↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/12

第七話 教えるということ

翌朝。診療室の扉を開けると、ノアは既に中にいた。昨日まで何も置かれていなかった棚には、洗った布が大きさごとに畳まれている。汚れた布を入れる籠も、清潔なものから離れた場所へ移されていた。部屋の隅では、ノアが桶の前に立って手を洗っている。袖を肘まで捲り、掌だけでなく、手の甲や指の間まで丁寧に擦っていた。


「おはようございます、テラ様」

「ああ。おはよう」


水を流し終えたノアが、清潔な布で手を拭く。


「ちゃんと覚えてたんだな」

「はい。患者さんへ触れる前と、触れた後です」


得意げに答える姿を見て、思わず笑みが零れた。


「その調子」

「今日は包帯の巻き方を教えていただけるのですよね?」

「ああ。そのつもりだ」


昨日、一度だけ巻き方を見せた。包帯は傷を覆えばいいというものではない。緩すぎれば外れ、きつすぎれば血流を妨げる。実際に手を動かして覚えてもらおうと、練習用の布を用意していた。


「まず俺の腕に巻いてみるか」

「よろしいのですか?」

「失敗しても痛くない程度にな」


ノアは真剣な顔で包帯を手に取った。布の端を俺の手首へ当てる。


「最初は──」


そこまで言った時だった。廊下から、慌ただしい足音が聞こえた。


「テラ様!」


扉が勢いよく開く。二人の男が、若い男を両脇から支えていた。支えられている男の顔色は悪い。額には汗が浮かび、ほとんど自分の足では立てていなかった。


「どうした?」

「昨夜から何度も吐いております。腹も下しており、今朝になってからは水も飲めず……」

「寝台へ運んでくれ」

「はい!」


ノアがすぐに反応し、寝台の上から余分な布を退かす。男たちと一緒に患者を横たえ、俺は枕元へ回った。年齢は二十代半ばほど。目は開いているものの、焦点が定まっていない。唇は乾き、頬は普段よりも痩けて見える。


「声は聞こえるか?」

「……テラ、様」

「無理に話さなくていい」


手首に指を当てる。脈は速く、弱い。額には汗があるが、手足は少し冷えている。


「吐き始めたのはいつから?」

「昨夜の食事を終えた後です」


 付き添ってきた男が答える。


「何を食べた?」

「パンと肉、それから豆の煮込みを。他の者も同じ物を食べましたが、具合を悪くしたのはこいつだけです」

「熱は?」

「分かりません」


体温計はない。額や身体へ触れた限り、極端な発熱はなさそうだった。


「腹は痛いか?」

「……少し」

「どの辺り?」


患者は力なく腹の中央へ手を置いた。右下腹部へ痛みが集中している様子はない。腹部は硬くなく、触れたことで激しく痛がることもなかった。とはいえ、検査も画像診断もない。嘔吐と下痢の原因を、今ここで特定することはできない。食あたり。感染症。疲労や緊張によるもの。あるいは、俺の知らないこの世界特有の病気。何にせよ、既に脱水が進んでいる。


「最後に水を飲めたのは?」

「夜中に一度。しかし、すぐに吐きました」


付き添いの男の顔には、不安が浮かんでいた。この世界に点滴はない。吐いていて水分を口から取れない患者へ、血管から直接補給する手段がないのだ。今できるのは、飲める量を少しずつ入れていくことだけだった。


「ノア」

「はい」

「桶と清潔な布を。それから、水を持ってきてくれ」

「分かりました」

「待って」


走り出そうとしたノアを呼び止める。


「水だけじゃなく、砂糖と塩も頼む。それから厨房に、酸っぱい果物があれば持ってきて」

「砂糖と、塩……ですか?」

「ああ」


ノアは一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに頷いた。


「取ってきます」


診療室を飛び出していく。


「我々は、何をすれば」


患者を運んできた男たちが尋ねた。


「一人はここに残って、この人がいつ何を食べたか、どれくらい吐いたかを詳しく教えてほしい。もう一人は同じ物を食べた人たちに、似た症状が出ていないか確認してきて」

「承知しました」


一人が部屋を出ていく。もう一人には、昨夜からの経過を聞き取った。吐いた回数は正確には分からない。下痢も何度かあったという。こちらには時計も、排泄量を測る道具もない。患者本人も、昨夜の記憶が曖昧になっている。記録の習慣がなければ、情報は簡単に失われる。それがどれほど危険なことなのか、改めて思い知らされた。


「テラ坊」


いつの間に来たのか、スカーレットが扉の横に立っていた。


「随分と騒がしいのう」

「吐いて、下してる。かなり水分を失ってるみたいだ」

「魔力を与えればよいのではないか?」

「魔力で水分まで戻るのか?」

「知らん」

「知らないのかよ」

「妾は病など罹らんからのう」


胸を張って言う。竜と人間を同じように考えることはできないらしい。


「テラ様!」


ノアが戻ってきた。腕には水差しを抱え、小さな袋と黄色い果物を載せた盆を持っている。


「厨房にあった酸っぱい果物は、これだけでした」


手に取って匂いを嗅ぐ。見た目はレモンより少し丸い。皮を指で擦ると、強い柑橘の香りが広がった。


「十分だ。ありがとう」


ノアが机の上へ水と材料を並べる。


「これで、何を作るのですか?」

「飲み物」

「水があるのにですか?」

「吐いたり下したりすると、身体から水だけじゃなく、塩分も失われるんだ」

「塩分……」

「それを一緒に補う」


大きな器へ清潔な水を注ぐ。問題は、正確な計量器具がないことだった。元の世界なら、水一リットルに対して砂糖と塩の量をきちんと量る。だが、この世界の匙が、俺の知っている小さじと同じ大きさとは限らない。容器の容量も分からない。目分量で作るしかないが、塩を入れすぎれば、かえって身体へ負担を掛ける。


「まず砂糖を入れる」


少量を器へ入れ、よく溶かす。


「甘い方が飲みやすいからですか?」

「それもある。でも、砂糖には水分を身体へ取り込みやすくする働きがある」

「砂糖がですか?」

「ああ。ただ、たくさん入れればいいわけじゃない」


続いて塩を指先で摘まむ。慎重に少量を加え、混ぜる。


「塩はこれだけなのですか?」

「塩味が強くなるほど入れたら駄目だ」

「汗をかいた時には、塩を食べた方がよいと聞いたことがあります」

「必要ではある。でも、多すぎれば毒になる」


ノアの表情が引き締まる。


「身体に必要な物でも、量を間違えれば危険なんですね」

「そういうこと」


そこへ果汁を少しだけ搾る。爽やかな香りが立ち上った。


「果物にも何か働きがあるのですか?」

「これは主に味を飲みやすくするためだ。酸味が強すぎれば、逆に飲みにくくなるから少しだけ」


匙でよく混ぜる。まずは俺が味を確かめた。僅かな甘味。ほんの少しの塩気。後味に柑橘の酸味が残る。市販のスポーツドリンクとは程遠い。それでも、水よりは飲みやすく、今の患者へ与えるものとしては悪くない。


「ノアも味を見てみるか?」

「よろしいのですか?」

「作る側が味を知らないと、次から作れないだろ」


清潔な別の匙を渡す。ノアは一口含み、不思議そうに目を瞬かせた。


「甘いのに、少しだけ塩の味がします」

「塩辛くはない?」

「はい。果物の香りもして、飲みやすいです」

「なら大丈夫そうだ」


患者の枕元へ戻る。ノアと二人で上半身を少し起こし、背中へ丸めた布を挟んだ。


「一度に飲ませると、また吐くかもしれない。最初は少しずつ」

「はい」


匙で飲み物を掬う。


「口を開けられるか?」


患者はゆっくりと口を開き、流し込まれた液体を飲み込んだ。すぐには次を与えない。顔色と表情を見ながら待つ。


「気持ち悪くないか?」

「……大丈夫です」


もう一匙。また、しばらく待つ。焦って飲ませれば、せっかく入ったものを全て吐いてしまうかもしれない。


「喉が渇いているなら、もっと飲ませた方がよいのでは?」


 ノアが小声で尋ねる。


「本人も一度に飲みたいと思う。でも、弱っている時は、少しずつの方が身体へ入っていきやすい」

「我慢していただくことも、必要なのですね」

「そうだな」


患者のためを思うなら、望むことを全てそのまま行えばいいわけではない。時には止めることも必要だ。説明して、納得してもらい、できる方法を一緒に探す。それも看護だった。


「ノア。しばらくこの人の傍にいてくれるか?」

「僕がですか?」

「ああ。少しずつ飲ませながら、吐かないか見ていてほしい」


ノアの顔に緊張が走る。


「僕に、できますか?」

「さっき見せた通りでいい。一匙飲ませたら待つ。気分が悪くないか尋ねる。吐きそうなら、すぐに身体を横へ向けて桶を使う」

「横へ向ける……」

「仰向けのまま吐くと、吐いた物が喉へ詰まることがあるから」


ノアは寝台の横に置いた桶の位置を確認した。


「分かりました」

「それから、飲めた回数と吐いた回数を覚えておいて」

「紙に書いてもよいですか?」

「書けるのか?」

「簡単な文字なら」

「それなら書こう」


机の上から紙を一枚取り、線を引く。


「飲めたらこちらへ印を一つ。吐いたらこちらへ一つ。便が出た場合も別に書く」

「時間は書かなくてもよいのですか?」

「書けるなら、その方がいい」

「鐘が鳴った回数なら分かります」


この屋敷では、決まった時刻に鐘が鳴るらしい。分単位の正確さはないが、何も記録しないよりずっといい。


「それでいこう」


紙を受け取ったノアは、真剣な顔で患者の傍へ座った。


「気持ちが悪くなったら、すぐに教えてください」

「……ああ」

「急がなくて構いません。少しずつ飲みましょう」


優しい声だった。剣を持てなかった十五歳の少年が、今は傷付いた男の背中を支えている。人を傷付けられないことが、この家では欠点とされた。だが、看護において、その優しさは何よりも大切な素質かもしれない。もちろん、優しいだけでは人を救えない。知識も、技術も、判断力も必要になる。それでも、患者の苦しみを想像できなければ、看護は始まらない。


「テラ坊」


スカーレットが俺の顔を覗き込む。


「何だよ」

「気持ちの悪い顔をしておる」

「どういう意味だ」

「親鳥が雛を眺めるような顔じゃ」

「そんな顔してない」

「しておるぞ」


否定しながら、患者を支えるノアを見る。もしかすると、本当に少し嬉しかったのかもしれない。俺がこの世界へ来なければ、ノアは自分の手に価値があると知らないままだった。そして俺も、看護を誰かへ教えることで、自分が積み重ねてきたものの意味を確かめている。俺が過ごしてきた十数年は、無駄ではなかった。そう思いたかった。その後も、診療室には次々と人が訪れた。訓練中に腕を切った男。転んで膝を擦り剥いた使用人。昨日巻いた包帯を交換しに来た暗殺者。患者が来るたび、俺は状態を確認し、傷を洗い、布を当てた。ノアは最初の患者を見ながら、必要な時には新しい布を渡し、水を汲み、汚れた物を分けてくれた。


「ノア、そっちの布を」

「はい」

「これは使用済みだから、清潔な物と一緒にしないように」

「分かりました」

「この包帯、少しきついと思うか?」


腕へ包帯を巻かれた男の指先を、ノアが確認する。


「色は悪くありません。冷たくもないです」

「痺れはありますか?」


患者へ尋ねる。


「いや。問題ない」


ノアがこちらを見る。


「大丈夫そうです」

「ああ。よく見てる」


褒めると、僅かに口元を綻ばせた。昼を知らせる鐘が鳴っても、診療室の人の出入りは途切れなかった。今まで怪我をしても放置していた者たちが、噂を聞いて集まっているのだろう。小さな切り傷。軽い火傷。何日も治らない古傷。重症ではない患者も多い。だが、放置すれば悪化する可能性がある。今のうちに洗い、清潔にし、適切に保護することには意味があった。


「次の方、どうぞ」


声を掛けて立ち上がる。その瞬間、視界の端が暗くなった。


「……あれ」


床が傾いたように感じる。足に力が入らず、身体が前へ倒れかけた。


「テラ様!」


近くにいたノアが慌てて腕を掴む。反対側から、スカーレットが肩を支えた。


「何をしておる!」

「大丈夫。急に立ったから、少し立ちくらみがしただけだ」

「大丈夫な者は、立っただけで倒れかけん」


椅子へ押し戻される。視界はすぐに戻ったが、頭が重い。口の中も乾いている。そういえば、朝食の後から一度も水を飲んでいなかった。昼食も取っていない。


「テラ様」


ノアの声が、先ほどまでより低い。


「何?」

「最後に水を飲まれたのは、いつですか?」

「朝食の時……かな」

「朝から、何も飲まれていないのですか?」

「忙しかったから」

「患者さんには水分を取るようおっしゃるのに?」

「それは……」


ノアは机の上に残っていた飲み物を、新しい器へ注いだ。それを俺の前へ差し出す。


「飲んでください」

「これは患者用に作ったんだけど」

「まだ十分に残っています」

「俺は吐いてもないし、下してもない」

「ですが、倒れかけました」

「倒れてはない」

「僕とスカーレット様が支えなければ、床へ倒れていました」


反論できない。スカーレットが腕を組み、大きく頷く。


「ノアの言う通りじゃ。さっさと飲め」

「二人とも厳しくないか?」

「お主が自分に甘すぎるのじゃ」

「テラ様」


ノアは器を下げようとしない。


「飲んでください」

「……はい」


諦めて受け取る。一口飲むと、柑橘の酸味が乾いた喉へ染み渡った。患者のために味見をした時より、ずっと美味しく感じる。身体が水分を欲していたのだろう。


「もう一口です」

「一度にたくさん飲ませるなって、さっき教えただろ」

「では、少しずつ何度も飲んでください」

「覚えが早いな」

「テラ様に教えていただきましたから」


自分で教えたことを、その日のうちに返されるとは思わなかった。もう一口飲む。ノアはそれを確認してから、ようやく少しだけ表情を緩めた。


「患者へ飲めと言いながら、自分は飲まない」


前の世界でも、何度も繰り返した。患者には水分を取ってくださいと言う。無理をしないでください。眠れる時に休んでください。きちんと食事をしてください。その一方で、自分は水も飲まず、食事を後回しにし、休憩時間にも記録を書いていた。忙しいから。人手が足りないから。同僚へ迷惑を掛けたくないから。理由はいくらでもあった。その結果、俺は病院の廊下で倒れた。患者を助けるはずの看護師が、自分の命を削り続けて死んだ。異世界へ来ても、同じことを繰り返すつもりなのか。


「……耳が痛いな」

「耳が痛いのですか?」


ノアが心配そうにこちらを見る。


「違う。正しいことを言われて、反省してるって意味」

「では、反省してください」

「容赦ないな」

「テラ坊には、そのくらいでちょうどよい」


スカーレットが笑う。俺は器を見下ろした。


「患者を助ける人間が倒れたら、意味がないよな」


誰に向けるでもなく呟く。分かっていたはずのことだ。それなのに、自分のことになると簡単に忘れてしまう。


「ノア」

「はい」

「これからは、俺が水を飲んでなかったら教えてくれ」

「僕がですか?」

「ああ」

「食事もですか?」

「水だけでいい」

「食事も必要です」

「そこまで管理されるのか?」

「患者さんへは、水分と食事と休息が必要だとおっしゃっていました」

「俺は患者じゃない」

「今にも倒れそうな方は、患者ではないのですか?」


難しい顔をして問い返される。スカーレットが堪え切れず、声を上げて笑った。


「見事じゃ、ノア。もっと言ってやれ」

「スカーレットはどっちの味方なんだよ」

「倒れない者の味方じゃ」


俺に味方する気はないらしい。


「分かった。水も食事も、忘れてたら教えてくれ」

「休息もです」

「増えたな」

「必要です」

「……はい」


ノアは満足そうに頷いた。


「看護は、一人ではできない」


昨日、自分で口にした言葉を思い出す。患者一人を支えるにも、多くの人の力が必要になる。ましてや、自分まで全て一人で抱え込もうとすれば、いつか必ず限界が来る。前の世界の俺は、誰かを頼ることができなかった。頼ることを、迷惑を掛けることだと思っていた。だが、倒れてしまえば、もっと多くの迷惑を掛ける。俺が死んだ後、残された同僚たちはどうなったのだろう。俺の担当患者を、誰が引き継いだのだろう。今になって考えても、確かめる方法はない。


「テラ様?」

「何でもない」

「顔色がまだよくありません。もう少し飲んでください」

「ああ」


素直に器を傾ける。ノアはそれを見届けると、最初の患者の元へ戻った。


「気分はいかがですか?」

「先程よりかは……少し楽だ……」

「吐き気は?」

「今は無い」

「では、もう一口だけ飲みましょう」


ノアは患者の身体をゆっくりと起こし、背中を支えた。決して急かさない。患者が飲み込むのを待ち、呼吸が落ち着いてから次の言葉を掛ける。


「無理はしなくて構いません」


まだ、何もできないと言っていた。そんなことはない。患者の表情を見る。苦しくないか尋ねる。傍にいる。それだけでも、立派な看護だ。


「テラ様」


ノアが記録の紙を見せる。


「今までに七匙飲めました。一度も吐いていません」

「便は?」

「最初に一度だけです。その後はありません」

「意識も、さっきよりはっきりしてるな」


呼び掛けに対する反応もよくなっている。まだ安心はできないが、少なくとも悪化はしていない。


「よく見ていてくれたな」

「僕にも、できていますか?」

「ああ」

「人を助けることが?」


朝のノアなら、不安そうに聞いたかもしれない。だが今は、期待を込めた瞳で俺を見ている。


「助けてるよ」


答えると、ノアの顔が明るくなった。


「俺一人だったら、この人を見ながら他の患者の処置はできなかった」

「僕がいたから、ですか?」

「ああ。ノアがいたから助かった」

「僕が、テラ様を助けた……」

「患者も、俺もな」


ノアは自分の両手を見下ろした。かつて剣を握ろうとして、震えたという手。誰かを傷付けられず、役立たずだとされた手。その手が今、患者の身体を支え、飲み物を与え、俺へ器を差し出した。


「この手でも、役に立てるんですね」

「この手だから、できることがある」


ノアは何も言わなかった。ただ、両手を大切そうに握り合わせた。


「……先生」


小さな声が聞こえた。


「今、何て?」


ノアがはっと顔を上げる。


「申し訳ありません。テラ様とお呼びするつもりが」

「先生って、俺のこと?」

「はい。物を教えてくださる方は、先生とお呼びするのかと思って」


前の世界で、新人看護師や実習生からそう呼ばれることはあった。患者から間違えて医師と同じように呼ばれ、慌てて訂正したこともある。そのたびに、どこか落ち着かない気持ちになった。俺は誰かに教えられるほど立派な人間ではない。そう思っていたからだ。実際、自分の体調管理さえできずに倒れた人間だ。


「駄目でしたか?」


ノアが不安そうに尋ねる。


「いや。駄目じゃない」

「では、先生とお呼びしても?」

「テラ様でいいよ」

「そうですか……」


露骨に残念そうな顔をされる。


「たまになら、先生でもいい」

「本当ですか?」

「ああ。ただ、少し恥ずかしいから、たまにな」


ノアは嬉しそうに頷いた。


「ありがとうございます、テラ先生」

「さっそく呼ぶのか」

「たまに、です」

「今がその一回目か」

「はい!」

「では妾もそう呼ぼう」


スカーレットが横から口を挟む。


「お前はやめろ」

「テラ先生、妾にもその飲み物を寄越せ」

「竜は病気にならないんじゃなかったのか?」

「味見をしてやると言っておる」

「さっきノアが味見した」

「妾の方が舌は確かじゃ」

「絶対、甘い物が飲みたいだけだろ」

「早くせぬと、器ごと奪うぞ」


仕方なく、新しい器へ注いで渡す。スカーレットは警戒するように匂いを嗅いだ後、一口飲んだ。


「どう?」

「酸っぱい」

「果汁を入れたからな」

「もう少し砂糖を入れよ」

「塩分と糖分の量には意味があるんだから、勝手に変えるな」

「妾が飲む分だけならよかろう」

「お菓子じゃないんだぞ」

「テラ先生は細かいのう」

「その呼び方やめろ」


ノアが口元を押さえて笑っている。寝台の上の患者も、僅かに頬を緩めた。顔色はまだ悪い。今夜を越えるまで、安心はできない。原因も分からず、できる処置も限られている。それでも、運ばれてきた時より意識ははっきりしている。少しずつだが、水分も飲めている。今はそれでいい。


「ノア」

「はい、テラ先生」

「今日作った飲み物のことを、紙に残しておこう」

「材料と作り方ですか?」

「ああ。ただし、正確に量れる道具がないから、塩を入れすぎないことを必ず書く」

「少し甘くて、ほんの少しだけ塩気がする程度ですね」

「そう。果汁はなくても作れる。飲みやすくするためだから」

「作った物は、いつまで置いておけますか?」

「なるべくその日のうちに使い切る。水が汚れていたり、長く置いて傷んだりしたら、かえって病気になる」

「清潔な水で作ることも必要なのですね」

「一番大事なことの一つだ」


ノアは机へ向かい、教えたことを書き始めた。水。砂糖。塩。酸っぱい果実の汁。一度にたくさん飲ませず、少しずつ与える。吐いた回数や飲めた量を記録する。頼りない文字ではあるが、一つひとつ丁寧に書かれていた。俺がこの世界からいなくなった後も、その紙は残る。ノアが覚えている。いつか、ノアが別の誰かへ教える日が来るかもしれない。看護の知識は、俺一人のものではない。誰かへ渡し、その人がまた次の誰かへ渡す。そうやって積み重なってきたものだ。俺が看護学校で教わったように。病院で先輩たちから教わったように。今度は俺が、この世界へ残していく。


「先生」


紙へ書きながら、ノアが呼ぶ。


「今度は何?」

「僕たちが働く時にも、この飲み物を用意しておいた方がよいでしょうか」

「俺たちの分?」

「はい。患者さんを助ける人が倒れてはいけないのでしょう?」


先ほど俺が口にした言葉を、もう自分の知識にしている。


「ああ。暑い日や、長く働く時にはあった方がいいかもしれない」

「では、明日から作ります」

「待って。砂糖も果物も、勝手に厨房から持ってきたら怒られるだろ」

「旦那様へお願いしてみます」

「あいつ……いや、父上に?」

「テラ様が倒れないために必要だと申し上げます」


それを聞いたヴォルフガングが、どんな顔をするか想像する。きっと眉一つ動かさず、必要なら使えと言うのだろう。あるいは、倒れるような軟弱者に用はないと切り捨てるか。


「俺が自分で話すよ」

「本当ですか?」

「ああ」

「忘れませんか?」

「……覚えておく」

「紙に書きましょうか?」

「そこまで信用がないのか?」

「先ほど、水を飲むことを忘れていました」


反論できない。スカーレットが再び笑い出す。


「よい弟子を持ったのう、テラ先生」

「まだ一日目だよ」

「一日で師を叱れるなら、十分に優秀じゃ」

「否定はしないけど」


ノアは照れ臭そうに笑いながら、紙へ文字を書き足した。

──テラ様は、水を飲むこと。


「それ、飲み物の作り方に必要か?」

「大切なことです」

「別の紙にしてくれ」

「紙がもったいないので」


俺の健康管理まで、看護記録の一部にされてしまったらしい。けれど、不思議と嫌ではなかった。誰かを助けようとする俺を、ノアが支えてくれる。ノアが迷った時には、俺が支える。一人で全てを抱え込まなくていい。前の世界では、最後まで理解できなかったことを、俺はこの世界で教えられている。患者を救うことばかり考えていた。だが、救う側もまた、誰かに救われながら生きている。どうやら俺は、ここでも一人では看護師になれないらしい。それはきっと、悪いことではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。