第二話 紅竜
頬に冷たい風が当たる。重たい瞼をゆっくりと開くと、見慣れない天井が視界に映った。いや、正しくは───山田太郎としては見覚えのない天井だ。
黒檀で組まれた梁。壁には見たこともない紋章。豪奢な調度品。そして、この部屋だけは記憶があった。テラ・ランドブルクの私室。どうやら俺は、気絶した後ランドブルク侯爵家へ運び込まれていたらしい。
「……ここは」
後頭部がズキリと痛む。頭を押さえながら身体を起こそうとした瞬間だった。
「おぉ、起きたか」
聞き覚えのある、凛とした声。その声にはほんの少しだけ安堵が混じっていた。
窓枠に腰掛け、外を眺めていた赤髪の少女がこちらを振り返る。長い赤髪が風に揺れる。夕日に照らされたその姿は、まるで燃える炎のようだった。
「ようやく目を覚ましたのぅ」
「……お前」
「なんじゃぁ?」
「誰だ……?」
少女はしばらく黙ったまま俺を見つめていた。やがて額に手を当て、大きなため息を吐く。
「本当に忘れておるのか?」
「だから知らない」
「妾はスカーレットじゃ。ほれ、思い出しただろう?」
ふふんと笑う少女。その名前にも聞き覚えはない。
俺は首を横に振る。
「悪い。本当に分からない」
少女は何かを考えるように目を細めた。
その時だった。ふわり、と。部屋の空気が変わる。暖炉なんてない。窓は開いている。それなのに、部屋の温度だけがゆっくりと上がっていく。暑い。じんわりと汗が滲む。
「……暑い」
「そうか」
スカーレットは何気なく自分の右手を見つめた。その掌から、小さな火が生まれる。紅い炎。蝋燭ほどの小さな火だった。しかしその炎は風に揺れない。生き物のようにゆらゆらと揺らめいていた。
「っ……!」
思わず身構える。炎はゆっくりと大きくなり、少女の腕へと這うように広がっていく。服は燃えない。肌も焼けない。炎だけが彼女を包み込み、まるで身体の一部のように踊っていた。
「何だ、それ……」
「炎じゃ」
「いや、そういう意味じゃない」
スカーレットは不思議そうに首を傾げる。
「いつも見ておったじゃろ」
そう言って軽く指を鳴らすと、炎は跡形もなく消え去った。部屋には焦げ跡一つ残っていない。
「驚いたのか?」
「……ああ」
こんなもの、俺の世界には存在しない。目の前で起きている現象を、どう説明すればいいのか分からなかった。魔法。そんな言葉しか思い浮かばない。
「お主、本当に様子がおかしいのう」
「俺は……」
言葉が詰まる。信じてもらえるはずがない。それでも、嘘をつく理由もなかった。
「俺は……テラじゃない」
静かな部屋に、自分の声だけが響く。
「山田太郎」
「……」
「看護師だった」
「かん、ごし?」
聞き慣れない言葉だったのだろう。スカーレットは眉をひそめた。
「病人や怪我人を助ける仕事だ」
「医者や治癒士とは違うのか?」
「違う。でも、人を助ける仕事だ」
俺は静かに続ける。
「気付いたら、この身体にいた」
「……」
「俺にも信じられない」
長い沈黙が流れる。スカーレットは俺をじっと見つめていた。まるで何かを確かめるように。やがてゆっくりと近付いてくる。
「動くな」
そう言って俺の胸に手を当てた。
「熱っ!」
思わず身体を引く。人の体温じゃない。まるで熱した鉄に触れたような熱さだった。
「す、すまん」
スカーレットは慌てて手を離す。
「竜じゃから、な」
「……え?」
俺は聞き返した。スカーレットは当然のように言う。
「妾は紅竜じゃ」
あまりにも自然に告げられたその言葉に、返す言葉を失う。竜。ドラゴン。伝説の生き物。そんな存在が、目の前で困ったように頭を掻いている。
「信じておらんな?」
「いや……」
信じるしかなかった。目の前で炎を操り、人とは思えない熱を持つ少女だ。今さら否定できるはずもない。
「……お主」
スカーレットが俺を見つめる。
「魂の匂いが違う」
「匂い?」
「うむ」
少女は目を閉じた。静かに息を吸う。
「テラ坊の魂は確かにお主の中にある」
胸が高鳴る。
「じゃが」
その続きを待つ。
「もう一つ、お主の魂もある」
「……」
「二つ重なっておる」
俺は息を呑んだ。やはりテラは消えていない。この体のどこかにいる。そう思うだけで胸の奥が少しだけ軽くなった。
「安心せい」
スカーレットは小さく笑う。
「妾は何百年も生きておる」
「……」
「じゃが、こんなことは初めてじゃ」
少しだけ困ったように笑う。
「じゃが……」
スカーレットは窓の外へ目を向けた。夕焼けが赤く部屋を染める。
「テラ坊が生きておるのなら、それで良い。」
その声は、先ほどまでの軽い口調とは違っていた。
「ちなみにお前……何歳なんだ?」
「おなごに歳を聞くとは、お主モテないだろう」
「う、うるせぇ!」
あっさりと言ってのける。その横顔は少女そのものだった。なのに、その瞳だけはひどく遠くを見ているように感じた。その時だった。
コンコン。控えめなノックが響く。
「……スカーレット様」
震えた男の声だった。
「旦那様が、お待ちです」
その一言だけで、部屋の空気が凍り付く。ヴォルフガング。その名を聞いただけで、胃の奥が嫌な音を立てる。
俺だけじゃない。目の前のスカーレットですら、小さく息を吐いた。
「……まったく」
そう呟いて立ち上がる。
「お主は目覚めたばかりじゃというのに」
彼女は俺へ手を差し出した。
「立てるか?」
彼女の手は熱かった。人間とは違う温もり。それなのに、不思議と嫌ではなかった。俺はゆっくりとその手を握った。
部屋を出る。廊下には、使用人達が整列していた。誰一人、顔を上げようとはしない。全員が床だけを見つめていた。その中の一人の肩が、小刻みに震えていた。ランドブルク侯爵家。その異様さを、俺はこれから嫌というほど思い知ることになる。




