第一話 青天の霹靂
この臭いには覚えがあった。
人が死ぬ前に放つ、なんとも言えないあの臭い。看取りの前に漂う、あの重苦しい空気。
だけど違う。
これは病室の臭いじゃない。
それが鼻の奥をツンとつついて頭がズキンと重くなる。クラクラする頭をどうにかこうにか動かして、目を開ける。
───俺の世界は真っ赤に染まっていた。
手に持っているのは、1本のナイフ。見るだけでもわかる鋭さだ。刃先に滴るのは赤々とした鮮血。
これはなんだ。何が起きている。俺は病院に居たはずなのに。
滴る血液を目で追ってしまう。
その先にあるものを、見たくなかった。
見れば現実になる気がした。
嫌だ、やめろ。夢なら今ここで覚めてくれ。
願いも虚しく、俺の視線の先には血塗れで横たわる1人の男がいた。いや、1人だけじゃない。女性、高齢者、それに───子供。腹の奥から混み上がる吐き気をこらえる事が出来ず、俺は床にぶち撒けた。何度も何度もえずき、腹の中が空っぽになるまで胃液をぶち撒けた。
これは夢か?
それにしては嫌に生々しい。視覚、嗅覚だけでなく胃液の味までもが「夢じゃないぞ」と嘲笑うかのように物語ってくる。
気づけば身体が動いていた。子供の首筋に指を当てる。脈はない。冷たい。わかっていた。わかっていたはずなのに、確認せずにはいられなかった。
「何が……どうなってんだよ……!」
どこにぶつければ良いのか分からない怒りのような感情が、空っぽの腹の中でグツグツと煮えたぎる。体が震える。人を助けられなかった時に感じるあの苦しさと同じだ。
瞬間、俺の頭の中で火花が散る。
記憶がまるで古い映画のように巻き戻る。俺はそれをただ眺めていた。
ナースコールが鳴る。ピッチが鳴る。誰かが俺を呼ぶ。走った。とにかく走った。休む暇なんて無かった。気付けば何時間働いていたのかも覚えていない。そして足を滑らせた。
───ああ、俺死んだのか。
齢30歳。なんとも言えない人生の幕引きである。
いや、それだとおかしい。
死んだはずなら何故俺は今ここに存在しているんだ。
またしても頭の中に火花が散る。頭の中に知らない景色が流れ込む。
血だらけの訓練場。ナイフを振るう子供。冷たい声。
『殺せ』
『ランドブルクの人間ならできるだろう』
『できないならお前を処分する』
その瞬間だった。俺は、山田太郎という人間の1つの人生が終わり、テラ・ランドブルクという男の人生を背負うこととなったのだと。理解したくなかった。だが理解してしまった。俺は山田太郎だ。そして同時に、テラ・ランドブルクでもある。もう否定できなかった。
テラ・ランドブルクは18歳。
前世で30歳だった俺から見れば、まだ子供と言っていい年齢だった。しかし、彼の住まうこの国では16歳で成人を迎えるようだ。
彼は俺の生きていた世界とは真逆の存在であり、冷たく悲しい、灰色のような世界を生きる人間だった。
ランドブルク侯爵家。表向きは王国を支える名門貴族。そんな響きだけ聞けば聞こえはいい。だがテラの記憶の中にある屋敷は、俺の知る貴族の館なんかじゃなかった。あそこは人殺しを育てるための檻だ。
ガチャ。
扉が開く音がした。俺は思わず勢いよく振り返る。すると、そこにはテラの記憶に強くこびりついたあの男が立っていた。男の低い声が響く。
「テラ。初仕事を終えた気分はどうだ?」
ニヤリと口角を持ち上げ、いやらしく嗤う。テラが恐れた、この国では誰一人として逆らうことの出来ない影の権力者。テラの父親、ヴォルフガング・ランドブルク。
俺は奥歯をぎしりと噛み締め、男を強く睨みつけた。
「なんで……なんでこんな事をさせた!!!」
「なぜ今更そんなことを問う?この一族は王に仇なす害虫とも呼べる者たちだ。それを葬るのは当然のこと」
「子供まで……!子供まで殺す必要があったのかよ!!」
父は心底不思議そうに首を傾げ、答えた。
「害虫を1匹逃し、増えたらどうする。貴様はそんなことは考えず私の命に従い殺し続ければ良いのだ」
「そんなこと、したくなかった!!」
「したくないと言っても、己の命と天秤に掛ければ害虫共を殺せる。それが答えじゃないか」
「そんな……!」
俺は愕然とした。言葉が出なかった。
本当にこれが、父親が子供に向ける言葉なのか。俺には理解できなかった。
そして父は先程のようにいやらしい笑みを消し、優しく微笑みかけてきた。そのギャップに背筋が凍るような寒気がした。
「何を怯えているのだ。お前はよくやった。ランドブルク家の血を証明したのだからこれからはお前が正当な後継者だ」
これがテラが生きていた世界。人を殺めることを正当化する世界。
テラという人間は虫の殺生ですら嫌う心優しい青年だった。傷ついた動物には手当をし、貧しいものには手を差し伸べ施しをする。そんな優しい人間だった。
しかし彼の心が壊れてしまうには難しい事ではなかった。
たった一言、この父親の言葉が彼を狂わせた。
『ランドブルク家の後継者ともあろうものがなぜ殺せない。次の満月の日、それまでに私の命令が達成出来なければ、私が貴様を殺す』
その時の目は消して自分の子供に向けて良いものではなかった。あれは人を人と思っていない、悪魔の目だ。
「すぐに迎えの者が来る。お前も屋敷に戻ってくるが良い」
そう言い残し、父は俺に背を向けてその場を去ろうとした。
瞬間、俺の体は無意識のうちに走り出した。
───嗚呼、この男は生かしては行けない存在だ。
頭の奥で何かが切れた。
俺は生まれて初めて、自分の意思で人を殺そうと思った。走り出した足、握りしめたナイフ。人間の急所は嫌だと言うほど頭に叩き込んできた。俺は肝臓の辺りを狙い、ナイフを振りかぶった。
その一瞬、目の前にいたはずの父親が消えた。驚きの声を出す暇もなく、俺の首に手がかかる。
振り返れば父が立っていた。
「ふむ……。走り出しは悪くない。しかし、殺意を消さないのはまだまだ青いな。本当の殺意というものはな……」
ニタリと笑みを浮かべ、言う。
「殺す瞬間ですら相手に悟らせないものだ」
わかったか?そう耳元で囁き、今度こそそいつは俺の目の前から去っていった。
恐怖から開放された安堵からなのか、人を助けられなかった悔しさからなのか。俺の目からは涙が溢れてきた。ボロボロとこぼれ落ちるそれは絨毯へと染み込んで消えて行く。
「くそ……!くそ……っ!なんでだよ……!!!」
忘れていたあの匂いが鼻の奥を駆け巡る。匂いが、記憶にこびりつく。忘れるなと叫んでくる。
忘れられるわけがない。
喉が切れそうな程泣き叫ぶが誰も返事をしてくれない。そんな虚しさが、また涙を増幅させる。
「なんじゃ、随分な姿じゃのう。テラ坊」
ふわりと風が舞い込む。窓が開かれた。
窓から覗くのは、赤い長髪を靡かせるメイド姿の───
「誰だ、お前」
「妾の事を忘れるな!無礼者!」
ドロップキックと共にお見舞いされた言葉に、俺は意識を手放すのだった。




