第五話 看護師
朝、目が覚めると窓から柔らかな光が差し込んでいた。昨日の出来事が夢ではないことを確認するように、ゆっくりと身体を起こす。見慣れない天井。豪奢な調度品。
──そして、鏡に映る金髪の少年。
「……やっぱり夢じゃないか」
思わず苦笑する。何度確認しても、俺は山田太郎じゃない。テラ・ランドブルクとして、この世界で生きている。
コンコン。
「テラ坊。起きとるか」
スカーレットだった。
「入るぞ」
返事を待たずに扉が開く。
「朝食じゃ」
「ありがとう」
部屋へ入ってきたスカーレットは俺の顔を見るなり、小さく笑った。
「昨日はよく眠れたようじゃな」
「あぁ……疲れてたんだろうな」
身体よりも、心が。
昨日だけで何度死ぬと思ったか分からない。
「腹が減っとるじゃろ。食え」
テーブルには既に朝食が並べられていた。焼きたての白いパン。香草で香り付けされた厚切りの肉。彩り豊かな野菜のサラダ。湯気を立てる濃厚なスープに、季節の果物まで添えられている。思わず目を見張った。
「……すごいな」
病院勤めをしていた頃でも、こんな朝食はそうそうお目に掛かれない。
「侯爵家じゃからの」
スカーレットがどこか得意げに胸を張る。
「ランドブルク家は王家に仕える名家じゃ。食う物に困ることなどない」
「なるほど……」
俺は席に着き、手を合わせてからパンを口へ運んだ。
外は香ばしく、中は驚くほど柔らかい。スープもよく煮込まれていて、思わず感心する。
「美味しい」
「じゃろ?」
だが、食べ進めるうちに別のことが気になり始めた。
肉料理が多い。パンもかなりの量だ。野菜は添え物程度で、果物も食後の飾りのように置かれている。
(怪我人が多い屋敷なのにな……)
昨日見た訓練場。毎日のように傷を負う者たち。それなのに、栄養の考え方は少し偏っているように思えた。
「どうした」
「いや……」
俺は苦笑する。
「看護師の癖かな」
「癖?」
「怪我人を見ると、何を食べてるかまで気になるんだ」
スカーレットは不思議そうに首を傾げた。
「腹が膨れれば十分ではないのか?」
「違う」
俺は皿に並ぶ野菜へ視線を落とす。
「傷は薬だけじゃ治らない。身体は食べた物で出来てる。ちゃんと食べて、ちゃんと休んで、初めて傷は治るんだ」
「……そんなものか」
「そんなものなんだ」
スカーレットはしばらく黙っていたが、小さく笑った。
「お主、本当に変わった男じゃの」
「そうかもな」
異世界へ来ても。豪華な朝食を見ても。最初に考えるのは栄養のこと。結局、俺の頭の中は看護師のままらしい。
コンコン。今度は控えめなノックだった。
「……失礼いたします」
昨日の使用人だ。
「テラ様。お客様がお見えです」
「俺に?」
使用人は少し困ったような顔で頷く。部屋の外へ出ると、一人の男が立っていた。昨日、肩を斬られていた暗殺者だった。左腕は布で吊られている。男は俺を見るなり深々と頭を下げた。
「昨日は……命を救っていただき、ありがとうございました」
その言葉に、思わず目を丸くする。
「礼を言われるようなことじゃ……」
「私は昨日、死ぬものだと思っていました」
男は真っ直ぐ俺を見た。
「ですが、あなたが助けてくださった」
その目には嘘がなかった。俺は少し照れ臭くなり、頭を掻く。
「まずは傷を診せてくれる?」
「はい」
男は慎重に布をほどく。俺はすぐには傷口へ触れなかった。
「昨日は眠れた?」
「眠れました」
「熱は?」
「ありません」
「腕は動かせる?」
男はゆっくり腕を動かしてみせる。表情が少し歪む。
「痛みは?」
「昨日よりは……楽です」
俺は小さく頷いた。傷だけじゃない。患者を診る。それが看護師だった。傷口を見る。血は止まっていた。……だが。
「……駄目だ」
「え?」
「このままじゃ駄目だ」
布は血で固まり、傷へ張り付いていた。このまま放置すれば傷口は汚れ、化膿する可能性がある。
「ぬるま湯を持ってきて」
周囲がざわつく。
「ぬるま湯、ですか?」
「そう。あと綺麗な布も」
使用人たちは顔を見合わせる。
「早く」
慌てて一人が走っていった。しばらくして桶いっぱいの微温湯と、新しい布が運ばれてくる。俺は固まった布をゆっくり濡らしながら剥がしていく。
「っ……!」
男が肩を震わせた。
「染みるだろうけど、我慢してくれ」
血と汚れが微温湯で流れ落ちていく。
「どうして洗うのですか?」
後ろから使用人が恐る恐る尋ねた。俺は手を止めない。
「傷は汚れるから」
「汚れ……ですか?」
「目には見えなくても、傷には色んなものが付く。それを放っておくと傷は腐る」
もちろん、本当は細菌だとか感染だとか説明したい。でも、この世界にはそんな概念はない。だから俺は経験だけを伝える。
「綺麗にした方が治りは早い」
それだけは、何年も看護師をやってきた俺が断言できることだった。傷を洗い終え、新しい布を当てる。圧迫しながら丁寧に巻き直す。
「これでいい」
部屋は静まり返っていた。
「傷は毎日診せてくれ」
「毎日……ですか」
「傷は閉じるまでが治療だ」
男は呆然と俺を見つめる。
「血が止まれば終わりじゃない。傷が腐らないように診る。熱が出てないか診る。ちゃんと動くか診る」
男の手を見る。剣だこだらけだった。きっと、この手で何人もの命を奪ってきたのだろう。それでも。俺の前では、一人の患者だった。看護師にとって、患者に善人も悪人もない。苦しんでいる人がいる。それだけだった。
「……それが、看護なんだ」
気付けば口から漏れていた。看護師。もう名乗ることもないと思っていた肩書き。でも。異世界へ来ても。俺は結局、看護師だった。
その時だった。
「なるほど」
低い声が廊下へ響く。振り返る。そこにはヴォルフガングが立っていた。いつから見ていたのか分からない。屋敷中がざわついているというのに、この男だけは微動だにしていない。ただ静かに、俺の手元を見ていた。
「面白い技術だ」
部屋の空気が張り詰める。ヴォルフガングは傷口を一瞥すると、俺へ視線を戻した。
「明日からも続けろ」
「……え?」
「その男だけではない」
冷たい声が部屋へ響く。
「負傷者は全て、お前が診ろ」
そう言い残し、ヴォルフガングは踵を返す。規則正しい足音だけが廊下へ遠ざかっていった。静寂が戻る。俺は巻き終えた包帯へそっと手を添えた。看護師として働ける。そう思った自分がいる。その一方で。俺がこれから助けるのは、人を殺すことを生業とした者たちだ。救うことは、本当に正しいのか。答えはまだ分からない。それでも。目の前で苦しんでいる患者を見捨てることだけは、俺にはできなかった。




