Archive.3 須藤さん助けて
面談が終わって、3時間が経った。
葵湖はベッドの上で仰向けになったまま、スマートフォンを顔の上に掲げていた。画面には、律から届いた契約手続きの案内メールが開いており、専用URLのリンクが青く光っている。タップすれば、契約ページに飛ぶ。名前と支払い情報を入力して、確認ボタンを押せば、それで終わる。5分もかからない。
5分もかからないのに、3時間が経っている。
メールは何度も読み返した。契約内容の詳細。利用開始までの流れ。初月の料金。キャンペーン適用後の金額。12,250円。その数字はもう暗記している。目を閉じても浮かぶ。瞼の裏に焼きついた青いリンクと、4桁の数字。
問題は金額じゃない。金額だけなら、とっくに押している。
葵湖はスマートフォンを胸の上に置いて、天井を見上げた。掃除したばかりの部屋は、いつもより広く感じる。散らかっていた時は気にならなかった天井の隅の蜘蛛の巣が、今は妙に目につく。掃除したせいで、掃除しきれなかった場所が浮き彫りになっている。
契約したら、この人に毎日チャットを送ることになる。
思いついたことを、思った瞬間に。律はそう言った。メモ代わりに使ってくれていい、と。スケジュールの登録も、案件の返信の下書きも、こちらで整理する、と。
つまり、葵湖の頭の中がそのまま律に流れ込む、ということだ。
整理されていない思考。脈絡のない思いつき。深夜のテンションで浮かんだ企画案。朝起きて読み返したら恥ずかしくなるような文面。そういうものが、全部。知らない男の人の画面に、通知として届く。
いや、仕事なんだから。プロなんだから。向こうだって慣れてるはずだ。色んなクライアントの色んなメッセージを受け取ってきたはずだ。葵湖のチャットが多少散らかっていたところで、驚きもしないだろう。
でも。
葵湖は寝返りを打ち、枕に顔を埋めた。
面談の最後、やりたいことを聞かれた時のことを思い出す。あの時、自分がどんな顔をしていたか、考えたくない。声が変わっていたのは自覚している。抑えようとしたのに、抑えきれなかった。オリジナル曲、屋外ロケ、ファンイベント、ものづくり。次から次へと口をついて出て、止められなかった。
恥ずかしい。
初対面の人に、あんなに喋るつもりじゃなかった。しかも相手は仕事の依頼先だ。クライアントとしての冷静さを保つべきだったのに、夢物語を延々と語ってしまった。律はどう思っただろう。この人、現実見えてないな、とか思われただろうか。
でも、律は笑わなかった。
「笑いません」と即答した。間がなかった。あの間のなさが、まだ耳に残っている。
枕から顔を上げ、スマートフォンを手に取った。画面が点灯する。契約案内のメール。青いリンク。12,250円。年間にすると、初年度は397,250円。
葵湖は暗算した。先月の案件収入と照らし合わせる。払えない金額ではない。むしろ、案件1件半分だ。その金額で、スケジュール管理と案件対応と経理補助が手に入る。あの未読メールの山が消える。ダブルブッキングの恐怖から解放される。請求書の管理を丸投げできる。
そして、空いた時間で。
あのノートを、ベッドサイドに置いてある、やりたいことリストを開いた。ページをめくれば、書き溜めたままの項目がずらりと並んでいる。どれも実行できていない。インクの色が古いものから順に薄くなっていて、時間の経過が目に見える。いちばん最初に書いた「オリジナル曲を作る」の文字は、なんだか寂しそうに不貞腐れている。
このリストを、消していける。1つずつ、線を引いて、消していける。
胸の奥に、あの熱が戻ってきた。面談の最後に滲み出てしまった、あの熱。今度は抑えない。抑える必要がない。誰も見ていない。自分だけの部屋で、自分だけのノートを見つめて、自分だけの熱を感じている。
でも、男の人だ。
堂々巡りだ。何度目だろう、この思考のループ。振り子のように揺れている。期待と不安。希望と警戒。前に進みたい気持ちと、立ち止まりたい気持ち。
葵湖はノートを閉じて、スマートフォンを持ったまま立ち上がりキッチンに向かった。冷蔵庫を開ける。卵が1個に減っている。昨日の朝、卵かけご飯を食べたからだ。米は、あの後ちゃんと炊いた。小さな進歩。でも冷蔵庫の中身は相変わらず寂しい。
水を一杯飲む。コップを置くと、シンクに溜まった洗い物が目に入る。昨日の分と、一昨日の分。
こういうのも、もう少しちゃんとしたい。
マネージャーに家事を頼むわけじゃない。でも、事務作業から解放されれば、生活を立て直す余裕が生まれる気がする。ちゃんとご飯を作って、ちゃんと洗い物をして、ちゃんと洗濯物を畳んで。人間らしい生活を取り戻せる。
それだけで、配信のパフォーマンスも上がるはずだ。身体が元気なら、声に張りが出る。気持ちに余裕があれば、リスナーとのやり取りにも余裕が出る。好循環が回り始める。
全部、繋がっている。月額35,000円の先に、全部が繋がっている。
葵湖は何もしないままキッチンからベッドに戻った。スマートフォンの画面を見る。青いリンク。
もう、心は決まってるんでしょ。
自分の中の、もう1人の自分が囁いた気がした。会社を辞める時もそうだった。散々迷って、延々悩んで、でも心はとっくに決まっていた。頭が追いつくのを待っていただけだ。
きっと今もそうだ。面談が終わった瞬間から、いや、もしかしたら律のプロフィールを見つけた瞬間から、心は決まっていたのかもしれない。3時間迷ったのは、頭が心に追いつくための時間だったのだと思う。
青いリンクをタップする。
契約ページが開く。名前。メールアドレス。支払い情報。指が動く。今度は震えていない。7月だけど、震えていない。
確認画面。内容を見直す。1回だけ。3回じゃなくて、1回。
契約ボタンを、押す。
「ご契約が完了しました」
画面の文字を見つめる。3秒。5秒。10秒。
葵湖は、ふっと笑う。
声に出して笑ったのは、今日初めてだ。おかしいわけじゃない。嬉しいわけでもない。ただ、肩の力が抜けた。ずっと握りしめていた拳を開いたような、そういう笑いだ。
やってしまった。今度こそ、本当にやってしまった。
スマートフォンを枕元に置いて、布団を頭まで被る。目を閉じる。明日から、何かが変わる。何が変わるかはまだわからない。でも、何かが変わる。
その予感だけを抱いて、葵湖は眠りに落ちた。
* * *
契約から、10日が経った。
結論から言うと、生活が変わった。劇的に、ではない。静かに、確実に、地面の下で根が伸びるように。
最初の3日間は、律にチャットを送ること自体が緊張だった。
何を送ればいいのかわからない。「思いついたことをそのまま送ってください」と言われても、そのまま送るのが怖い。文面を整えて、敬語を確認して、誤字がないか見直して、それから送信する。メールを書いているのと変わらない。これでは意味がない、と頭ではわかっているのに、指が勝手に丁寧語を打つ。
転機は4日目の深夜だった。
配信が終わって、興奮が冷めないまま布団に入った。頭の中に企画のアイデアが脈々と浮かんでいる。ハロウィンの仮装配信。リスナーからコスプレのリクエストを募って、上位3つを実際にやる。衣装はどうする。予算は。配信の尺は。コラボ相手を呼ぶか、ソロでやるか。
考えが止まらない。ノートに書こうとしたけれど、ペンが見つからない。枕元にスマートフォンがある。
気づいた時には、律のチャットに打ち込んでいた。
『ハロウィン仮装配信やりたい リスナーからリクエスト募集 上位3つやる 衣装どうしよう 予算いくらまでいける? あとコラボ呼ぶかソロか迷ってる てかハロウィンっていつだっけ 10月末? まだ3ヶ月あるけど早めに動いた方がいいですかね??』
送信してから、血の気が引いた。
深夜1時。ほぼタメ口、どころか人に向けた文章ではない。句読点なし。疑問符の連打。思考の垂れ流し。しかも「ハロウィンっていつだっけ」って、自分で調べろ。
慌てて取り消そうとしたが、既読がついている。深夜1時なのに。この人、起きてるのか。
返信が来た。
『ハロウィンは10月31日です。仮装配信、面白いですね。リクエスト募集の告知を9月頭に出すとして、衣装の準備期間を考えると8月中に大枠を決めておくのが理想です。予算については、現在の月間収支から算出できますので、明日までに概算をお出しします。コラボかソロかは、企画の方向性が固まってから判断しても遅くないと思います。まずは「どんなハロウィン配信にしたいか」のイメージを、思いつくままに送ってください。』
丁寧で、的確で、速い。葵湖の散らかった思考を、1つ1つ拾い上げて、整理して、次のステップを示してくれている。しかも最後の一文。「思いつくままに送ってください」。
あ、この人は本当に、思いつくままでいいんだ。
その瞬間、何かが外れた。ずっと締めていたネジが、かちりと緩んだ。
5日目からは、チャットの量が爆発した。
朝起きて、寝ぼけたまま『今日の配信何時からだっけ』と送る。律が『20時からです。サムネイルは昨日確認いただいたもので確定でよろしいですか?』と返す。『あざす!』と返す。
買い物中に『案件のメール来てたと思うんだけど内容なんだっけ』と送る。律が要点を3行にまとめて返してくれる。『了解〜返信お願いしていい? こっちの希望はこんな感じで』と送る。律が下書きを作って送ってくる。確認して『完璧! 送って!』と返す。
配信中に思いついたネタを、配信が終わった直後に連投する。5件、6件、7件。脈絡がない。話題が飛ぶ。絵文字が混じる。でも律は全部拾って、翌朝には整理されたリストにして返してくれる。葵湖の頭の中の散らかった引き出しを、誰かが毎晩こっそり片付けてくれているような感覚。
チャットの文体も、日を追うごとに崩れていった。最初は「お疲れ様です。〇〇の件ですが」だったのが、「〇〇の件なんだけど」になり、「〇〇どうする?」になり、気づけば「須藤さん助けて案件の返信忘れてた」になっている。
律の文体は変わらない。最初から最後まで丁寧語で、簡潔で、的確だ。でもその一定さが、逆に安心する。こちらがどれだけ崩れても、向こうは崩れない。振り回しても、軸がぶれない。それが、信頼になる。
スケジュール管理は、想像以上に効果があった。
律が共有してくれたカレンダーアプリには、葵湖の予定が色分けされて並んでいる。配信が赤。案件が青。プライベートが緑。空き時間が白。一目で、今週何をすべきかがわかる。今まで頭の中だけで管理していたものが、視覚化されている。
しかも律は、ただ予定を入力するだけじゃなかった。配信の2時間前に「準備開始」のリマインドを入れてくれる。案件の返信期限の前日に「明日までです」と通知してくれる。コラボ相手との日程調整も、候補日を3つ出してくれて、葵湖は選ぶだけでいい。
選ぶだけ。
今まで全部自分で考えて、自分で調べて、自分で決めて、自分で実行していたことが、「選ぶだけ」になっている。
これが、こんなに楽だとは思わなかった。
案件の対応も変わった。メールの返信を律に任せるようになってから、返信漏れがゼロになった。ゼロ。あの、胃の底が冷たくなる感覚を、もう味わわなくていい。先方からの催促メールに怯えなくていい。下書きフォルダに眠ったまま送信されないメールの亡霊に、もう悩まされない。
経理の補助も始まった。律が作ってくれた収支表は、シンプルで見やすい。今月の収入がいくらで、支出がいくらで、手元にいくら残るか。数字が整理されているだけで、こんなに安心するものなのか。今まで、通帳の残高を見るのが怖かった。怖いから見ない。見ないから不安になる。不安だから余計に見たくなくなる。その悪循環が、断ち切られている。
そして何より、配信が、楽しい。
事務作業に追われていた時間が消えた分、配信の準備に集中できる。企画を練る時間がある。サムネイルにこだわる余裕がある。台本を推敲する気力がある。配信中のアドリブにも、キレが戻ってきた。頭の片隅で「あのメール返さなきゃ」「あの請求書まだだ」と点滅していた警告灯が消えて、目の前のリスナーだけに意識を向けられる。
それは、配信に出た。
今日の雑談配信。チャット欄を眺めながら、リスナーの質問に答えていく。遊楽アコの声で、遊楽アコの笑顔で。
『アコちゃん最近なんか調子よくない?』
古参のリスナーからのコメントが目に留まった。葵湖の心臓が、一瞬だけ跳ねる。
『わかる 声に張りがある』
『前より楽しそう』
『アコちゃんが楽しそうだとこっちも楽しい』
コメントが連なる。見抜かれている。画面越しなのに、声だけなのに、リスナーは気づいた。配信者の調子の良し悪しを、ファンは驚くほど正確に嗅ぎ取る。
「えへへ、わかる? 最近ね、ちょっといい感じに回ってるんだ」
アコの声で答えた。甘くて、明るくて、弾んだ声。でも今日は、作っている感覚が薄い。素の葵湖の気分が良いから、アコの声にもそれが乗っている。
『何があったの!?』
『彼氏できた?』
『彼氏だったら許さん』
チャット欄が騒がしくなった。葵湖は内心で冷や汗をかきながら、アコの笑顔を保つ。
「彼氏じゃないよ! もー、すぐそういうこと言うんだから。ちょっとね、お仕事の環境を整えたの。前よりちゃんと準備できるようになったから、配信に集中できてるんだと思う」
嘘は言っていない。事実だ。でも「お仕事の環境を整えた」の中身が男性マネージャーだとは、口が裂けても言えない。アイドル路線で売っている遊楽アコに、男の気配は毛ほども残してはいけない。
『環境整備大事!』
『アコちゃんえらい!』
『自己投資できるアコちゃん推せる』
リスナーたちは素直に受け取ってくれた。葵湖はほっと息をつく。画面の外で、こっそり。
「みんなのおかげだよ。みんなが応援してくれるから、アコも頑張れるの。……ほんとだよ? 嘘じゃないよ?」
嘘じゃない。リスナーの存在が支えになっているのは本当だ。でも今は、もう1つ支えが増えている。画面には映らない、チャットの向こう側にいる、静かで的確な存在。
「おやすみなさい、ゆらアコでしたっ」
配信終了ボタンを押し、画面が暗転する。同時接続数のグラフが落ちて、チャット欄が凍った。
でも今日は、その後の静寂が怖くない。
葵湖はヘッドセットを外して、首を回した。鈍い音は鳴るけれど、前ほど痛くない。肩の力が、前より抜けている。
スマートフォンを手に取り、律のチャットを開く。
『配信おわったー! 今日のチャット欄めっちゃ盛り上がった 古参の人に調子いいねって言われた 嬉しい』
送信。既読。返信。
『お疲れ様です。同時接続数も先週比で8%上がっていますね。配信の質が上がっている証拠だと思います。』
数字で裏付けてくれる。感覚だけじゃなく、データで。葵湖は「8%」という数字を見て、にやりと笑う。
『あとね、配信中に思いついたんだけど、来月のコラボ企画でさ、料理対決やりたいんだよね 相手は未定だけど 審査員をリスナー投票にしたら面白くない?』
『面白いと思います。リスナー参加型は盛り上がりますね。コラボ相手の候補と、配信プラットフォームの投票機能の仕様を確認しておきます。希望の配信日はありますか?』
『来月の第二か第三土曜がいいな 相手のスケジュール次第だけど』
『承知しました。候補の方がいらっしゃれば、お名前を教えていただければ日程調整します。』
やり取りが軽い。テンポがいい。思いついたことを投げて、整理されて返ってくる。キャッチボールというより、壁打ちに近い。でも壁が賢くて、投げたボールが綺麗な軌道で返ってくる。
葵湖はチャットを打ちながら、キッチンに立つ。冷蔵庫を開ける。
中身が、10日前とは違う。
卵が6個。牛乳。ハム。レタス。トマト。ヨーグルトは賞味期限内のものが2つ。冷凍庫には、週末にまとめて作った鶏そぼろと、刻み野菜のストック。
買い物に行く余裕ができた。料理をする気力が戻った。自分のためにご飯を作る時間が、ようやく生活の中に戻ってきた。
卵を割って、フライパンに落とす。じゅう、と油が弾ける音。目玉焼きを作りながら、チャットの続きを打つ。片手でスマートフォン、片手でフライ返し。マルチタスクは苦手なはずなのに、これは不思議とできる。たぶん、どちらも楽しいからだ。
目玉焼きをご飯の上に乗せて、醤油をかける。シンクは、今日の分の洗い物しかない。昨日の分は、昨日のうちに洗った。一昨日の分は、一昨日のうちに。小さなことだ。でも、小さなことの積み重ねが、生活の輪郭を作る。
食卓について、いただきます、と小さく手を合わせる。目玉焼きの黄身を箸で割る。とろりと流れ出す黄色が、白いご飯を染めていく。
美味しい。
自分で作った、自分のためのご飯が、美味しい。
食べながら、チャットの通知を確認すると、律からの返信が来ていた。
『お疲れ様です。一点確認させてください。先日いただいた「D社コラボ企画の提案書」の件ですが、締切日の情報をまだいただけていないようです。カレンダーに仮登録しておきたいので、ご確認いただけますか?』
葵湖の箸が止まる。
D社コラボ企画の提案書。
何だっけ、それ。
記憶を辿る。D社。コラボ。提案書。聞き覚えはある。確かに律に何か伝えた。でも、いつ? 何を?
チャットを遡る。指が画面を滑る。5日前のやり取り。見つけた。
『D社からコラボの話来た! 企画の提案書出してほしいって 詳細はメールに来てるから転送するね』
その下に、律からの返信。
『承知しました。メール転送いただければ、内容を確認して要点をまとめます。締切はいつでしょうか?』
律の質問に、葵湖は返信していない。その直後に別の話題、ハロウィン仮装配信のアイデアを連投していて、D社の件はそこで途切れている。
メールの転送も、していない。
嫌な予感がする。スマートフォンを持つ指が冷たくなる。メールアプリを開く。受信トレイを検索する。D社。
メールが出てくる。5日前に届いたもの。件名は「コラボ企画のご提案について」。本文を読む。
提案書の提出期限は、7月15日(火)正午まで。
7月15日。
今日は7月14日の月曜日。
正午。明日の、正午。
葵湖は時計を見る。午後11時12分。
あと12時間48分。いや、提出前に見直す時間を考えたら、実質10時間くらいしかない。
提案書。一文字も書いていない。D社からのメールすら、ちゃんと読んでいない。
しかも、葵湖はチャットをもう一度遡る。3日前のやり取り。律に「来週水曜の案件ミーティングの準備」として伝えた内容。その中に「D社との打ち合わせ用の資料作成」という項目がある。
これだ。
葵湖は自分の伝達を見比べる。5日前に伝えた「D社コラボの提案書」と、3日前に伝えた「D社との打ち合わせ用の資料作成」。別々のタスクとして律に投げている。でも、元のメールを読めばわかる。提案書を提出して、その内容をもとに水曜にミーティングをする。つまり、同じ案件の同じタスクだ。
葵湖が別々に伝えたせいで、律のカレンダーには2つの別タスクとして登録されている。片方は「提案書作成(締切未確認)」、もう片方は「ミーティング資料作成(水曜)」。律は提案書の方の締切情報がないことをずっと気にしていて、今日ようやく催促してくれた。
律は悪くない。情報を整理するのが律の仕事だけれど、元の情報が間違っていたら、整理のしようがない。ゴミを入れればゴミが出てくる。入力を間違えたのは、葵湖だ。
目玉焼きの残りが、皿の上で冷めていく。黄身の黄色が、さっきより暗く見えた。
葵湖の頭の中で、消えたはずの警告灯が、赤く点滅し始める。
10日間、順調だった。全部うまく回っていた。律のおかげで、生活が変わった。配信が楽しくなった。冷蔵庫の中身が充実した。シンクが綺麗になった。リスナーに調子がいいねと言われた。
でも、提案書は律に頼める仕事じゃない。中身を考えるのは、葵湖自身だ。律が整理してくれるのはスケジュールと事務処理であって、クリエイティブの中身は葵湖の領域だ。しかも今回は、その手前の伝達すらまともにできていなかった。
楽になった分、油断した。余裕ができた分、先延ばしにした。結局、同じだ。荷物を降ろしてもらっても、自分が走らなければ意味がない。走る方向を間違えて伝えたら、降ろしてもらった意味すらない。
『須藤さん』
チャットを打つ。指が速い。
『ごめん、D社の提案書とミーティング資料、同じやつだった……提案書の締切明日の正午です まだ何も書いてない どうしよう』
送信してから、自分の文面の情けなさに顔が熱くなる。「どうしよう」って。小学生か。
既読がつく。
数秒の間。律にしては、少しだけ長い間。
返信が来る。
『なるほど、同一の案件だったんですね。状況は把握しました。正午までということは、あと約10時間ですね。まだ時間はあります。少しお電話してもいいですか?』
冷たくない。責めてもいない。「まだ時間はあります」の一文に、葵湖の握りしめていた拳が、ほんの少しだけ緩む。
でも、電話。
チャットではなく、電話。声で話す。深夜に。2人きりで。
葵湖はスマートフォンを握りしめたまま、天井を仰ぐ。
迷っている暇は、ない。
『お願いします』
送信して3秒後、スマートフォンが震える。着信。画面に表示された名前。
須藤律。
葵湖は深呼吸を1つして、通話ボタンに指を伸ばした。




