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娘のためなら、熊殺しを半殺しにいたします  作者: 鶴見 日向子


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失った時間は戻らない

タイトルの通りです

「私など、公爵様の母を名乗る資格などございません」


部屋に入ったアレク夫妻が耳にしたのは、クリスティーネのそんな言葉だった。


「え?


どうして、そういう話になっているのですか?」


アレクが目を丸くする。


「ここに母上として住んでいただくよう、今、説得していたところなのだが……」


公爵がため息をついた。


「公爵様を産んだことは認めます。


ですが、育てておりません。


産むだけなら、母親とは申せません。


一番大切な時期にそばにいなかった私は、本当の母ではございません」


クリスティーネは、何度もそう繰り返した。


「そんなことありません」


リリアが口を開いた。


「お腹に入ったら産むしかありませんけれど……。


産むことは、決して簡単ではありません」


リリアの目に涙が浮かぶ。


「すごく、すごく痛かったです。


腰の骨が砕けるのではないかと思うほど痛かった。


それなのに、


『出産時間が短かったから、よかったですね』


と言われて……。


私は、とても傷つきました」


クリスティーネが、驚いたようにリリアを見る。


「おばあ様は、私よりも小柄です。


しかも十五歳なんて、まだ体も十分に大人になりきっていなかったはずです。


お産は、大変だったのではありませんか?」


リリアが尋ねた。


クリスティーネは、しばらく黙っていた。


「もう、ほとんど覚えておりません。


ですが……確かに痛かった。


それだけは覚えています」


その目が遠くなった。


「私は短い時間でこの子を産みました。


それでも私は、キャロルの母親です」


リリアは、きっぱりと言った。


「育てられなかったから母親ではないなんて、違います」


そして、さらに続ける。


「自分から捨てて離れたわけではありません。


たった十五歳で、肉親もいなくなった妻を娼館へ売り飛ばすなんて……」


「そうです!」


今度はアレクが叫んだ。


「あのハゲは人でなしです!


父上。


もう『ハゲ』は、我が家の家系図から消すべきです!」


「ハゲ?」


公爵が目をぱちぱちさせた。


公爵夫人は、必死に笑いをこらえている。


クリスティーネは大真面目な顔で訂正した。


「『ハゲ』ではなく、『かつら』です」


公爵夫人の肩が、さらに震えた。


椅子をつかみ、必死に耐えている。


だが――


「……違うわ」


クリスティーネの表情が変わった。


遠い目をする。


「本当は、私……逃げたのです」


一同の表情が止まった。


「そして、娼館の女主人に持ちかけました。


『私と入れ替わらない?』と」


「え?」


公爵とアレクの顔色が変わった。


「娼館の女主人が話したことと違うぞ?」


クリスティーネは静かに笑った。


「髪が薄いことも、太っていることも、我慢できました。


ですが、『口臭』と『体から発する臭い』が、どうしても駄目で……。


何より、あの人の人間性が許せなかったのです」


アレクの顔が引きつる。


「娼館の女主人が、


『侯爵夫人になれるのなら、私は全然かまわない』


と言ったので、


『では、交代して』


と言いましたの」


クリスティーネは、少し苦笑した。


「私も、若かったのです」


そして静かに続けた。


「もし、本当に何の準備もなく娼館へ売り飛ばされただけだったなら……。


私は逃げ出して、顔見知りの貴族へ助けを求めていたと思います」


公爵とアレクは、言葉を失った。


公爵夫人の肩の震えも、ぴたりと止まっていた。


「十五歳ですもの……」


リリアが静かに言った。


「無理もありません」


アレクは遠い目をした。


「リリアが十五歳の頃、


『王太子妃に』


という話が出た時も、年齢を理由に待ってもらった」


そして、クリスティーネを見る。


公爵も、少し困った顔をした。


「実は……。


こうして改めて対面してみると、あまりにもお若く見えてな。


『母上』とお呼びするのに、少々戸惑いが出てきている」


「私もでございます」


公爵夫人が苦笑した。


「お年が近すぎますもの。


ですが……一緒に暮らしていただきたい気持ちは変わりません」


その時、アレクが何かを思い出した。


「そうだ。


王太子夫妻が、王子の教育係を探しておられます」


「私でございますか?」


クリスティーネが驚いた。


「皆で話していて、おばあ様がぴったりなのではないかという話になりました」


アレクが言う。


「明日、一緒に城へ参りましょう。


王子を、ぜひ一度見てほしいそうです。


相当やんちゃで、大人の言うこともほとんど聞かないと、王太子妃殿下が嘆いておられました」


クリスティーネは、少し考え込んだ。


「いろいろな原因が考えられます。


実際に見てみなければ、何とも申せませんが……」


「では、見てくださるのですね?」


アレクの顔が明るくなる。


「お子様の話を聞くと、放っておけないのです」


クリスティーネは微笑んだ。


「ここへ来たのも、キャロル様がどのように育っていらっしゃるのか、自分の目で確かめたかったからでございます。


今のところ、とても順調そうで安心いたしました」


「では、決まりですね」


アレクがうなずいた。


「明日、我々と一緒に登城しましょう。


おばあ様をご存じだという老婦人も、城へ来てくださるそうです。


お会いになればよいと思います」


「私を知っている?」


クリスティーネが不思議そうな顔をした。


「城に知り合いなど、いたかしら……」



「まあ、今日はゆっくりお休みくださいませ」


執事が一歩前へ出た。


「長旅でお疲れでございましょう。


お部屋には浴槽がございます。


お着替えやご入浴は、侍女がお手伝いいたします」


そして、淡々と予定を説明していく。


「その後、皆様で夕食を。


今夜は早めにお休みください。


明日は登城の準備がございますので、朝が少々早くなります。


お支度をお手伝いする侍女も、お部屋へ向かわせます」


クリスティーネは、執事の顔をじっと見た。


「フランなのね……。


あのフランが、こんなに立派になって……」


その目が潤む。


「クリスティーネ様のおかげでございます」


執事の目にも、懐かしそうな光が宿った。


「あの頃は、本当にいろいろと教えていただきました」


「おひげがあるから、最初は分からなかったわ。


でも、声と話し方で分かりました」


クリスティーネが笑う。


執事も、わずかに口元を緩めた。


「マーガレット様とは、最初は面識がございませんでした。


ですが、父に言われて、正体が悟られぬよう、ひげを生やしました」


執事の目が遠くなる。


「まさか、あの『噂のマーガレット様』が侯爵家へ入ってこられるとは、夢にも思いませんでした」


そして、静かに続けた。


「最初の頃は、気さくに話しかけてくださいました。


ですが、城へ上がられ、戻ってきた後は、人柄がすっかり変わってしまった」


クリスティーネの顔が曇る。


「誰とも話そうとせず……。


その後、前侯爵が、そのままどこかへ連れていかれました」


「プロムフェナク伯爵家へ嫁がせたのですね」


公爵が言った。


「はい。


そして、そのまま亡くなられました」


執事の表情が寂しげになる。


「マーガレット様の方が年上でしたが、私を弟のように扱ってくださって……。


私は、密かに胸をときめかせておりました」


アレクが、ちらりと執事を見る。


執事は構わず続ける。


「やがて、


『お兄様が好き。結婚したい』


と、私へ話されるようになりました」


執事は、ほんの少し苦笑した。


「好きな女性の恋の話を聞かされるのは、なかなかつらいものがございました」


そして、表情を引き締める。


「その後、元侯爵はマーガレット様を城へ連れていき、妻子ある王弟殿下のもとへ……。


やがて王弟殿下は亡くなられ、マーガレット様の妊娠も明らかになった」


執事の目が遠くなった。


「私は……何のためにマーガレットを必死に育て、教育したのでしょう……」


クリスティーネが、悲しそうに言った。


「そなたたち、知り合いだったのか?」


公爵が目を丸くする。


「父の使いで、私はよく娼館へ行かされておりました。


その際、クリスティーネ様には大変お世話になりました」


執事の目が再び遠くなる。


「まさか、だんな様の本当の奥様であったとは、まったく存じませんでした。


こんな形で再会するなど、夢にも思いませんでした」


公爵の目が鋭くなった。


「では、マーガレットがわしの実の妹ではないと、知っていたのか?」


「いいえ。


そこまでは存じませんでした」


執事は、きっぱり答えた。


「もしかすると、元侯爵が娼館の女性に産ませた子なのではないかと、当時は思っておりました。


私はまだ見習いでした。


父に言われた通りに動いていただけでございます」


「……分かった。


疑ってすまなかった」


公爵がため息をついた。


アレクがクリスティーネへ向き直る。


「とにかく、続きはまたにしましょう」


そして、少し笑った。


「おばあ様。


もう、逃げないでくださいね。


約束です」


クリスティーネは、しばらくアレクを見つめた。


やがて、優しい目で笑う。


「約束と言われたら、もう逃げられませんね。


分かりました。


しばらくは、ここにおります」


そうしてクリスティーネは、執事と侍女に案内され、部屋へ向かった。



残された公爵夫妻とアレク夫妻は、しばらく顔を見合わせていた。


やがて、リリアがぽつりと言った。


「生きていた。


再会できた。


だから、よかった、万歳……ではないのですね」


「私も……」


アレクが言う。


「父上とおばあ様が再会さえすれば、すべて丸く収まるものだと思っていました」


公爵が静かに口を開いた。


「『逃げ出した』というのは、嘘かもしれぬ。


だが……本人にとっては、本当でもあるのだろう」


公爵夫人がうなずく。


「娼館へ売られた後、自分の身を守るために女主人と交渉し、


『立場を交換する』


という形で生き延びた。


そういうことなのかもしれません」


「昔のことだ」


公爵は目を閉じた。


「クリスティーネ様も、女主人も、当時の記憶が少しずつ違っているのかもしれぬ」


そして、ゆっくり息を吐いた。


「もう、過去はよい」


公爵は言った。


「何がどこまで真実だったのか。


それをすべて突き止めたところで、失った時間は戻らぬ」


目を開ける。


「私はただ、これからの人生を幸せに過ごしていただきたい。


今は、それだけだ」


全員が、静かにうなずいた。


クリスティーネが今から「母親らしいこと」を取り返そうとしても、公爵はもう、母にご飯を食べさせてもらったり、叱ってもらったり、手を引いて歩いてもらったりする年齢ではない。


むしろ今は、


公爵がクリスティーネに安心できる住まいを用意し、生活を守り、これからの人生を支える側。


親子の立場が、もう逆転しているんですよね。


でも、だからといって再会に意味がないわけではない。


公爵にとっては、


「自分は母に捨てられたのではなかった」


と分かったことだけでも、幼い頃から抱えていた傷がかなり救われる。そしてクリスティーネにとっても、


「自分が育てられなかった息子が、立派な父親になり、祖父になり、家族に愛されている」


と自分の目で確かめられた。


チャッピーの解説です

私が書きたかった事をちゃんと理解してくれています

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