熊殺し
ダハント登場
長いです
ダハントは、かなり体力を取り戻していた。
顎は歪んだままで痛みもあったが、食事は取れるようになっていた。
ある日。
ダハントが食事をしていると、見張りの騎士の一人が突然、脂汗を流しながら腹を押さえた。
「厠へ行ってくる。すまぬが、少しの間頼む」
そう言い残し、もう一人の騎士を残して走り去っていった。
残った騎士が、ダハントの腰綱をつかもうとする。
ダハントは、その瞬間を見逃さなかった。
騎士に思い切り体当たりを食らわせる。
そして――
「急所」を蹴り上げた。
騎士は、その場に倒れ込んだ。
「あの小僧……。
いい方法を教えてくれた」
そう言いながら、ダハントは倒れた騎士の腰から剣を鞘ごと抜き取った。
そして看守を剣で脅し、鍵を開けさせる。
そのまま素早く外へ飛び出し、厩へ走った。
途中、騎士たちが止めようとしたが、体力を取り戻したダハントの勢いを止めることができなかった。
厩へたどり着くと、世話係たちを剣で脅し、自分の体格でも乗れそうな大きな馬に馬具をつけさせた。
さらに、たまたま通りかかった侍女を人質に取り、城門まで馬を走らせる。
城を出ると、侍女を馬上から突き落とし、そのまま走り去った。
「あの小僧と小娘……待っていろ。
小僧の頭を割り、娘は慰み者にしてやる!」
ダハントは、ひたすら国境を目指した。
◇
その知らせは、すぐにアレクたちの国へ届けられた。
「おそらく、関所を避けて遠回りしているものと思われます。
くれぐれもご注意ください」
使者が、国王夫妻と王太子夫妻の前にひざまずいて報告した。
「よく知らせてくれた。
しかし、すでに入国している可能性もあるな」
国王が言う。
「いえ。
途中で落馬したようです。
馬だけが城へ戻ってまいりました。
世話係が、わざと傷んだ鐙を取りつけたそうでございます」
使者が苦笑した。
「国内では、ほかに馬が盗まれたという情報は入っておりません。
あの者の体格では、乗れる馬も限られております。
あれほどの長身です。
人目につけば、すぐ分かるかと思われます」
「油断は大敵です」
王太子妃が険しい顔で言った。
「陛下。
国内にも警告を出してください。
あれは、本当にとんでもない男です。
こちらの法律では処罰が軽くなってしまうからと、あちらへ帰したのが間違いでした」
王太子妃は唇をかんだ。
「逃がしたなんて……。
何のためにリリアに怖い思いをさせ、アレクを危険な目に遭わせたの?
これでは、何の意味もないじゃない!」
王太子妃は、思わず使者に怒りをぶつけた。
そして、自国の言葉で続ける。
「あなたたち男はいいわよね。
侍女たちが、どれほどひどい目に遭ったのか分かっていないから、そんな呑気な報告ができるのでしょう?」
「この者に言っても仕方があるまい。
もうやめなさい」
王太子がたしなめた。
「だって……悔しいのです……」
王太子妃の目から涙がこぼれた。
「分かった。
あれが狙うとすれば、アレクだ。
それとリリア。
公爵家へ、今すぐ早馬を飛ばせ」
王太子が指示を出した。
一人の騎士が敬礼し、部屋を出ていく。
「何事もなければよいのだが……」
皆の顔は険しかった。
◇
「腹が減った……」
その頃、ダハントは森の中をさまよっていた。
しばらくは順調だった。
だが、一度休憩のために馬から降り、再び乗ろうとしたところで鐙が切れた。
体勢を崩したダハントは、馬から転げ落ちた。
驚いた馬は、起き上がろうとしたダハントを後ろ脚で蹴り、そのまま走り去ってしまった。
ダハントの体には蹄の跡がつき、頭からは土埃をかぶっている。
「いったい、どうして俺様がこんな目に……」
「おい。
そこのお前、何をしている?」
声をかけたのは、木こりらしい老人だった。
ダハントが振り向くと、老人の顔がみるみる引きつった。
「でかい男だな……。
それに何だ、その下顎は!」
ダハントは何も言い返さなかった。
老人は、しばらくその顔を眺める。
「もしかして、熊にやられたのか?」
(くま?
何だ、それは?)
ダハントは熊を知らなかったが、とりあえずうなずいた。
「そうか。
熊なら仕方あるまい。
命が助かっただけでもよかったと思うことだな。
あれにやられると、命は助かっても失明したり、顔をひどく傷つけられたりすることもある。
顎だけで済んだのなら、まだ運がよかった」
「道を教えてほしい。
隣国へ行きたい」
ダハントの発音は不明瞭だったが、何とか通じたらしい。
「村に、近いうち材木を届けに行く若い衆がいる。
それに乗せてもらえばいい。
しかし……でかいなあ。
荷車に乗れるか?」
老人が首を傾げた。
ダハントは金目の物を何も持っていなかった。
(この老人から奪ってやろう)
ダハントの目が光った。
その時だった。
「父さん、お弁当を持ってきたよ。
おや、誰だい?
その大きな男は……。
あちゃあ、顎が変だね。
まあ、顎がまともでも、あまりいい男ではなさそうだけど」
老人の娘らしい中年の女性がやってきた。
「熊にやられたらしいぞ」
木こりが言う。
すると、女は眉をひそめた。
「熊?
この森に熊なんていないよ。
どこの森で遭ったんだい?」
女は、ダハントを上から下まで眺めた。
そして――
「それ、囚人服じゃないのかい!」
女が叫んだ。
ダハントは、女の手から弁当をひったくると、そのまま森の奥へ走って逃げた。
「父さん!
何を呑気に話していたのよ!
あれは脱獄囚だよ!
すぐ城に知らせに行って!」
こうして、ダハントの目撃情報は、まだ国内だけにとどまることになった。
◇
奪った弁当は質素なもので、老人向けのはずなのに、硬い干し魚や干し肉が入っていた。
ダハントの顎では、うまく噛み切ることができない。
牢では、顎の状態に合わせて柔らかい食事が出されていた。
仕方なく、しばらく口の中でしゃぶって柔らかくする。
「牢の飯の方がましだった……。
これも、あいつらのせいだ!
必ず国境を越えてみせる!」
ろくに腹は満たされなかった。
川の水を飲み、そのまま歩き出す。
そして今度は、腹を下した。
川の水は、動物の排泄物などで汚染されていたのである。
元王族であるダハントには、野宿の知識など皆無だった。
騎士であれば、野外で生き延びるための知識も学んでいただろう。
それでも何とか、沢の水を飲み、食べられそうな木の実などを口にしながら歩き続けた。
国境を越えたのは、脱走から数週間が経った後だった。
◇
脱走直後には各地へ警告が出されていた。
だが、時間が経つにつれて、少しずつ警戒は薄れていた。
よろよろと歩く、ぼろぼろの身なりをした大男。
ダハントは、そのまま町を目指していた。
すれ違う者はほとんどいない。
たまに人と出会っても、ダハントの姿を見るなり顔をしかめ、遠巻きに避けていった。
「ちくしょう……。
絶対に『復讐』してやる」
ダハントの頭には、
『こうなったのは、すべてあの二人のせいだ』
という考えしかなかった。
だが――
ダハントは、公爵家がどこにあるのか知らない。
そのうえ、森の中の道まで途切れてしまった。
「何だ……?」
近くから、獣の唸り声が聞こえる。
ガサガサと茂みが揺れた。
そして現れたのは――
ダハントが今まで見たこともない、大きな黒い獣だった。
獣は後ろ脚で立ち上がる。
ダハントは驚いたが、すぐに剣を抜いた。
獣が襲いかかってくる。
ダハントは剣を振り回し、必死に何度も突き刺した。
そのうちの一撃が急所に当たったらしい。
やがて獣は倒れ、そのまま動かなくなった。
だが、ダハントの剣も折れていた。
「はあ……はあ……」
ダハントは、ようやく息を吐いた。
すると――
「おい、お前。
すごいな!」
誰かに声をかけられた。
人間だった。
だが、言葉が分からない。
ダハントは必死になって、
「アレクシス!
リリアーナ!
こうしゃく!」
と知っている言葉を連発した。
「公爵家に行きたいのか?」
男が尋ねる。
ダハントには意味が分からなかったが、とりあえず大きくうなずいた。
「うーん……。
じゃあ、こいつを運ぶのを手伝ってくれたら、連れていってやるよ」
男は倒れた獣を指さした。
「ここは、公爵家の領地内だからな」
ダハントには言葉の意味は分からなかった。
だが、男についていけばよいらしい。
男と一緒に獣を荷車へ乗せるのを手伝い、その後ろを押して歩いた。
一時間ほど歩くと、大きな屋敷が見えてきた。
「アレクシス?
リリアーナ?
こうしゃく?」
ダハントは屋敷を指さし、男に必死に尋ねた。
男はうなずいた。
「そうだ。
あそこが公爵邸だ」
ダハントは、にやりと笑った。
そして突然、その方向へ走り出す。
「おい!
待て!」
男が叫んだが、ダハントは振り返らない。
一目散に屋敷を目指した。
公爵邸は高い塀に囲まれ、正門には槍を持った門番が立っている。
「剣があれば……」
ダハントは唇をかんだ。
塀の周囲をうろうろしていると、裏側に小さな戸口を見つけた。
使用人たちが使う裏木戸だった。
鍵がかかっている。
その時、先ほどの男が、獣を載せた荷車を引いてやってきた。
「偶然、熊が捕れたんだ。
公爵様に進呈したい」
男はそう言って身分証明書を見せ、裏木戸を開けてもらっていた。
(しめた!)
ダハントは、荷車の後ろに紛れて中へ入った。
「この男は何だ?」
使用人が猟師の男に尋ねようとした、その瞬間。
二人はダハントに殴り倒されていた。
「待っていろよ……。
小娘!
小僧!」
こうしてダハントは、公爵邸への侵入を果たしたのだった。
チャッピー曰く
「ここは公爵家の領地内だからな」
で笑いました。
ダハント、そこで運を使い果たしたな。
という感じです(笑)
だそうです。
チャッピーの感想を聞きながら校正してもらうのは楽しいです
お読みいただきましてありがとうございます




