第六話 患者
翌朝。食事を終えたところで、昨日も顔を合わせた使用人が部屋を訪ねてきた。
「テラ様。旦那様より、こちらへ案内するよう申し付かっております」
「案内?」
「負傷者を診るためのお部屋です」
昨日のヴォルフガングの言葉を思い出す。
『負傷者は全て、お前が診ろ』
どうやら、あれは冗談でも気まぐれでもなかったらしい。
「分かった。すぐ行く」
立ち上がると、窓辺で果物を齧っていたスカーレットも腰を上げた。
「妾も行くぞ」
「ついてくるのか?」
「お主一人では、また何をしでかすか分からんからのう」
「昨日、助けたのは俺なんだけど」
「そうじゃったか?」
スカーレットは悪びれる様子もなく、残っていた果物を口へ放り込んだ。使用人の後に続き、長い廊下を歩く。相変わらず、屋敷の中は静かだった。すれ違う使用人たちは足音を立てない。俺の姿を見ると立ち止まり、深く頭を下げる。その視線が、昨日までとは少し違っている気がした。恐れているような。探るような。あるいは、期待しているような。屋敷中で俺の話が広まっているというのは、本当らしい。階段を下り、屋敷の奥へ進んでいく。やがて使用人が、一枚の扉の前で足を止めた。
「こちらでございます」
扉を開ける。中を見た瞬間、思わず黙り込んだ。それなりに広い部屋だった。窓が一つ。壁際に簡素な寝台が二つ。中央には大きな机と椅子。桶と水差し、それから何枚かの布が置かれている。部屋の隅には古い棚もあったが、中には何も入っていなかった。
「……これだけ?」
「旦那様からは、必要な物があれば用意するようにと」
使用人が答える。必要な物。そう言われても、この世界に何があるのかすら分からない。消毒液もない。滅菌されたガーゼもない。血圧計も、体温計も、聴診器もない。病院で当たり前に使っていた物が、ここには何一つ存在しない。あるのは水と布。そして、自分の手だけだった。
「診察室にも、処置室にも程遠いな……」
「しんさつしつ?」
隣にいたスカーレットが首を傾げる。
「俺の世界で、患者を診るために使ってた部屋のこと」
「ここでは足りんのか?」
「足りない」
即答すると、スカーレットは眉を上げた。
「随分と贅沢じゃな」
「人の命を預かる場所なんだ。贅沢なくらいで丁度いい」
俺は窓を開けた。冷たい風が部屋へ入り、淀んでいた空気が流れ出していく。次に机の上へ指を滑らせる。うっすらと埃が付いた。
「まず掃除だな」
「今からか?」
「あぁ」
「患者とやらが来るのではないか?」
「だから掃除するんだよ」
傷口を扱う部屋が汚れていていいはずがない。使用人に頼み、綺麗な布と水を追加で用意してもらう。棚を拭き、机を拭き、寝台の周りも掃除する。俺が自分で動き始めると、使用人はひどく慌てた。
「テ、テラ様! そのようなことは我々が!」
「じゃあ一緒にやってくれ」
「一緒に……?」
「俺一人じゃ時間が掛かる」
使用人は戸惑いながらも頷いた。その横で、スカーレットは壁へ寄り掛かり、面白そうにこちらを眺めている。
「見てないで手伝えよ」
「妾は竜じゃぞ」
「竜は掃除できないのか?」
「出来るが、せん」
「役に立たないな」
「今、妾に向かって何と言った?」
そんなやり取りをしているうちに、部屋は少しずつ人を迎えられる状態になった。完璧とは言えない。それでも、さっきよりはずっといい。最後に手を洗おうとして、水差しへ手を伸ばす。そこで気付いた。
「石鹸は?」
「せっけん?」
使用人が聞き返す。
「身体を洗う時に使う物。泡が立つやつ」
「ございますが……お持ちいたしますか?」
「頼む。これからはこの部屋に常に置いておいてほしい」
使用人は不思議そうな顔をしながら、部屋を出ていった。
「手まで洗うのか」
スカーレットが言う。
「当たり前だろ」
「お主の手は汚れておらんぞ」
「目に見えなくても汚れてるんだよ」
昨日と同じ説明だ。この世界には、目に見えない病原体という考え方がない。どこまで理解してもらえるかは分からない。それでも、俺が守れることは守らなければならない。しばらくすると、石鹸が運ばれてきた。香草の匂いがする、少し柔らかい石鹸だった。水で手を濡らし、丁寧に洗う。掌。手の甲。指の間。爪の周り。病院で何度繰り返したか分からない動作。異世界へ来てから初めて、自分が元いた場所と繋がったような感覚がした。
「随分と念入りじゃな」
「これくらいやらないと意味がない」
「妾には、ただ手を擦っておるようにしか見えん」
「それでいいんだよ」
その時、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
昨日、肩を斬られていた男が入ってくる。今日は一人ではなかった。その後ろには、二人の男が立っている。一人は額に布を巻き、もう一人は右足を引きずっていた。
「……もう来たのか」
思ったより早い。いや。昨日のヴォルフガングの命令は、既に屋敷中へ伝わっているのだろう。
「まず、昨日の傷を診せてくれ」
肩を負傷した男を寝台へ座らせる。
「昨夜は眠れた?」
「はい」
「痛みは?」
「昨日と変わりません」
「熱っぽさや寒気は?」
「ありません」
男の額に手を当てる。極端に熱い感じはしない。もちろん、体温計がなければ正確な体温は分からない。それでも、観察することは出来る。顔色。呼吸。発汗。受け答え。患者の身体は、言葉以外にも色々なことを教えてくれる。
「包帯を外すぞ」
「はい」
昨日巻いた布をゆっくりと解いていく。出血は止まっていた。傷の周囲に強い腫れもない。膿も出ていない。ひとまず、経過は悪くなさそうだ。
「痛むと思うけど、腕を少し動かしてみて」
男がゆっくりと腕を持ち上げる。途中で顔をしかめた。
「そこまででいい。無理に動かすな」
「使えるようになりますか?」
その声には、不安が滲んでいた。この男にとって、腕が動かなくなることは仕事を失うことと同じなのだろう。暗殺者として生きてきた人間が、暗殺者でなくなった時に何が残るのか。俺にはまだ分からない。
「今の段階では何とも言えない。でも、傷は悪くなってない」
「そうですか……」
「毎日様子を見よう。痛みが強くなったり、熱が出たり、傷から変な汁が出たらすぐに来てくれ」
男は真剣な表情で頷いた。傷を微温湯で洗い、新しい布を当てる。その間。扉の隙間から、誰かの視線を感じた。一瞬だけ顔を上げる。小さな影が、慌てて扉の向こうへ隠れた。子ども……か?
「どうかされましたか?」
男に聞かれ、首を横に振る。
「いや。何でもない」
包帯を巻き終え、次の患者を呼ぶ。額に布を巻いた男は、訓練中に頭をぶつけたらしい。意識を失ったか。吐き気はないか。頭痛は強くなっていないか。手足の動きに違和感はないか。質問を重ねる度に、男は戸惑ったような表情を浮かべた。
「傷を見なくてよいのですか?」
「傷も見る。でも、頭を打った時は他にも確認しなきゃいけないことがあるんだ」
布を外すと、額に浅い裂傷があった。出血はほとんど止まっている。だが、頭部外傷は見た目だけで判断出来ない。
「今日は一人にならないでくれ」
「何故です?」
「急に意識を失う可能性がある。誰かに近くにいてもらって、様子がおかしくなったらすぐに知らせてほしい」
男の表情が僅かに強張った。
「私は死ぬのですか」
「そう決まったわけじゃない」
しまった。不安を煽りすぎたかもしれない。言葉を選ぶ。
「今のところ、受け答えもしっかりしてるし、手足も動いてる。ただ、頭を打った時は後から症状が出ることもある。念のためだ」
「念のため……」
「怖がらせたいわけじゃない。変化に早く気付くためだよ」
男はゆっくりと頷いた。傷を洗い、新しい布を当てる。次は、右足を引きずっていた男だ。足首が大きく腫れている。木の板を当て、布で強く巻かれていたが、足先の色が悪い。
「これ、誰が巻いた?」
「自分で」
「いつ?」
「三日前です」
三日間、このまま?慌てて布を解く。締め付けられていた部分に深い跡が付いていた。足先へ触れると冷たい。
「感覚は?」
「少し痺れています」
「少しどころじゃないだろ……!」
思わず声が強くなる。男が身体を固くした。
「あ……悪い。怒ってるわけじゃない」
深く息を吐く。この屋敷では、声を荒らげること自体が命令や罰に繋がるのかもしれない。俺の言葉一つで、相手を余計に怯えさせる。そこまで考えなければならない。
「締め付け過ぎて、血が通いにくくなってたんだ」
「血が?」
「あぁ。このまま放っておいたら、足が使えなくなってたかもしれない」
男の顔から血の気が引く。布を外してしばらくすると、足先の色が少しずつ戻ってきた。温度も僅かに上がってくる。ほっと息を吐く。
「骨が折れている可能性もある。俺には断定出来ない」
本当なら画像検査が必要だ。俺は看護師であって、医師ではない。出来ないことを出来るとは言えない。
「しばらく足を着かないでくれ。固定はやり直す」
木の板へ布を巻き、直接肌へ当たり過ぎないようにする。足首が動かないよう固定するが、締め付け過ぎない。足先の色と温度を何度も確認する。
「痺れは?」
「少し楽になりました」
「痛みが強くなったり、足先が冷たくなったらすぐに外して来てくれ」
男が頷く。処置を終えた頃には、額に汗が滲んでいた。患者は三人だけ。それなのに、使える道具が少ないせいか、いつも以上に神経を使う。
「随分と真剣じゃのう」
スカーレットが呑気に言う。
「命が掛かってるからな」
「この程度の傷で死ぬ者など、珍しくもないぞ」
「だから死なせないようにするんだろ」
俺が答えると、スカーレットは一瞬だけ目を細めた。何かを言いかけたようだったが、結局何も言わなかった。
「次の方をお呼びしてもよろしいでしょうか」
使用人が尋ねる。
「まだいるのか?」
「はい。廊下でお待ちです」
扉の外を覗く。そこには、想像していたより多くの人間が並んでいた。腕に布を巻いた者。顔に痣を作った者。咳き込んでいる者。暗殺者だけではない。使用人の姿もあった。中には、まだ幼い少女までいる。昨日まで、この人たちは怪我や病気をどうしていたのだろう。自然に治るのを待つ。治らなければ、それまで。この家では、きっとそれが当たり前だった。
「……全員診る」
「しかし、テラ様。お身体が」
「大丈夫」
本当は、大丈夫かどうかなんて分からない。この身体にもまだ慣れていない。昨日の疲労も残っている。それでも、廊下に並ぶ人たちを帰すことは出来なかった。
「順番に一人ずつ入れてくれ」
それから、何人の患者を診たのか分からない。切り傷打撲。火傷。咳。腹痛。腰痛。出来る処置は限られていた。薬の知識も、この世界の病気の知識もない。俺に出来るのは、話を聞き、身体を観察し、傷を洗い、清潔な布を当てることくらいだった。それでも。一人ひとりに触れ、声を掛ける度に、強張っていた表情が少しだけ緩んでいく。
「痛かったな」
そう言うだけで、目を伏せる者がいた。
「よく我慢したな」
そう言うと、泣き出す子どももいた。誰も、そんな言葉を掛けられたことがないのかもしれない。この屋敷では、痛みを訴えることは弱さと同じなのだろう。弱い者は必要とされない。だから皆、傷を隠す。苦しみを隠す。立てなくなるまで、耐え続ける。それは、かつての俺も同じだった。疲れていても働いた。眠れなくても働いた。身体が限界だと分かっていたのに、誰かが待っているからと走り続けた。そして、倒れた。
「……馬鹿だな」
小さく呟く。患者が不思議そうにこちらを見る。
「何でもない」
自分に言ったのか。目の前の人たちに言ったのか。俺にも分からなかった。
「テラ坊」
スカーレットが声を掛ける。
「何?」
「昼を過ぎておるぞ」
窓を見る。朝には高かった光が、いつの間にか傾き始めていた。
「嘘だろ」
「本当じゃ。お主、朝から水すら飲んでおらんぞ」
言われて初めて、喉が渇いていることに気付く。空腹も感じていた。仕事に集中すると、周りが見えなくなる。前の世界でも何度もあった。
「少し休む」
「少しではなく、ちゃんと休め」
「患者が待ってる」
「お主が倒れたら誰が診る」
返す言葉がなかった。過労で倒れた人間にとって、あまりにも耳が痛い。
「……分かったよ」
椅子へ腰を下ろし、水を飲む。身体へ染み込んでいくようだった。その時。また扉の隙間から視線を感じた。今度は、はっきり見えた。薄い茶色の髪。大きな灰色の瞳。十五歳くらいの少年が、こちらを覗いている。目が合った瞬間、少年は慌てて顔を引っ込めた。
「そこにいるのは誰だ?」
返事はない。
「怒らないから、入っておいで」
しばらく待つ。やがて扉がゆっくりと開いた。痩せた少年が、おずおずと部屋へ入ってくる。簡素な服を着て、腕には洗い終えた布を抱えていた。少年は俺の前まで来ると、勢いよく頭を下げた。
「申し訳ございません!」
「何が?」
「勝手に覗き見てしまいました」
「ずっと見てたのか?」
少年の肩が跳ねる。
「……はい」
「どうして?」
「それは……」
少年は抱えた布を強く握り締める。
「珍しかったので」
「何が?」
「傷を負った者に、あのように声を掛ける方を初めて見ました」
俺は黙って少年を見る。少年は叱られると思っているのか、顔を上げようとしない。
「名前は?」
「ノアと申します」
「何歳?」
「十五です」
やはり、それくらいか。
「この屋敷で何をしてる?」
「掃除や洗濯などを」
「使用人なんだな」
「……はい」
返事の前に、僅かな間があった。何かある。そう思った時、スカーレットが口を開いた。
「こやつは元々、暗殺者候補じゃ」
ノアの身体が固まる。
「スカーレット様……」
「隠しても仕方なかろう」
スカーレットは壁に寄り掛かったまま続ける。
「剣も毒も扱えん。気配を消すのも下手。人を傷付ける度胸もない。故に、暗殺者にはなれなかった」
随分な言い方だ。ノアは唇を噛み、俯いている。
「それで使用人に?」
「この家では、使えぬ者にも何かしら仕事を与える。捨てられなかっただけ、運が良かったとも言えるのう」
運が良かった。本当にそうだろうか。人を殺せなかったから、価値がないと判断された。十五歳の少年が。
「ノア」
名前を呼ぶと、少年が恐る恐る顔を上げる。
「人を傷付けられないのは、悪いことじゃない」
ノアの目が見開かれた。
「でも僕は……何の役にも立ちません」
「そんなことないだろ。今、布を持ってきてくれた」
「これは、言われたからです」
「言われたことを出来るのも大事だよ」
少年は戸惑ったように俺を見る。褒められることに慣れていない。その表情を見れば分かった。
「さっきから処置を見てたんだよな?」
「はい」
「血は怖くない?」
「怖くありません」
「傷を見るのは?」
「平気です」
「気分が悪くなったりは?」
少年は首を横に振る。
「では、何故見ていた?」
スカーレットが尋ねた。ノアはすぐには答えなかった。しばらく迷った後、意を決したように口を開く。
「僕にも、出来るかもしれないと思ったからです」
「何が?」
「人を……助けることが」
その声は小さかった。けれど、はっきりと聞こえた。ノアは真っ直ぐ俺を見る。
「剣を持つと、手が震えます。相手を傷付けろと言われても、身体が動きませんでした」
握り締めた手が、僅かに震えている。
「皆には臆病者だと言われました。ランドブルク家では何の役にも立たないと」
ノアは一度言葉を切った。
「でも、テラ様が傷を治しているのを見て……人を傷付けられない僕でも、出来ることがあるのではないかと思いました」
胸の奥が、小さく揺れた。人を殺せない少年。命を救う方法を知らなかっただけの少年。もし俺がここへ来なければ。ノアは一生、自分を役立たずだと思いながら生きていたのかもしれない。
「それ……僕にも教えていただけませんか」
ノアは深く頭を下げた。
「何でもします。水も運びます。布も洗います。ですから、僕にも人を助ける方法を教えてください」
部屋が静かになる。スカーレットも、黙ってこちらを見ていた。
「顔を上げて」
ノアがゆっくりと顔を上げる。
「教えるよ」
「……本当ですか?」
「あぁ。ただし、簡単じゃない」
「はい」
「血を見るだけじゃない。汚れた物も触る。怒鳴られることもある。助けられない人だっている」
最後の言葉を口にすると、胸が痛んだ。どれだけ看護師として働いても。どれだけ必死に手を尽くしても。救えない命はあった。もっと出来たのではないか。あの時、違う声を掛けていれば。何度も自分を責めた。それでも、患者の前に立ち続けた。
「それでもやりたいか?」
ノアは迷わなかった。
「やりたいです」
その目には、さっきまでなかった光があった。
「……分かった」
俺は椅子から立ち上がる。
「じゃあ、まずは手を洗おう」
「手を?」
「あぁ」
石鹸を渡す。
「患者に触る前と、触った後。必ず手を洗う」
「何故ですか?」
「人から人へ病気を運ばないため」
ノアは石鹸を見つめる。
「手で、病気を運ぶのですか?」
「そういうこともある。目には見えないけどな」
説明しながら、水で手を濡らす。掌に石鹸を取り、しっかりと泡立てた。
「まずは掌。次に手の甲。指の間と、爪の周りも忘れないように」
ノアは俺の動きを一つも見逃すまいと、真剣な顔で見つめている。その姿を見ているうちに、ふと昔の記憶が蘇った。看護学生だった頃。実習室の流し台の前に並び、教員に手洗いの方法を教わった。洗う時間が短くならないようにと、頭の中で『アンパンマンのマーチ』の一番を歌いながら、何度も何度も手を擦った。あの頃は、まさか異世界で同じことを教える日が来るなんて、想像すらしていなかった。
「……テラ様?」
「え?」
「少し笑っておられました」
言われて、自分の口元が緩んでいたことに気付く。
「昔を思い出してたんだ」
「昔、ですか?」
「あぁ。俺も最初は、こうやって教わった」
「テラ様にも、先生がいらっしゃったのですか?」
「いたよ。厳しい先生だった」
洗い残しがあれば、容赦なくやり直しだった。爪が少しでも長ければ注意され、袖が触れれば最初から。当時は細かすぎると思ったこともある。でも。あの繰り返しがあったから、今の俺がいる。
「手洗いは、適当にやっても意味がない」
俺はもう一度、ゆっくりと動きを見せる。
「急がなくていい。掌、手の甲、指の間、爪の周り。洗い残しがないように、順番を決めて洗うんだ」
「順番……」
「そう。慣れるまでは、頭の中で歌でも歌いながらやるといい」
「歌ですか?」
「あぁ。歌が終わるまでは手を洗う」
ノアは少し困ったように首を傾げた。
「僕は、あまり歌を知りません」
「じゃあ、そのうち何か考えよう」
「テラ様が歌ってくださるのですか?」
「それは嫌だ」
即答すると、ノアが小さく笑った。スカーレットまで肩を震わせている。
「何だよ」
「いや。お主が歌う姿を想像しただけじゃ」
「絶対に歌わないからな」
そう言いながら、最後に流水で泡を流す。清潔な布で手を拭き、ノアへ場所を譲った。
「次はノアの番」
「はい」
ノアは緊張した面持ちで水へ手を伸ばした。一度教えただけなのに、俺の動きをよく覚えている。掌。手の甲。指の間。爪の周り。一つひとつ確認するように、丁寧に洗っていく。
「上手いな」
「本当ですか?」
「あぁ。俺が学生だった頃より上手いかもしれない」
ノアの顔が僅かに綻んだ。
「次は何をすればよいですか?」
「じゃあ、あの桶の水を替えてくれ。それから綺麗な布と、使った布を絶対に一緒にしないこと」
「はい!」
ノアは勢いよく返事をすると、桶を持って部屋を出ていった。その後ろ姿を見送り、スカーレットが笑う。
「弟子が出来たのう」
「弟子ってほどじゃない」
「では、何じゃ?」
「手伝ってもらうだけだよ」
「素直じゃないのう」
しばらくして戻ってきたノアは、言われた通りに桶の水を替え、綺麗な布を棚へ並べた。患者を部屋へ案内し、使い終えた布を別の籠へ入れる。一つ教える度に、ノアは何度も繰り返して覚えようとした。
「傷を見る時は、傷だけ見ちゃ駄目だ」
「傷だけではないのですか?」
「顔色や呼吸も見る。痛い場所だけじゃなく、その人全体を見るんだ」
「その人全体……」
「患者は傷じゃない。人だから」
ノアは俺の言葉を噛み締めるように、小さく繰り返した。
「患者は、傷ではなく、人……」
それからの処置は、朝よりも随分と楽になった。必要な布を渡してくれる。水を替えてくれる。患者へ声を掛け、椅子まで案内してくれる。まだ処置そのものを任せることは出来ない。それでも、一人で全てをしていた時とは違う。看護は一人では出来ない。病院でもそうだった。医師。看護師。薬剤師。理学療法士。介護士。事務員。清掃員。患者を支えるために、大勢の人間が働いていた。なのに俺は、いつの間にか一人で全部背負おうとしていた。また同じことを繰り返すところだった。
「テラ様。次の方です」
ノアの声で我に返る。
「ありがとう」
そう返すと、ノアは少し驚いた顔をした。
「どうした?」
「いえ……お礼を言われるとは思わなかったので」
「手伝ってもらったんだから、言うだろ」
「そういうものなのですか?」
「そういうものだよ」
ノアは小さく笑った。その日の最後の患者を診終えた頃には、窓の外が赤く染まっていた。朝から並んでいた人の姿は、もうない。机の上には使い終えた布。空になった水差し。石鹸の欠片。血の付いた桶。病院の処置室には程遠い。それでも。朝にはただの空き部屋だった場所が、今は確かに患者を診るための部屋になっていた。
「終わった……」
椅子へ腰を下ろす。全身が重い。喉も渇いている。腹も減った。何より、眠い。
「テラ坊」
スカーレットが呆れたように俺を見る。
「何?」
「お主、顔色が患者より悪いぞ」
「大丈夫」
「その言葉を今日だけで何度聞いたかのう」
スカーレットが俺の額を指で弾く。
「痛っ」
「自分の身体も診られぬ者が、他人を診るな」
「分かってるよ」
「分かっておらん」
何も言い返せない。机を片付けていたノアが、心配そうに俺を見る。
「テラ様。お休みになった方が」
「ノアまで……」
「倒れられたら、明日から患者を診る者がいなくなります」
言っていることがスカーレットと同じだ。
「分かった。今日はもう終わりにしよう」
ノアがほっとしたように息を吐く。俺は椅子の背へ身体を預けた。
「異世界に来ても……残業か」
「ざんぎょう?」
ノアが首を傾げる。
「仕事が終わらなくて、決められた時間より長く働くこと」
「いつも、このくらい働かれていたのですか?」
「あぁ。もっと長い日もあった」
「それは……大変ですね」
素直に同情されてしまった。スカーレットは呆れたように溜め息を吐く。
「お主は前の世界でも、自分の命を粗末にしておったのじゃな」
その言葉に、何も返せなかった。俺は誰かの命を守ろうとして。自分の命を守れなかった。結果、山田太郎の身体がどうなったのかも分からない。死んだのか。まだ病院で眠っているのか。考え始めると、胸の奥が重くなる。
「テラ様」
ノアに呼ばれ、顔を上げる。
「明日も、ここへ来てもよろしいでしょうか」
不安そうな表情だった。今日だけの手伝いだと思っているらしい。
「もちろん」
「……よろしいのですか?」
「俺一人じゃ回らないって、今日よく分かったから」
ノアの瞳が僅かに揺れる。
「これからも手伝ってくれるか?」
「はい!」
今日一番大きな返事だった。
「よろしく、ノア」
俺が手を差し出す。ノアは、その手を見つめたまま固まった。
「握るんだよ」
「僕が、テラ様の手を?」
「嫌なら別にいいけど」
「い、いえ!」
ノアは慌てて俺の手を握った。細く、小さな手だった。剣を握るための硬い皮もない。毒を扱うための傷もない。この屋敷では、役に立たないとされた手。けれど今日、その手は何度も水を運び、布を渡し、患者を支えた。人を傷付けることが出来ない手だからこそ。人を救えるのかもしれない。
「明日は包帯の巻き方を教えるよ」
「僕にも出来るでしょうか」
「出来るようになるまで教える」
ノアは嬉しそうに頷いた。この時の俺は、まだ知らなかった。人を殺せなかったこの少年が、やがて誰よりも多くの命を支える人間になることを。
そして、この小さな空き部屋がランドブルク家を変える最初の場所になることを。




