↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/12

第五話 看護師

朝、目が覚めると窓から柔らかな光が差し込んでいた。昨日の出来事が夢ではないことを確認するように、ゆっくりと身体を起こす。見慣れない天井。豪奢な調度品。

──そして、鏡に映る金髪の少年。


「……やっぱり夢じゃないか」


思わず苦笑する。何度確認しても、俺は山田太郎じゃない。テラ・ランドブルクとして、この世界で生きている。


コンコン。


「テラ坊。起きとるか」


スカーレットだった。


「入るぞ」


返事を待たずに扉が開く。


「朝食じゃ」

「ありがとう」


部屋へ入ってきたスカーレットは俺の顔を見るなり、小さく笑った。


「昨日はよく眠れたようじゃな」

「あぁ……疲れてたんだろうな」


身体よりも、心が。

昨日だけで何度死ぬと思ったか分からない。


「腹が減っとるじゃろ。食え」


テーブルには既に朝食が並べられていた。焼きたての白いパン。香草で香り付けされた厚切りの肉。彩り豊かな野菜のサラダ。湯気を立てる濃厚なスープに、季節の果物まで添えられている。思わず目を見張った。


「……すごいな」


病院勤めをしていた頃でも、こんな朝食はそうそうお目に掛かれない。


「侯爵家じゃからの」


スカーレットがどこか得意げに胸を張る。


「ランドブルク家は王家に仕える名家じゃ。食う物に困ることなどない」

「なるほど……」


俺は席に着き、手を合わせてからパンを口へ運んだ。

外は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。スープもよく煮込まれていて、思わず感心する。


「美味しい」

「じゃろ?」


だが、食べ進めるうちに別のことが気になり始めた。

肉料理が多い。パンもかなりの量だ。野菜は添え物程度で、果物も食後の飾りのように置かれている。


(怪我人が多い屋敷なのにな……)


昨日見た訓練場。毎日のように傷を負う者たち。それなのに、栄養の考え方は少し偏っているように思えた。


「どうした」

「いや……」


俺は苦笑する。


「看護師の癖かな」

「癖?」

「怪我人を見ると、何を食べてるかまで気になるんだ」


スカーレットは不思議そうに首を傾げた。


「腹が膨れれば十分ではないのか?」

「違う」


俺は皿に並ぶ野菜へ視線を落とす。


「傷は薬だけじゃ治らない。身体は食べた物で出来てる。ちゃんと食べて、ちゃんと休んで、初めて傷は治るんだ」

「……そんなものか」

「そんなものなんだ」


スカーレットはしばらく黙っていたが、小さく笑った。


「お主、本当に変わった男じゃの」

「そうかもな」


異世界へ来ても。豪華な朝食を見ても。最初に考えるのは栄養のこと。結局、俺の頭の中は看護師のままらしい。


コンコン。今度は控えめなノックだった。


「……失礼いたします」


昨日の使用人だ。


「テラ様。お客様がお見えです」

「俺に?」


使用人は少し困ったような顔で頷く。部屋の外へ出ると、一人の男が立っていた。昨日、肩を斬られていた暗殺者だった。左腕は布で吊られている。男は俺を見るなり深々と頭を下げた。


「昨日は……命を救っていただき、ありがとうございました」


その言葉に、思わず目を丸くする。


「礼を言われるようなことじゃ……」

「私は昨日、死ぬものだと思っていました」


男は真っ直ぐ俺を見た。


「ですが、あなたが助けてくださった」


その目には嘘がなかった。俺は少し照れ臭くなり、頭を掻く。


「まずは傷を診せてくれる?」

「はい」


男は慎重に布をほどく。俺はすぐには傷口へ触れなかった。


「昨日は眠れた?」

「眠れました」

「熱は?」

「ありません」

「腕は動かせる?」


男はゆっくり腕を動かしてみせる。表情が少し歪む。


「痛みは?」

「昨日よりは……楽です」


俺は小さく頷いた。傷だけじゃない。患者を診る。それが看護師だった。傷口を見る。血は止まっていた。……だが。


「……駄目だ」

「え?」

「このままじゃ駄目だ」


布は血で固まり、傷へ張り付いていた。このまま放置すれば傷口は汚れ、化膿する可能性がある。


「ぬるま湯を持ってきて」


周囲がざわつく。


「ぬるま湯、ですか?」

「そう。あと綺麗な布も」


使用人たちは顔を見合わせる。


「早く」


慌てて一人が走っていった。しばらくして桶いっぱいの微温湯と、新しい布が運ばれてくる。俺は固まった布をゆっくり濡らしながら剥がしていく。


「っ……!」


男が肩を震わせた。


「染みるだろうけど、我慢してくれ」


血と汚れが微温湯で流れ落ちていく。


「どうして洗うのですか?」


後ろから使用人が恐る恐る尋ねた。俺は手を止めない。


「傷は汚れるから」

「汚れ……ですか?」

「目には見えなくても、傷には色んなものが付く。それを放っておくと傷は腐る」


もちろん、本当は細菌だとか感染だとか説明したい。でも、この世界にはそんな概念はない。だから俺は経験だけを伝える。


「綺麗にした方が治りは早い」


それだけは、何年も看護師をやってきた俺が断言できることだった。傷を洗い終え、新しい布を当てる。圧迫しながら丁寧に巻き直す。


「これでいい」


部屋は静まり返っていた。


「傷は毎日診せてくれ」

「毎日……ですか」

「傷は閉じるまでが治療だ」


男は呆然と俺を見つめる。


「血が止まれば終わりじゃない。傷が腐らないように診る。熱が出てないか診る。ちゃんと動くか診る」


男の手を見る。剣だこだらけだった。きっと、この手で何人もの命を奪ってきたのだろう。それでも。俺の前では、一人の患者だった。看護師にとって、患者に善人も悪人もない。苦しんでいる人がいる。それだけだった。


「……それが、看護なんだ」


気付けば口から漏れていた。看護師。もう名乗ることもないと思っていた肩書き。でも。異世界へ来ても。俺は結局、看護師だった。


その時だった。


「なるほど」


低い声が廊下へ響く。振り返る。そこにはヴォルフガングが立っていた。いつから見ていたのか分からない。屋敷中がざわついているというのに、この男だけは微動だにしていない。ただ静かに、俺の手元を見ていた。


「面白い技術だ」


部屋の空気が張り詰める。ヴォルフガングは傷口を一瞥すると、俺へ視線を戻した。


「明日からも続けろ」

「……え?」

「その男だけではない」


冷たい声が部屋へ響く。


「負傷者は全て、お前が診ろ」


そう言い残し、ヴォルフガングは踵を返す。規則正しい足音だけが廊下へ遠ざかっていった。静寂が戻る。俺は巻き終えた包帯へそっと手を添えた。看護師として働ける。そう思った自分がいる。その一方で。俺がこれから助けるのは、人を殺すことを生業とした者たちだ。救うことは、本当に正しいのか。答えはまだ分からない。それでも。目の前で苦しんでいる患者を見捨てることだけは、俺にはできなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。