第三話 誰も笑わない家
彼女の手は熱かった。人間とは違う温もり。それなのに、不思議と嫌ではなかった。俺はゆっくりとその手を握る。
「うむ」
スカーレットは小さく頷き、俺を立ち上がらせた。部屋を出る。
廊下には使用人たちが整列していた。誰一人、顔を上げようとはしない。全員が床だけを見つめている。その中の一人の肩が、小刻みに震えていた。ランドブルク侯爵家。その異様さを、俺はこれから嫌というほど思い知ることになる。
◇◇◇
廊下を歩く。靴音だけが静かに響いていた。広い屋敷だった。天井は高く、柱には細かな彫刻が施されている。壁には歴代当主と思われる肖像画。……豪華だ。だが、不思議と温かさは感じない。
壁に掛けられた肖像画の男たちは、誰も笑っていなかった。初代当主から現当主まで。鋭い目に冷たい表情。歴史ある名家なのだろう。だが、誇りよりも威圧感の方が勝っている。床は磨き上げられている。窓一つ曇っていない。それなのに、人の暮らす家とは思えなかった。生活の匂いがない。まるで巨大な棺の中を歩いているようだった。
「……静かだな」
思わず呟く。
「静かな方が良い」
スカーレットは前を向いたまま答えた。
「声が聞こえると怒られる」
その言葉に引っ掛かった。
「怒られる?」
「ご当主様は無駄な音がお嫌いのようじゃからのう。アホくさい」
呆れたようにそれだけ言うと、彼女は黙った。俺もそれ以上聞けなかった。しばらく歩くと、若いメイドが銀の盆を抱えてこちらへ歩いてきた。俺たちに気付くと、慌てて壁際へ寄り、深く頭を下げる。その瞬間だった。
ガシャンッ!
皿が床へ散らばる。乾いた音が廊下へ響いた。
「も、申し訳ございません!」
メイドは顔を真っ青にし、その場へ膝をついた。震える手で皿の破片を拾い集める。焦っていたのだろう。鋭い破片が指先を切り裂いた。赤い血が床へ落ちる。
俺は反射的に観察してしまう。
顔色は血の気がない。肩が上下するたび、呼吸は浅く速くなる。指先は震え、破片を掴もうとしては何度も取り落としていた。
(過換気寸前だ。これ以上追い詰めれば倒れる。)
完全にパニック状態だ。こんな状態で細かい作業ができるはずがない。手が震えるのも当然だった。なのに誰も休ませようとしない。誰も声を掛けない。医療現場なら真っ先に座らせるか横にならせる。落ち着かせる。怪我を診る。それが普通だ。ここには、その普通が存在しなかった。
「危ない!」
俺は反射的に駆け寄ろうとした。
「触るな!」
鋭い声が飛ぶ。振り返ると、スカーレットが険しい表情でこちらを見ていた。
「今は動くな」
「でも血が──」
「いいから、動くな……」
その声には、有無を言わせない重みがあった。その時だった。
メイドは震えていた。皿を拾う。指を切る。血が落ちる。誰も動かない。誰も呼吸をしない。時間が止まったようだった。誰も動かない。誰も息をしない。廊下そのものが、何かを待っていた。
コツ。コツ。コツ。
廊下の奥から靴音が響く。誰も顔を上げない。使用人たちはさらに深く頭を下げる。空気が変わった。息が苦しい。姿を見る前に分かった。ヴォルフガングだ。男はゆっくりと歩いてくる。怒鳴りもしない。急ぎもしない。ただ静かに歩いているだけ。それなのに、この場にいる全員が震えていた。ヴォルフガングは床へ散らばった皿を見る。血を流すメイドを見る。そして静かに口を開いた。
「片付けろ」
それだけだった。男はそのまま歩き去る。俺は呆然とその背中を見送った。終わった。そう思った。
パァンッ!
乾いた音が響き、振り返る。年配のメイドが若いメイドの頬を平手打ちしていた。
「旦那様のお目を煩わせるな!」
「申し訳ございません!」
更にもう一発。乾いた音が廊下へ響く。
「やめろ!」
俺は思わず叫んだ。
「怪我してるんだぞ!」
若いメイドを庇おうとした瞬間、腕を掴まれる。
「駄目じゃ」
スカーレットだった。
「離せ!」
「今は駄目じゃ」
「何でだ!」
思わず声を荒げる。
「怪我してるんだ! 止めないと!」
スカーレットは静かに首を横へ振った。
「これが、この家の日常じゃ」
その言葉が重く胸へ落ちた。俺は周囲を見渡す。誰も助けない。助けられない。全員が俯き、震えている。恐れているのはヴォルフガングだけじゃない。この屋敷そのものだった。拳を握る。爪が掌へ食い込む。看護師として働いてきた。苦しむ人がいれば助ける。それが当たり前だった。なのに、今の俺には何も出来ない。悔しかった。
再び歩き始める。誰も口を開かない。やがて、一枚の大きな扉の前でスカーレットが立ち止まった。黒い重厚な扉。金色の紋章。テラの記憶が告げる。ここが当主の執務室。ヴォルフガング・ランドブルクの部屋。……喉が渇く。
「怖いか?」
スカーレットが小さく尋ねた。
「……怖い」
正直に答える。
「でも」
拳を握り直す。
「逃げるわけにはいかない」
スカーレットは少しだけ目を細めた。
「テラ坊も昔、同じことを言っておった」
胸が締め付けられる。
「……逃げなかったのか」
「逃げられなかった」
静かな声だった。
「この屋敷には、逃げるという選択肢すらなかった」
その声には怒りも悲しみもない。あまりにも昔の出来事を語るような静けさだけがあった。胸が苦しくなる。テラは十八年。俺はまだ一日も経っていない。それなのに、もう息苦しい。
「俺……本当にこの家で育ったのか?」
スカーレットは少しだけ寂しそうに笑う。
「育った、というより」
一拍置く。
「生き延びた、じゃな」
その一言が胸に突き刺さる。
コンコンと、スカーレットが扉を叩いた。
「おい、入るぞ」
静寂が流れる。やがて。
「入れ」
感情のない声が部屋の中から響いた。俺は大きく息を吸う。扉の向こうには、この家を支配する男がいる。
そして──テラを十八年間縛り続けた男も。
俺は息を整え、ゆっくりと扉へ手を掛けた。




