく笑う。
「やはり、お主は変な男じゃ」
「褒め言葉として受け取っとく」
「勝手にせい」
診療室に、小さな笑いが戻る。その時だった。コンコン、と控えめなノックが響いた。
「失礼します」
一人の使用人が顔を覗かせる。
「テラ様」
「どうした?」
「診療をお願いしたい者がおります」
「怪我人か?」
「いえ」
使用人は少し困ったように答えた。
「三日ほど食事が喉を通らず、寝込んでいる者です」
俺はノアを見る。ノアも俺を見ていた。さっきまで沈んでいた表情は、もうなかった。
「先生」
「ああ」
俺は診療鞄代わりの布袋を持ち上げる。
「行こう」
診療室には、また新しい患者が待っていた。




