前侯爵の知られざる姿
娼館の人達から見た、前侯爵の話
「ちょっと待ってちょうだい。
マーガレットが亡くなったの?」
クリスティーネの顔から、さっと血の気が引いた。
「詳しいことは、公爵邸でお話しします。
ここでは話せません。
馬車にお戻りください」
レオンが言った。
「私は先に行く。
クリスティーネ様と子供たちに負担がかからない速度で頼むぞ」
「かしこまりました」
御者が答える。
レオンは、オットーへ視線を向けた。
「そなたも詳しい話を聞きたいのなら、馬車に乗るがいい。
特別に聞かせてやる。
セリーが何をしたのかをな。
全部聞いた後では、二度と『無実だ』などと言えなくなるぞ」
「私は、あるお方から頼まれて……。
私自身も、セリー様は無実だと信じていたので、あそこで演説をしていたのです」
オットーの顔は青ざめていた。
「それは、ますます馬車に乗ってもらわなければならないな」
レオンが、馬車のそばにいる護衛へ目配せをする。
護衛が馬から降り、オットーの肩をつかんだ。
「手荒なことは、やめてちょうだい」
クリスティーネが声を上げる。
「抵抗しなければ、何もしない。
いいな、オットー?」
レオンが言った。
「私もいるわ。
おとなしく馬車に乗ってちょうだい」
ジャンヌも声をかける。
そして、改めてオットーの顔を見た。
「オットーだったのね。
分からなかったわ。
久しぶり。元気そうね」
「ジャンヌ……。
こんな立派な馬車に乗っているなんて……」
オットーは驚いた顔で、ジャンヌを見つめた。
「さあ、アレクたちを待たせたら申し訳ない。
さっさと乗ってくれ」
そう言われ、オットーも馬車へ乗り込んだ。
クリスティーネも、レオンに手を貸してもらいながら馬車へ戻る。
「少々窮屈になったが、もうすぐだ。
我慢してくれ」
「大丈夫です」
ジャンヌは、にこにこと笑った。
「よし。
全員乗ったな。
では、私は先に行く」
そう言うと、レオンは馬に乗り、走り去っていった。
「いったい……どういうことなのだ?」
オットーは、ただ驚くしかない。
「そうよね。
私も、とても驚いたわ」
ジャンヌが笑う。
「『バクラス』という名前は仮の名前だったのよ。
本当は『レオン』というお名前だったのですって」
「そうだったのか……」
オットーは、まじまじとジャンヌを見た。
「それにしても、ジャンヌの頬の傷、ずいぶん薄くなったな。
よく見ないと分からなかった。
傷が目立たなくなると、美人なのだな」
オットーが感心したように言う。
「呼び捨てはいけません、オットー」
クリスティーネが、ぴしゃりと言った。
「今は、プロムフェナク侯爵夫人です」
「ええっ!?
侯爵夫人!?
何で!?」
オットーが叫ぶ。
「これ以上騒ぐのなら、馬車から降ろして、護衛の騎士様の馬に乗せますよ」
クリスティーネが静かに言った。
その時――
ジャンヌの腕の中にいた赤ん坊が、泣き出した。
「ああ、もう!
オットーのせいで目を覚ましてしまったじゃない!」
ジャンヌは、思わずオットーの足を蹴った。
「奥様。
そういう行為は、貴族夫人としてなさってはいけません。
はしたないです」
クリスティーネが、すぐにたしなめる。
「ごめんなさい。
つい……」
オットーには、もう何が何だか分からない。
そうして馬車は、公爵邸の門をくぐった。
◇
公爵邸の玄関前に馬車が到着すると――
そこには、アレクシス夫妻、レオン、アンドル夫妻とその娘。
そして、王太子夫妻までが待ち構えていた。
「ようこそ。
長旅でお疲れでしょう。
お部屋も用意しております。
まずは中へご案内いたしますね」
馬車から一番先に降りたのは、オットーだった。
続いて、レオンの息子を降ろし、手をつなぐ。
その姿を見たアンドルが叫んだ。
「なんだ!?
オットーではないか!
なぜ、そなたがこの馬車に乗っているのだ?」
「あれ?
お知り合いですか?」
レオンの目が丸くなる。
「知り合いというか……うちの侍従だ。
娼館が解体された時、行き場がないというのでな。
優秀そうだったから、うちで雇った」
アンドルが答える。
「ああ、なるほど」
レオンは苦笑した。
「まあ、優秀かどうかは……。
今回は『成り行き』だ。
目をつぶってくれ」
オットーは、何が何だか分からず、その場に立ち尽くしていた。
「跪きなさい」
馬車から降りたジャンヌが、厳しい声で言った。
「貴族の中でも、非常に身分の高い方々です」
「え?
え?」
オットーは、慌てふためく。
だが、そう言った本人であるジャンヌは、そのまま立っていた。
それを見たレオンが、困ったような顔をする。
「そうか。
ジャンヌは覚えていないのか。
アレクとリリアの結婚式の時に、お会いしただろう?」
「え?」
ジャンヌは王太子夫妻の顔を見た。
次の瞬間――
顔色が真っ青になった。
「ええええっ!?」
そう叫ぶと、赤ん坊を抱いたまま、その場に跪こうとする。
「やめなさい」
王太子妃が笑った。
「赤ん坊を抱いて、小さな子まで連れているのですもの。
無理をしなくていいわ」
最後に、クリスティーネがアレクに手を貸してもらいながら、ゆっくりと馬車を降りてきた。
王太子が興味深そうに見つめる。
「このご婦人が、『例の』?」
「はい。
間違いないと思っております」
アレクが笑った。
「そうだな……。
実に気品がある。
ただのご婦人ではない」
王太子の目が光った。
「さあ、皆様。
中へどうぞ」
扉の前で待っていた執事が、丁寧に頭を下げた。
その顔を見たオットーが、突然叫ぶ。
「そなた……フランでは?」
執事の眉が、ほんのわずかに動いた。
「間違いない!
フランだ!
あのハゲ野郎の執事の息子で、見習いだった!」
オットーが執事へ近づく。
執事は静かに微笑んだ。
「仕事中に、個人的な名前で呼ばないでください。
今は、公爵家の執事でございます」
「ハゲ野郎……って、元侯爵か?」
アレクが目を丸くして、オットーへ尋ねる。
「ああ、そうだよ。
デブでハゲ。
しかも『あれ』が時々落ちそうになってな。
笑いをこらえるのが大変だった。
偉いお貴族様だったらしいけれど、皆、陰ではそう呼んでいたよ」
アレクの肩が、突然震え始めた。
「あなた?
どうしました?」
キャロルを抱いたリリアが、慌ててアレクへ近寄った。
アレクの目からは、涙がこぼれていた。
「うん……。
ちょっとな……」
アレクは途切れ途切れに、言葉を絞り出した。
レオンも唇を固く結び、必死に何かをこらえている。
ジャンヌは、思い切り肩を震わせていた。
そして――
いつもは完璧な表情を崩さない執事ですら、どこか様子がおかしかった。
「そなたら、いったいどうしたのだ?」
王太子が、驚いた声を上げた。
「とりあえず、中へお入りくださいませ」
執事の声が、心なしか震えて聞こえる。
王太子夫妻を先頭に、皆が屋敷の中へ入り始めた。
「さあ、早くお部屋へ」
執事の声は、さらに震えている。
その中で、クリスティーネだけは比較的冷静だった。
「ジャンヌ様、露骨です。
少し、お耐えくださいませ」
そう言いながらも、クリスティーネ自身の唇の端も、わずかに上がっていた。
◇
全員が、広い居間へ案内された。
なぜか、オットーまで一緒についてきている。
アンドルに連れてこられたのだ。
「元侯爵を『ハゲ野郎』などと呼ぶとは、いくら何でも失礼すぎるだろう」
本来は、オットーを叱責するためだった。
だが――
アレクは、とうとう耐えられなくなった。
「はははははっ!」
声を上げ、そのまましばらく笑い続けた。
レオンも、声こそ出さないものの、完全に笑っている。
ジャンヌなど、子供を抱いていなければ床に転がりそうな勢いだった。
「若だんな様、いけません。
たとえ本当のことであったとしても、もう故人でございます」
執事がたしなめる。
だが、その声の震えはまったく収まっていなかった。
「ああ……すっきりした!」
ようやく息を整えたアレクが、オットーの肩を叩く。
「そなたには礼を言うぞ。
私たちは、思っていても口には出せなかったからな」
「え?
『ハゲ』ということは、お父様のお父様って、髪の毛がなかったのですか?」
キャロルを抱いたリリアが、きょとんとして尋ねた。
「肖像画には、ちゃんと髪の毛がありますよ?」
その一言で――
アレクは再び、笑いの世界へ引き戻された。
レオンとジャンヌまで、また吹き出す。
クリスティーネが、リリアへそっと耳打ちした。
「『かつら』だったのでございます。
それも……かなり分かりやすいものでしたけれど」
「まあ、そうなのですね。
お父様は、ふさふさですのに」
リリアがにこりと笑った。
その言葉を聞きながら、クリスティーネはリリアの顔をじっと見つめていた。
「あなた様が……アレクシス様の奥様でございますか?」
クリスティーネの顔は、なぜか今にも泣き出しそうだった。
「はい。
そうですけれども……?」
アレクたちは、まだ笑いをこらえている。
その一方で、クリスティーネは泣き出しそうな顔をしている。
リリアには、何が何だか分からなかった。
王太子夫妻とアンドル夫妻も、きょとんとしている。
執事だけは、何事もなかったかのように、あえて姿勢を正していた。
「娼館の下働きの者たちは、実に率直だったのですね」
そう言う執事の声も、まだ震えている。
「いったい、何なのです?」
その時、公爵夫人が、お茶のワゴンを押す侍女と共に居間へ入ってきた。
そして、室内を見渡す。
「王太子殿下、妃殿下。
お待たせして申し訳ございません。
それにしても……。
いったい、なぜ息子とレオン様とジャンヌ様は、そんなに笑っているのです?」
「そうだなあ……」
王太子は、やれやれという顔をした。
「どうやら、三人だけが共有している強烈な『思い出』が、笑いを誘っているらしい」
「ハゲが、どうしてそんなにおかしいのでしょう?
珍しいことでもないでしょうに」
王太子妃が首を傾げた。
そこでクリスティーネが、
「恐れながら」
と一歩前へ出た。
「まったく似合っていないかつらを被り、気取って娼館へ出入りしていたからでございましょう。
私は直接見たことはございませんが、当時、いろいろと噂を耳にいたしました。
来た時と帰る時で、かつらの向きが違っていたとか。
一度落としたものを、裏返しのまま頭へ載せようとしたとか……」
「最初は、普通だったらしいのです」
アレクが口を挟む。
「時間が経つにつれて、だんだん『離島』が増えていったとか……」
「生々しすぎる。
もうやめなさい、アレク。
そなただって、将来は分からぬぞ」
王太子がたしなめた。
「ええ。
ですが、私なら潔く見せます」
アレクは、ようやく笑いを収めながら言った。
「髪が薄くなること自体が悪いのではありません。
それを隠そうと必死になって、かえって見苦しくなっていたのが、おかしかったのでしょう」
「私は、いつも侯爵様にぺこぺこしていたオットーが、陰ではそう思っていたと知ったのが、おかしかったのです」
ジャンヌが、笑いすぎて流れた涙を拭きながら言った。
「私は両方だな」
ジャンヌから娘を受け取り、あやしながらレオンが言う。
その時――
王太子妃は、公爵夫人の肩までわずかに震えているのを見逃さなかった。
「もう、やめましょう」
王太子妃が笑いながら言った。
「座りましょう?
今さら『ハゲ』に振り回されるなんて。
せっかくの貴重な再会の時間ですもの。
段取りが狂ってしまいます」
「そうですよ。
私は、アレクシス様が禿げても、ずっと愛し続けますから。
笑いませんよ」
リリアが大真面目な顔で言った。
「だから、そういう話ではない」
アレクが額を押さえた。
「まあ、妃殿下のおっしゃる通りだ。
母上、妙なことになってしまって申し訳ない。
こちらが、クリスティーネ様です」
アレクは頭の中から『ハゲ』という言葉を振り払うかのように、何度か首を振った。
そして、改めて母へクリスティーネを紹介する。
「お初にお目にかかります。
ルドルフの妻、ローズマリーでございます」
夫人はクリスティーネの手を取り、丁寧に膝を折った。
「公爵夫人が、私などに膝を折られるなんて、とんでもないことでございます!」
クリスティーネは慌てて、自分の方が跪いた。
「それをやっていると、いつまでたっても終わらないから、とりあえずそこまでにして。
両殿下の御前でもあるし」
アレクが二人を制する。
「ずっと両殿下を放置して爆笑していたそなたが、言うべき台詞ではない」
アンドルがため息をついた。
「さあ、お茶を」
執事が、何事もなかったかのように給仕を始めた。
「そなたも笑っていただろう」
アレクが突っ込む。
「さあ?
私は、途中で風に飛ばされたかつらを拾いに行かされたことなど、一言も申し上げておりません」
「もう、やめてくれ……」
アレクの肩が、また震え始める。
「若だんな様。
これも試練でございます」
「そうなのね、執事さん。
わざとアレク様を笑わせて、耐える訓練をしてくださっているのね」
リリアが大真面目な顔で言った。
「違うと思うぞ」
アレクが疲れた声で返した。
その時――
アンドルの視線がオットーへ向いた。
「ところで、オットー」
笑いが消える。
「そなた、いったいなぜ、あの馬車に乗っていたのだ?」
オットーが目をそらした。
「えっと……」
「正直に言わないと、侍従を辞めさせるぞ!」
アンドルが声を強める。
「いえ!
言えません!」
オットーが慌てて首を振った。
「私の主人は伯爵様です。
私は、伯爵様に言われた通りのことをしただけです!」
「はあ?」
アンドルが眉をひそめる。
「エピナスチン伯爵が、そなたに何を命じたのだ?」
その瞬間――
レオンの笑顔が、すっと消えた。
「……どういうことだ?」
先ほどまでの和やかな空気が、一変した。
まあ、薄毛はどうしようもありません。
いいお薬ができるといいなと思います。
中身のなさが表に出ていたので「滑稽」に見えたという話
お読みくださりありがとうございます




