第2話:京の闇、僧侶の知略
「……お初にお目にかかります、織田大膳大夫信澄様。噂には聞いておりましたが、織田家の貴公子がまさかこのような下卑た茶屋で私を待っておられるとは」
京の洛外、人目を避けるように佇む寂れた茶屋の奥座敷。
現れたのは、毛利家の外交僧・安国寺恵瓊だった。
ふくよかな体躯に似合わぬ鋭い眼光が、私を値踏みするように見つめる。
私は茶を一口啜り、落ち着いた声で応じた。
「噂などどうでもいい。恵瓊殿、毛利家が信長公に対して抱く『怨恨』と『恐怖』。その根の深さは、貴殿のような策士こそが一番理解しているのではないか?」
恵瓊の眉がピクリと動いた。
毛利家にとって信長は、西国進出を阻む最大の脅威だ。
彼らが水面下で何を画策しているか、歴史を知る私には明白だった。
「……面白い。織田の身内でありながら、信長公の威光に頼らぬ物言い。で、その『織田の甥』が、毛利の隠密であるこの私に何の用です?」
私は懐から、一通の地図を取り出した。
それは、近畿周辺の兵站路と、明智軍の現在地を記したものだ。
「光秀殿の動向を追っている。……いや、光秀殿がこの先、どのような『過ち』を犯そうとしているか、貴殿も薄々察しているはずだ」
「……!」
恵瓊の表情から余裕が消えた。彼は扇子で口元を隠すと、声を潜めた。
「信澄殿、お言葉が過ぎますぞ。明智殿は信長公の右腕。それを『過ち』と呼ぶのは、己の首を吊るのと同じこと」
「右腕が、切り落とされようとしているのだとしたら?」
私はあえて断定的に言い放った。
恵瓊の瞳が真剣なものへと変わる。
歴史の知識という名の「予知」を、あくまで「洞察」という形で提示する。
「信長様は近々、中国攻めを控える秀吉殿の援軍として、自ら西国へ出陣する。その際、留守を預かる京には『誰』が残る?……明智光秀ではない。信長公は、光秀殿をあえて最前線に配置し、その隙に京の支配権を完全に奪い去るつもりだ」
これは嘘ではない。歴史上、光秀が追いつめられた最大の要因は、信長の冷酷なまでの「配置転換」にあった。
「……なるほど。光秀殿が、己の立場を奪われる前に『最後の一手』を打つかもしれない、と」
恵瓊は興味深そうに、しかし冷徹に思考を巡らせ始めた。
「毛利としても、信長公が京を離れ、毛利との決戦に集中すればたまったものではない。信澄殿、あなたは光秀殿を『止める』ことで、何を望むのです?」
「光秀殿を止めるのではない。……彼を救い、織田家を安定させ、結果として毛利家の存続も約束させる」
私は恵瓊の目を真っ直ぐに見据えた。
「京で光秀殿の『謀反の芽』を摘むための協力が欲しい。報酬は、信長公の出陣計画そのものだ。貴殿らが喉から手が出るほど欲しがっている情報を、私は提供できる」
沈黙が座敷を支配した。
外では蝉の声が喧しく響いている。
この交渉が失敗すれば、私は明智派の密通者として信長様に処刑されるだろう。しかし、成功すれば、歴史の大きな歯車を歪める強力な「協力者」を確保できる。
恵瓊はゆっくりと扇子を閉じ、口元に薄い笑みを浮かべた。
「……織田信澄様、あなたという男は、とてつもない博打打ちだ。面白い、乗らせていただきましょう」
京の闇夜に、小さな楔が打ち込まれた瞬間だった。
だが、私の心には一抹の不安がよぎる。
歴史を動かすということは、それだけ多くの血を流す覚悟をすることと同義なのだ。




