第1話:嵐の予感と、小さな賭け
天正十年、五月。
春の陽気が過ぎ去り、初夏の気配が忍び寄る安土城下。
私は広大な屋敷の縁側に腰を下ろし、ぼんやりと庭園の鯉を眺めていた。
織田信澄としてこの身体で生き始めてから、早二十年。
信長様の命により、近江大津を治める身となっていた。
「……五月、か」
思わず口から漏れた言葉に、傍らに控えていた家臣が不思議そうな顔をした。
私の歴史の知識が正しければ、あと数ヶ月で「本能寺」の火の手が上がる。
私の人生は、いわゆる「詰み」から始まっている。
義父である明智光秀殿は、信長様から度重なる叱責を受けている。
一方、私は信長様の甥であり、光秀殿の娘婿だ。
信長様が斃れれば、私は真っ先に「光秀の一味」として粛清される運命にある。
「殿、大津の米蔵の視察はいかがいたしますか?」
家臣の問いかけに、私はゆっくりと立ち上がった。
戦国という時代は、残酷なまでに合理的だ。
力なき者は消え、利用される者は捨てられる。
「……ああ、行く。だが、その前に一つ、大津に仕掛けておきたいことがある」
私は立ち上がり、ふと空を見上げた。
澄み切った青空に、一筋の灰色の雲が流れていく。
私は現代の知識を持ち込んでいるが、それを無闇に振りかざすことはしていない。
火縄銃の改良や兵站の効率化など、地味だが確実な成果を上げ、信長様からは「信澄は堅実な男だ」と一定の評価を得ている。
しかし、今はその程度では足りない。
(光秀殿が動き出す前に、織田家内部の権力バランスを変える必要がある)
私は心の中でそう呟く。
もし、光秀殿が謀反を企てているのなら、彼を止めるか、あるいは「明智と織田を分断」し、私自身がその隙間に陣取るしかない。
その日の午後、私は密かに信頼する配下を呼び出した。
「これより、京へ使いを出せ。私の名ではなく、ある商人の名を使って極秘の書状を届けろ」
「……殿、それはどなたに?」
私はニヤリと笑った。歴史の勝者となるべき男、羽柴秀吉ではない。
この戦国という巨大なパズルを解くための、最も重要かつ危険な駒。
「……安国寺恵瓊だ」
毛利家との外交を担う僧侶。
彼を通じて、西国の情勢を動かし、京の明智軍の動向を先読みする。
運命を切り開くには、まだ誰も気づいていない場所から楔を打ち込む必要がある。
信長様を救うため、そして私自身の生存を確定させるために。
織田信澄の「歴史改変」という名のゲームが、ようやく盤上に駒を並べ始めた。
私は屋敷を後にし、午後の陽射しの中を歩き出した。
安土城へ向かう道すがら、見知らぬ武士が慌ただしく京の方角へ駆け抜けていくのが見えた。
嵐は、もうすぐそこまで来ている。




