第七話 教えるということ
翌朝。診療室の扉を開けると、ノアは既に中にいた。昨日まで何も置かれていなかった棚には、洗った布が大きさごとに畳まれている。汚れた布を入れる籠も、清潔なものから離れた場所へ移されていた。部屋の隅では、ノアが桶の前に立って手を洗っている。袖を肘まで捲り、掌だけでなく、手の甲や指の間まで丁寧に擦っていた。
「おはようございます、テラ様」
「ああ。おはよう」
水を流し終えたノアが、清潔な布で手を拭く。
「ちゃんと覚えてたんだな」
「はい。患者さんへ触れる前と、触れた後です」
得意げに答える姿を見て、思わず笑みが零れた。
「その調子」
「今日は包帯の巻き方を教えていただけるのですよね?」
「ああ。そのつもりだ」
昨日、一度だけ巻き方を見せた。包帯は傷を覆えばいいというものではない。緩すぎれば外れ、きつすぎれば血流を妨げる。実際に手を動かして覚えてもらおうと、練習用の布を用意していた。
「まず俺の腕に巻いてみるか」
「よろしいのですか?」
「失敗しても痛くない程度にな」
ノアは真剣な顔で包帯を手に取った。布の端を俺の手首へ当てる。
「最初は──」
そこまで言った時だった。廊下から、慌ただしい足音が聞こえた。
「テラ様!」
扉が勢いよく開く。二人の男が、若い男を両脇から支えていた。支えられている男の顔色は悪い。額には汗が浮かび、ほとんど自分の足では立てていなかった。
「どうした?」
「昨夜から何度も吐いております。腹も下しており、今朝になってからは水も飲めず……」
「寝台へ運んでくれ」
「はい!」
ノアがすぐに反応し、寝台の上から余分な布を退かす。男たちと一緒に患者を横たえ、俺は枕元へ回った。年齢は二十代半ばほど。目は開いているものの、焦点が定まっていない。唇は乾き、頬は普段よりも痩けて見える。
「声は聞こえるか?」
「……テラ、様」
「無理に話さなくていい」
手首に指を当てる。脈は速く、弱い。額には汗があるが、手足は少し冷えている。
「吐き始めたのはいつから?」
「昨夜の食事を終えた後です」
付き添ってきた男が答える。
「何を食べた?」
「パンと肉、それから豆の煮込みを。他の者も同じ物を食べましたが、具合を悪くしたのはこいつだけです」
「熱は?」
「分かりません」
体温計はない。額や身体へ触れた限り、極端な発熱はなさそうだった。
「腹は痛いか?」
「……少し」
「どの辺り?」
患者は力なく腹の中央へ手を置いた。右下腹部へ痛みが集中している様子はない。腹部は硬くなく、触れたことで激しく痛がることもなかった。とはいえ、検査も画像診断もない。嘔吐と下痢の原因を、今ここで特定することはできない。食あたり。感染症。疲労や緊張によるもの。あるいは、俺の知らないこの世界特有の病気。何にせよ、既に脱水が進んでいる。
「最後に水を飲めたのは?」
「夜中に一度。しかし、すぐに吐きました」
付き添いの男の顔には、不安が浮かんでいた。この世界に点滴はない。吐いていて水分を口から取れない患者へ、血管から直接補給する手段がないのだ。今できるのは、飲める量を少しずつ入れていくことだけだった。
「ノア」
「はい」
「桶と清潔な布を。それから、水を持ってきてくれ」
「分かりました」
「待って」
走り出そうとしたノアを呼び止める。
「水だけじゃなく、砂糖と塩も頼む。それから厨房に、酸っぱい果物があれば持ってきて」
「砂糖と、塩……ですか?」
「ああ」
ノアは一瞬不思議そうな顔をしたものの、すぐに頷いた。
「取ってきます」
診療室を飛び出していく。
「我々は、何をすれば」
患者を運んできた男たちが尋ねた。
「一人はここに残って、この人がいつ何を食べたか、どれくらい吐いたかを詳しく教えてほしい。もう一人は同じ物を食べた人たちに、似た症状が出ていないか確認してきて」
「承知しました」
一人が部屋を出ていく。もう一人には、昨夜からの経過を聞き取った。吐いた回数は正確には分からない。下痢も何度かあったという。こちらには時計も、排泄量を測る道具もない。患者本人も、昨夜の記憶が曖昧になっている。記録の習慣がなければ、情報は簡単に失われる。それがどれほど危険なことなのか、改めて思い知らされた。
「テラ坊」
いつの間に来たのか、スカーレットが扉の横に立っていた。
「随分と騒がしいのう」
「吐いて、下してる。かなり水分を失ってるみたいだ」
「魔力を与えればよいのではないか?」
「魔力で水分まで戻るのか?」
「知らん」
「知らないのかよ」
「妾は病など罹らんからのう」
胸を張って言う。竜と人間を同じように考えることはできないらしい。
「テラ様!」
ノアが戻ってきた。腕には水差しを抱え、小さな袋と黄色い果物を載せた盆を持っている。
「厨房にあった酸っぱい果物は、これだけでした」
手に取って匂いを嗅ぐ。見た目はレモンより少し丸い。皮を指で擦ると、強い柑橘の香りが広がった。
「十分だ。ありがとう」
ノアが机の上へ水と材料を並べる。
「これで、何を作るのですか?」
「飲み物」
「水があるのにですか?」
「吐いたり下したりすると、身体から水だけじゃなく、塩分も失われるんだ」
「塩分……」
「それを一緒に補う」
大きな器へ清潔な水を注ぐ。問題は、正確な計量器具がないことだった。元の世界なら、水一リットルに対して砂糖と塩の量をきちんと量る。だが、この世界の匙が、俺の知っている小さじと同じ大きさとは限らない。容器の容量も分からない。目分量で作るしかないが、塩を入れすぎれば、かえって身体へ負担を掛ける。
「まず砂糖を入れる」
少量を器へ入れ、よく溶かす。
「甘い方が飲みやすいからですか?」
「それもある。でも、砂糖には水分を身体へ取り込みやすくする働きがある」
「砂糖がですか?」
「ああ。ただ、たくさん入れればいいわけじゃない」
続いて塩を指先で摘まむ。慎重に少量を加え、混ぜる。
「塩はこれだけなのですか?」
「塩味が強くなるほど入れたら駄目だ」
「汗をかいた時には、塩を食べた方がよいと聞いたことがあります」
「必要ではある。でも、多すぎれば毒になる」
ノアの表情が引き締まる。
「身体に必要な物でも、量を間違えれば危険なんですね」
「そういうこと」
そこへ果汁を少しだけ搾る。爽やかな香りが立ち上った。
「果物にも何か働きがあるのですか?」
「これは主に味を飲みやすくするためだ。酸味が強すぎれば、逆に飲みにくくなるから少しだけ」
匙でよく混ぜる。まずは俺が味を確かめた。僅かな甘味。ほんの少しの塩気。後味に柑橘の酸味が残る。市販のスポーツドリンクとは程遠い。それでも、水よりは飲みやすく、今の患者へ与えるものとしては悪くない。
「ノアも味を見てみるか?」
「よろしいのですか?」
「作る側が味を知らないと、次から作れないだろ」
清潔な別の匙を渡す。ノアは一口含み、不思議そうに目を瞬かせた。
「甘いのに、少しだけ塩の味がします」
「塩辛くはない?」
「はい。果物の香りもして、飲みやすいです」
「なら大丈夫そうだ」
患者の枕元へ戻る。ノアと二人で上半身を少し起こし、背中へ丸めた布を挟んだ。
「一度に飲ませると、また吐くかもしれない。最初は少しずつ」
「はい」
匙で飲み物を掬う。
「口を開けられるか?」
患者はゆっくりと口を開き、流し込まれた液体を飲み込んだ。すぐには次を与えない。顔色と表情を見ながら待つ。
「気持ち悪くないか?」
「……大丈夫です」
もう一匙。また、しばらく待つ。焦って飲ませれば、せっかく入ったものを全て吐いてしまうかもしれない。
「喉が渇いているなら、もっと飲ませた方がよいのでは?」
ノアが小声で尋ねる。
「本人も一度に飲みたいと思う。でも、弱っている時は、少しずつの方が身体へ入っていきやすい」
「我慢していただくことも、必要なのですね」
「そうだな」
患者のためを思うなら、望むことを全てそのまま行えばいいわけではない。時には止めることも必要だ。説明して、納得してもらい、できる方法を一緒に探す。それも看護だった。
「ノア。しばらくこの人の傍にいてくれるか?」
「僕がですか?」
「ああ。少しずつ飲ませながら、吐かないか見ていてほしい」
ノアの顔に緊張が走る。
「僕に、できますか?」
「さっき見せた通りでいい。一匙飲ませたら待つ。気分が悪くないか尋ねる。吐きそうなら、すぐに身体を横へ向けて桶を使う」
「横へ向ける……」
「仰向けのまま吐くと、吐いた物が喉へ詰まることがあるから」
ノアは寝台の横に置いた桶の位置を確認した。
「分かりました」
「それから、飲めた回数と吐いた回数を覚えておいて」
「紙に書いてもよいですか?」
「書けるのか?」
「簡単な文字なら」
「それなら書こう」
机の上から紙を一枚取り、線を引く。
「飲めたらこちらへ印を一つ。吐いたらこちらへ一つ。便が出た場合も別に書く」
「時間は書かなくてもよいのですか?」
「書けるなら、その方がいい」
「鐘が鳴った回数なら分かります」
この屋敷では、決まった時刻に鐘が鳴るらしい。分単位の正確さはないが、何も記録しないよりずっといい。
「それでいこう」
紙を受け取ったノアは、真剣な顔で患者の傍へ座った。
「気持ちが悪くなったら、すぐに教えてください」
「……ああ」
「急がなくて構いません。少しずつ飲みましょう」
優しい声だった。剣を持てなかった十五歳の少年が、今は傷付いた男の背中を支えている。人を傷付けられないことが、この家では欠点とされた。だが、看護において、その優しさは何よりも大切な素質かもしれない。もちろん、優しいだけでは人を救えない。知識も、技術も、判断力も必要になる。それでも、患者の苦しみを想像できなければ、看護は始まらない。
「テラ坊」
スカーレットが俺の顔を覗き込む。
「何だよ」
「気持ちの悪い顔をしておる」
「どういう意味だ」
「親鳥が雛を眺めるような顔じゃ」
「そんな顔してない」
「しておるぞ」
否定しながら、患者を支えるノアを見る。もしかすると、本当に少し嬉しかったのかもしれない。俺がこの世界へ来なければ、ノアは自分の手に価値があると知らないままだった。そして俺も、看護を誰かへ教えることで、自分が積み重ねてきたものの意味を確かめている。俺が過ごしてきた十数年は、無駄ではなかった。そう思いたかった。その後も、診療室には次々と人が訪れた。訓練中に腕を切った男。転んで膝を擦り剥いた使用人。昨日巻いた包帯を交換しに来た暗殺者。患者が来るたび、俺は状態を確認し、傷を洗い、布を当てた。ノアは最初の患者を見ながら、必要な時には新しい布を渡し、水を汲み、汚れた物を分けてくれた。
「ノア、そっちの布を」
「はい」
「これは使用済みだから、清潔な物と一緒にしないように」
「分かりました」
「この包帯、少しきついと思うか?」
腕へ包帯を巻かれた男の指先を、ノアが確認する。
「色は悪くありません。冷たくもないです」
「痺れはありますか?」
患者へ尋ねる。
「いや。問題ない」
ノアがこちらを見る。
「大丈夫そうです」
「ああ。よく見てる」
褒めると、僅かに口元を綻ばせた。昼を知らせる鐘が鳴っても、診療室の人の出入りは途切れなかった。今まで怪我をしても放置していた者たちが、噂を聞いて集まっているのだろう。小さな切り傷。軽い火傷。何日も治らない古傷。重症ではない患者も多い。だが、放置すれば悪化する可能性がある。今のうちに洗い、清潔にし、適切に保護することには意味があった。
「次の方、どうぞ」
声を掛けて立ち上がる。その瞬間、視界の端が暗くなった。
「……あれ」
床が傾いたように感じる。足に力が入らず、身体が前へ倒れかけた。
「テラ様!」
近くにいたノアが慌てて腕を掴む。反対側から、スカーレットが肩を支えた。
「何をしておる!」
「大丈夫。急に立ったから、少し立ちくらみがしただけだ」
「大丈夫な者は、立っただけで倒れかけん」
椅子へ押し戻される。視界はすぐに戻ったが、頭が重い。口の中も乾いている。そういえば、朝食の後から一度も水を飲んでいなかった。昼食も取っていない。
「テラ様」
ノアの声が、先ほどまでより低い。
「何?」
「最後に水を飲まれたのは、いつですか?」
「朝食の時……かな」
「朝から、何も飲まれていないのですか?」
「忙しかったから」
「患者さんには水分を取るようおっしゃるのに?」
「それは……」
ノアは机の上に残っていた飲み物を、新しい器へ注いだ。それを俺の前へ差し出す。
「飲んでください」
「これは患者用に作ったんだけど」
「まだ十分に残っています」
「俺は吐いてもないし、下してもない」
「ですが、倒れかけました」
「倒れてはない」
「僕とスカーレット様が支えなければ、床へ倒れていました」
反論できない。スカーレットが腕を組み、大きく頷く。
「ノアの言う通りじゃ。さっさと飲め」
「二人とも厳しくないか?」
「お主が自分に甘すぎるのじゃ」
「テラ様」
ノアは器を下げようとしない。
「飲んでください」
「……はい」
諦めて受け取る。一口飲むと、柑橘の酸味が乾いた喉へ染み渡った。患者のために味見をした時より、ずっと美味しく感じる。身体が水分を欲していたのだろう。
「もう一口です」
「一度にたくさん飲ませるなって、さっき教えただろ」
「では、少しずつ何度も飲んでください」
「覚えが早いな」
「テラ様に教えていただきましたから」
自分で教えたことを、その日のうちに返されるとは思わなかった。もう一口飲む。ノアはそれを確認してから、ようやく少しだけ表情を緩めた。
「患者へ飲めと言いながら、自分は飲まない」
前の世界でも、何度も繰り返した。患者には水分を取ってくださいと言う。無理をしないでください。眠れる時に休んでください。きちんと食事をしてください。その一方で、自分は水も飲まず、食事を後回しにし、休憩時間にも記録を書いていた。忙しいから。人手が足りないから。同僚へ迷惑を掛けたくないから。理由はいくらでもあった。その結果、俺は病院の廊下で倒れた。患者を助けるはずの看護師が、自分の命を削り続けて死んだ。異世界へ来ても、同じことを繰り返すつもりなのか。
「……耳が痛いな」
「耳が痛いのですか?」
ノアが心配そうにこちらを見る。
「違う。正しいことを言われて、反省してるって意味」
「では、反省してください」
「容赦ないな」
「テラ坊には、そのくらいでちょうどよい」
スカーレットが笑う。俺は器を見下ろした。
「患者を助ける人間が倒れたら、意味がないよな」
誰に向けるでもなく呟く。分かっていたはずのことだ。それなのに、自分のことになると簡単に忘れてしまう。
「ノア」
「はい」
「これからは、俺が水を飲んでなかったら教えてくれ」
「僕がですか?」
「ああ」
「食事もですか?」
「水だけでいい」
「食事も必要です」
「そこまで管理されるのか?」
「患者さんへは、水分と食事と休息が必要だとおっしゃっていました」
「俺は患者じゃない」
「今にも倒れそうな方は、患者ではないのですか?」
難しい顔をして問い返される。スカーレットが堪え切れず、声を上げて笑った。
「見事じゃ、ノア。もっと言ってやれ」
「スカーレットはどっちの味方なんだよ」
「倒れない者の味方じゃ」
俺に味方する気はないらしい。
「分かった。水も食事も、忘れてたら教えてくれ」
「休息もです」
「増えたな」
「必要です」
「……はい」
ノアは満足そうに頷いた。
「看護は、一人ではできない」
昨日、自分で口にした言葉を思い出す。患者一人を支えるにも、多くの人の力が必要になる。ましてや、自分まで全て一人で抱え込もうとすれば、いつか必ず限界が来る。前の世界の俺は、誰かを頼ることができなかった。頼ることを、迷惑を掛けることだと思っていた。だが、倒れてしまえば、もっと多くの迷惑を掛ける。俺が死んだ後、残された同僚たちはどうなったのだろう。俺の担当患者を、誰が引き継いだのだろう。今になって考えても、確かめる方法はない。
「テラ様?」
「何でもない」
「顔色がまだよくありません。もう少し飲んでください」
「ああ」
素直に器を傾ける。ノアはそれを見届けると、最初の患者の元へ戻った。
「気分はいかがですか?」
「先程よりかは……少し楽だ……」
「吐き気は?」
「今は無い」
「では、もう一口だけ飲みましょう」
ノアは患者の身体をゆっくりと起こし、背中を支えた。決して急かさない。患者が飲み込むのを待ち、呼吸が落ち着いてから次の言葉を掛ける。
「無理はしなくて構いません」
まだ、何もできないと言っていた。そんなことはない。患者の表情を見る。苦しくないか尋ねる。傍にいる。それだけでも、立派な看護だ。
「テラ様」
ノアが記録の紙を見せる。
「今までに七匙飲めました。一度も吐いていません」
「便は?」
「最初に一度だけです。その後はありません」
「意識も、さっきよりはっきりしてるな」
呼び掛けに対する反応もよくなっている。まだ安心はできないが、少なくとも悪化はしていない。
「よく見ていてくれたな」
「僕にも、できていますか?」
「ああ」
「人を助けることが?」
朝のノアなら、不安そうに聞いたかもしれない。だが今は、期待を込めた瞳で俺を見ている。
「助けてるよ」
答えると、ノアの顔が明るくなった。
「俺一人だったら、この人を見ながら他の患者の処置はできなかった」
「僕がいたから、ですか?」
「ああ。ノアがいたから助かった」
「僕が、テラ様を助けた……」
「患者も、俺もな」
ノアは自分の両手を見下ろした。かつて剣を握ろうとして、震えたという手。誰かを傷付けられず、役立たずだとされた手。その手が今、患者の身体を支え、飲み物を与え、俺へ器を差し出した。
「この手でも、役に立てるんですね」
「この手だから、できることがある」
ノアは何も言わなかった。ただ、両手を大切そうに握り合わせた。
「……先生」
小さな声が聞こえた。
「今、何て?」
ノアがはっと顔を上げる。
「申し訳ありません。テラ様とお呼びするつもりが」
「先生って、俺のこと?」
「はい。物を教えてくださる方は、先生とお呼びするのかと思って」
前の世界で、新人看護師や実習生からそう呼ばれることはあった。患者から間違えて医師と同じように呼ばれ、慌てて訂正したこともある。そのたびに、どこか落ち着かない気持ちになった。俺は誰かに教えられるほど立派な人間ではない。そう思っていたからだ。実際、自分の体調管理さえできずに倒れた人間だ。
「駄目でしたか?」
ノアが不安そうに尋ねる。
「いや。駄目じゃない」
「では、先生とお呼びしても?」
「テラ様でいいよ」
「そうですか……」
露骨に残念そうな顔をされる。
「たまになら、先生でもいい」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、少し恥ずかしいから、たまにな」
ノアは嬉しそうに頷いた。
「ありがとうございます、テラ先生」
「さっそく呼ぶのか」
「たまに、です」
「今がその一回目か」
「はい!」
「では妾もそう呼ぼう」
スカーレットが横から口を挟む。
「お前はやめろ」
「テラ先生、妾にもその飲み物を寄越せ」
「竜は病気にならないんじゃなかったのか?」
「味見をしてやると言っておる」
「さっきノアが味見した」
「妾の方が舌は確かじゃ」
「絶対、甘い物が飲みたいだけだろ」
「早くせぬと、器ごと奪うぞ」
仕方なく、新しい器へ注いで渡す。スカーレットは警戒するように匂いを嗅いだ後、一口飲んだ。
「どう?」
「酸っぱい」
「果汁を入れたからな」
「もう少し砂糖を入れよ」
「塩分と糖分の量には意味があるんだから、勝手に変えるな」
「妾が飲む分だけならよかろう」
「お菓子じゃないんだぞ」
「テラ先生は細かいのう」
「その呼び方やめろ」
ノアが口元を押さえて笑っている。寝台の上の患者も、僅かに頬を緩めた。顔色はまだ悪い。今夜を越えるまで、安心はできない。原因も分からず、できる処置も限られている。それでも、運ばれてきた時より意識ははっきりしている。少しずつだが、水分も飲めている。今はそれでいい。
「ノア」
「はい、テラ先生」
「今日作った飲み物のことを、紙に残しておこう」
「材料と作り方ですか?」
「ああ。ただし、正確に量れる道具がないから、塩を入れすぎないことを必ず書く」
「少し甘くて、ほんの少しだけ塩気がする程度ですね」
「そう。果汁はなくても作れる。飲みやすくするためだから」
「作った物は、いつまで置いておけますか?」
「なるべくその日のうちに使い切る。水が汚れていたり、長く置いて傷んだりしたら、かえって病気になる」
「清潔な水で作ることも必要なのですね」
「一番大事なことの一つだ」
ノアは机へ向かい、教えたことを書き始めた。水。砂糖。塩。酸っぱい果実の汁。一度にたくさん飲ませず、少しずつ与える。吐いた回数や飲めた量を記録する。頼りない文字ではあるが、一つひとつ丁寧に書かれていた。俺がこの世界からいなくなった後も、その紙は残る。ノアが覚えている。いつか、ノアが別の誰かへ教える日が来るかもしれない。看護の知識は、俺一人のものではない。誰かへ渡し、その人がまた次の誰かへ渡す。そうやって積み重なってきたものだ。俺が看護学校で教わったように。病院で先輩たちから教わったように。今度は俺が、この世界へ残していく。
「先生」
紙へ書きながら、ノアが呼ぶ。
「今度は何?」
「僕たちが働く時にも、この飲み物を用意しておいた方がよいでしょうか」
「俺たちの分?」
「はい。患者さんを助ける人が倒れてはいけないのでしょう?」
先ほど俺が口にした言葉を、もう自分の知識にしている。
「ああ。暑い日や、長く働く時にはあった方がいいかもしれない」
「では、明日から作ります」
「待って。砂糖も果物も、勝手に厨房から持ってきたら怒られるだろ」
「旦那様へお願いしてみます」
「あいつ……いや、父上に?」
「テラ様が倒れないために必要だと申し上げます」
それを聞いたヴォルフガングが、どんな顔をするか想像する。きっと眉一つ動かさず、必要なら使えと言うのだろう。あるいは、倒れるような軟弱者に用はないと切り捨てるか。
「俺が自分で話すよ」
「本当ですか?」
「ああ」
「忘れませんか?」
「……覚えておく」
「紙に書きましょうか?」
「そこまで信用がないのか?」
「先ほど、水を飲むことを忘れていました」
反論できない。スカーレットが再び笑い出す。
「よい弟子を持ったのう、テラ先生」
「まだ一日目だよ」
「一日で師を叱れるなら、十分に優秀じゃ」
「否定はしないけど」
ノアは照れ臭そうに笑いながら、紙へ文字を書き足した。
──テラ様は、水を飲むこと。
「それ、飲み物の作り方に必要か?」
「大切なことです」
「別の紙にしてくれ」
「紙がもったいないので」
俺の健康管理まで、看護記録の一部にされてしまったらしい。けれど、不思議と嫌ではなかった。誰かを助けようとする俺を、ノアが支えてくれる。ノアが迷った時には、俺が支える。一人で全てを抱え込まなくていい。前の世界では、最後まで理解できなかったことを、俺はこの世界で教えられている。患者を救うことばかり考えていた。だが、救う側もまた、誰かに救われながら生きている。どうやら俺は、ここでも一人では看護師になれないらしい。それはきっと、悪いことではなかった。




