第八話 敵
診療室に朝日が差し込む。窓際へ並べられた布は、昨日よりも整然としていた。診療記録を書き留める紙。洗浄用の水。包帯。傷を洗うための布。少しずつではあるが、この部屋は診療室らしくなってきている。
「テラ先生」
机へ向かっていたノアが顔を上げた。その呼び方にも、もう慣れ始めてしまっている自分がいた。
「おはようございます」
「おはよう」
「朝のお水です」
差し出された器を見て苦笑する。
「まだ起きてすぐなんだが……」
「昨日、お約束しました」
「……覚えてたか」
「忘れると思いましたので」
しれっと言い返される。診療記録の隅へ書かれた『テラ様は水を飲むこと』という文字が頭をよぎり、思わず肩を竦めた。
「はいはい」
一口飲む。冷たい水が喉を通る。それを確認してから、ノアは満足そうに頷いた。
「今日は忘れませんでしたね」
「先生を患者扱いする弟子なんて初めてだよ」
「倒れられたら困ります」
「昨日も同じこと言われた気がする」
「大切なことですから」
そこへ、背後から笑い声が聞こえた。
「よいではないか。ようやく学習したようじゃの」
振り返ると、スカーレットが窓枠へ腰掛けていた。赤い果実を齧りながら、楽しそうにこちらを見ている。
「お前も毎朝いるな」
「面白いものが見られるからの」
「面白くない」
「テラ先生が弟子に叱られておる姿は実に愉快じゃ」
「その呼び方まで定着させるな」
診療室へ笑いが広がる穏やかな朝だった。だが、その静けさは長く続かなかった。廊下の向こうから、複数人が走る音。重たい足音。怒鳴り声。
「開けろ!」
勢いよく扉が開かれる。血の臭いが、一気に診療室へ流れ込んだ。ランドブルク家の暗殺者が三人。その中央で、一人の少年が乱暴に抱えられている。いや──運ばれているというより、引きずられていた。
「寝台!」
反射的に叫ぶ。ノアがすぐ布を退かし、寝台を空ける。暗殺者は少年を無造作に放り投げようとした。
「待て!」
思わず声を荒げる。
「そんな置き方をするな!」
男が眉をひそめる。
「敵です」
「関係ない!」
俺は少年の身体を支えながら、ゆっくり寝台へ横たえた。年は十六、七歳ほど。服装はランドブルク家とは違う。脇腹から肩へかけて、大きく裂けた傷。服は血で固まり、乾いた血と新しい血が混じっている。呼吸は浅い。顔色も悪い。体温も下がり始めている。失血はかなり多い。
「ノア!」
「はい!」
「清潔な布を全部。それから温かい毛布を!」
「分かりました!」
ノアが走る。俺は少年の首元へ手を当てた。脈は速く弱い。意識も朦朧としている。
「……まだ生きてる」
「当然です」
暗殺者が淡々と言う。
「生かして連れて帰れと命じられておりますので」
「なら、こんな運び方をするな」
「敵です」
「今は患者だ」
男は眉一つ動かさない。
「処置が終われば尋問します」
「その後は処刑です」
診療室の空気が凍る。ノアの手が止まった。
「……それでも」
俺は傷口へ布を押し当てる。
「今は俺の患者だ」
部屋の中が静まり返った。暗殺者たちは理解できないという顔で俺を見つめる。
「患者に敵も味方もない」
圧迫を強める。少年が苦しそうに息を漏らした。
「生きているなら助ける」
それが看護師だからだ。たとえ、この先にどんな運命が待っていたとしても。今、この瞬間だけは。俺の仕事は、この命を繋ぐことだ。その時だった。診療室の入口に、一人の男が立っていた。黒い外套。金髪。鋭い金色の瞳。ランドブルク侯爵家当主──ヴォルフガング。彼は血に染まった寝台を一瞥すると、静かに口を開いた。
「……テラ」
低く、感情の読めない声。
「その者を助けるのか」
俺は圧迫を続けたまま、ヴォルフガングを見上げる。
「助けます」
「敵だぞ」
「知っています」
「我が家の者を二人殺した」
診療室が再び静まり返る。ノアが息を呑む。暗殺者たちは返答を待っていた。俺は一瞬だけ目を閉じ、そして真っ直ぐヴォルフガングを見返す。
「……それでも」
血で濡れた手に、さらに力を込める。
「今は、俺の患者です」
ヴォルフガングは、寝台へ横たわる少年を無言で見下ろした。少年は意識こそあるものの、焦点の合わない瞳で荒い呼吸を繰り返している。傷口からは、まだじわりと血が滲んでいた。
「ノア」
「は、はい!」
「新しい布をくれ」
震えた声で返事をすると、ノアはすぐに布を差し出した。俺は血で濡れた布を外し、傷の様子を確かめる。肩口から脇腹へかけて斜めに裂けた傷。幸い刃は貫通していない。だが深い。筋肉まで達している可能性がある。
「水を」
ノアが器を渡す。傷口へ少しずつ流し、血や土を洗い落としていく。少年は苦しそうに身体を震わせた。
「痛いよな……」
小さく声を掛ける。
「でも汚れを残すと、もっと苦しむ」
返事はない。歯を食いしばって耐えている。
「テラ」
ヴォルフガングが静かに言った。
「その者へ情を掛けるな」
「……情じゃない」
傷から小さな木片を摘み出す。
「必要な処置です」
「敵を生かすことが、我が家の不利益になる場合もある」
「だからと言って、治療を止める理由にはなりません」
部屋の空気が張り詰める。暗殺者たちは互いに顔を見合わせた。普段なら、誰一人として当主へ口答えなどしない。ましてや跡継ぎであるテラが、真正面から意見を返すなど見たことがなかった。
「……面白い」
ぽつりとヴォルフガングが呟く。
「以前のお前なら、その者へ近付こうともしなかった」
俺は答えない。今の俺はテラではない。けれど、それを口にすることはできない。
「……父上」
「何だ」
「この人を動かさないでください」
「理由は」
「失血しています。今無理に動かせば、さらに悪くなる可能性があります」
「どれほど待てばよい」
「最低でも今夜までは」
ヴォルフガングは少年を見つめる。そして淡々と言った。
「尋問はここで行う」
「……何?」
思わず顔を上げる。
「地下牢へ運ぶ必要はない」
暗殺者たちも驚いた表情を浮かべた。
「旦那様。しかし──」
「聞こえなかったか」
「……はっ」
全員が頭を下げる。ヴォルフガングは寝台の横へ椅子を運び、静かに腰を下ろした。まるで世間話でも始めるような穏やかな仕草だった。少年の顔色が変わる。恐怖。それだけは、朦朧とした意識でも分かるらしい。
「名前は」
ヴォルフガングが尋ねる。返事はない。
「名前」
もう一度。静かな声。それだけなのに、部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚える。
「…………」
少年は口を閉ざしたままだった。
「構わん」
ヴォルフガングは表情一つ変えない。
「お前が話さなくとも、分かることは多い」
そう言って、傷口を見る。
「剣を持つ手は右」
少年の瞳が揺れた。
「利き腕を庇うように受けている」
今度は靴へ視線を落とす。
「靴底の泥」
「……」
「北側の湿地帯を通ってきたな」
暗殺者たちが息を呑む。俺も思わず父を見た。
「革の質、腰の留め具、衣服の縫製」
一つずつ、淡々と口にしていく。
「お前は東方のベルグ辺境伯領の兵だ」
少年の瞳が大きく見開かれた。それだけだった。だがヴォルフガングは僅かに頷く。
「当たりか」
「……」
「反応で十分だ」
反応だけで、そこまで分かるのか。拷問などしていない。暴力もない。ただ観察しているだけだ。それなのに、少年は一つも情報を漏らしていないつもりで、次々と見抜かれていく。
「テラ」
ヴォルフガングがこちらを見る。
「処置を続けろ」
「……」
「命は繋げ」
その一言だけだった。俺は再び傷口へ向き直る。今、この少年の命を守れるのは俺だけだ。
この男は、暴力を振るわない。怒鳴りもしない。それでも、少年の表情は少しずつ強張っていく。俺は初めて理解した。ヴォルフガングは、人の心を追い詰める方法を知っている。




