第四話 父
ギィ……と、重い音を立てて扉が開く。部屋の中は思っていたより質素だった。壁一面に並ぶ本棚。中央には黒檀で作られた大きな机。装飾らしい装飾はほとんどない。ただ必要な物だけが整然と並べられている。その机に向かい、一人の男が書類へ目を通していた。
ヴォルフガング・ランドブルク。
俺の父──ではない。
だが、この身体にとっては間違いなく父親だった。男は俺たちが入ってきても顔を上げない。部屋に響くのは、紙をめくる音だけ。
「座れ」
短い一言。俺は促されるまま椅子へ腰を下ろした。
喉が渇く。背中を嫌な汗が流れていく。スカーレットは遠慮なく壁にもたれ掛かり、腕を組んでいた。ヴォルフガングはようやく書類を閉じる。そして、俺へ視線を向けた。その目に親子の情はない。値踏みするような冷たい視線だけが、俺へ向けられていた。
「今日の初任務はどうだった」
心臓が大きく跳ねる。初任務。そうだ。テラは今日、任務へ向かった。俺が目を覚ましたのは、その直後だった。記憶を探る。血。倒れている子どもたち。吐き気。それ以上が思い出せない。
「…………」
何も答えられず、沈黙だけが流れる。ヴォルフガングの視線が鋭くなる。
「どうした」
その一言だけで息が詰まる。殺される。そう思った瞬間だった。
「頭を強く打っておる」
スカーレットが口を開く。
「記憶が混濁しておるようじゃ」
ヴォルフガングはスカーレットを見る。
「本当か?」
「妾がわざわざ嘘を吐く理由でもあるか?」
しばらく沈黙が続く。やがてヴォルフガングは小さく息を吐いた。
「……記憶障害か」
「そんなところじゃろうなぁ」
男は再び椅子へ腰を下ろした。
「ならば仕方あるまい」
助かった。そう思ったのも束の間だった。
「だが、結果だけは覚えているはずだ」
胸が締め付けられる。
「標的は始末したのか」
その質問に、俺は言葉を失った。子どもたちの姿が頭をよぎる。俺が見たあの光景。血だまり。泣き叫ぶ声。そして、一人の少年。テラ……。
「……記憶が混濁してて」
苦し紛れにそう答えた。ヴォルフガングは数秒だけ俺を見つめる。やがて興味を失ったように視線を逸らした。
「記憶を失ったのなら確認しようがない」
淡々とした口調だった。まるで天気の話でもしているように。
「だが、一つだけ覚えておけ」
男は静かに立ち上がる 。
「ランドブルク家の人間にとって、任務の失敗は死と同義だ」
背筋が凍る。
「迷いは不要。躊躇は不要。情けは不要」
一つ一つの言葉が胸へ突き刺さる。
「命を奪え」
その一言だけが部屋へ重く響いた。俺は拳を握る。看護師だった俺が毎日向き合ってきたもの。それは命を救うことだった。この男は違う。命を奪うことを教えている。価値観が真逆だった。
コンコン。部屋の扉が叩かれる。
「失礼します」
使用人が一人の男を支えながら入ってきた。男は肩から腕にかけて深く斬られていた。床へ血が滴っている。
「任務中の負傷です」
ヴォルフガングは一瞥しただけだった。
「治癒師は」
「遠征中につき、不在です」
「そうか」
たったそれだけ。終わりだった。俺は思わず立ち上がる。
「……何をしている」
ヴォルフガングが冷たく言う。
「このままじゃ失血する!」
部屋の全員が俺を見る。俺は男の肩へ触れる。傷を確認する。深い。だが致命傷ではない。まだ助かる。
「布を!」
誰も動かない。
「早く!」
スカーレットが近くの布を俺へ放り投げた。
「ほれ」
俺は布を畳み、傷口へ強く押し当てる。男が苦痛に顔を歪めた。
「我慢してくれ……」
さらに布で固定する。
「腕を上げて」
男は言われるまま腕を持ち上げた。少しずつ出血が弱まっていく。静まり返っていた部屋がざわめき出す。
「血が……止まった」
「治癒魔法ではないぞ」
「何をしたんだ……」
ヴォルフガングだけが俺を見ている。
「……何をした」
「応急処置……」
「応急処置だと?」
聞き慣れない言葉を繰り返す。
「誰から教わった」
しまった。この世界に看護なんてない。俺は必死に頭を回転させる。
「……本で」
「本?」
「昔、屋敷の書庫で読んだ……」
苦しい言い訳だった。ヴォルフガングは俺を見つめ続ける。やがて静かに口を開いた。
「面白い」
その言葉に、俺はぞっとした。男は興味を持ったのだ。命を救う技術に。そして俺自身に。その視線が、何よりも恐ろしかった。




