Archive.4 夢物語でいいです
電話に出た瞬間、律の声が耳に流れ込んできた。
「お疲れ様です。状況、整理しましょう」
当たり前のように落ち着いた声。深夜11時過ぎに突然「締切が明日の正午です、何も書いてません」と泣きつかれた人間の声ではない。まるで予定通りの定例ミーティングを始めるような温度だ。
葵湖はスマートフォンを耳に押し当てたまま、自分の呼吸が荒いことに気づく。走ってもいないのに、息が上がっている。心臓が喉の奥まで上がってきている感覚。
「須藤さん、ほんとにごめんなさい、私が伝え方間違えたせいで……」
「謝罪は後で大丈夫です。今は、やることだけ見ましょう」
遮られた。でも、不快ではない。むしろありがたい。謝り続けていたら、謝ることに時間を使って、さらに焦って、もっと動けなくなる。律はそれをわかっている。
「まず確認させてください。D社のメール、転送していただけますか。提案書のフォーマットや条件が書いてあるはずなので」
「あ、はい、今送ります」
スマートフォンを耳から離して、メールアプリを開く。D社からのメール。転送。律のアドレスを入力して、送信。手が震えている。画面の文字が滲んで見える。
電話に戻る。
「届きました。少しお待ちください」
数秒の沈黙。律がメールを読んでいる。葵湖はその数秒の間に、デスクの上を見回した。さっきまで幸せだった部屋が、急に敵地に見える。目玉焼きの皿がまだ食卓に残っている。目の前の食事に生気を感じない。
「読みました。提案書の要件は3つですね。1つ目、コラボ企画の概要とコンセプト。2つ目、想定されるターゲット層と期待効果。3つ目、スケジュールと予算の概算。フォーマットの指定はなし。ページ数の制限もなし。つまり、自由度は高いです」
律の声が、情報を1つずつ並べた。散らかった部屋を片付けるように。ゴミとゴミじゃないものを分けるように。
「自由度が高いってことは、逆に何書けばいいかわかんないってことじゃ……」
「そうですね。だから、順番に考えましょう。でもその前に」
律の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。無色透明でほんのり暖かい、全てを見透かす声。
「神楽様、今、かなり焦ってますよね」
図星だ。声でわかるのだろう。呼吸の速さで、言葉の詰まり方で。葵湖は胸がキュッと縮こまるのを感じた。
「……はい」
「焦ったまま企画書を書くと、ろくなことになりません。締切に追われて書いたものは、締切に追われた匂いがします。先方にもそれは伝わります」
厳しいことを言っている。でも、声は厳しくない。医者が患者に症状を説明するような、事実を事実として伝える温度。
「あと10時間あります。10時間は、使い方次第で十分な時間です。まず、焦りを一回置きましょう」
「置くって言われても……」
「具体的にやることが見えれば、焦りは勝手に小さくなります。見えないから怖いんです。だから、見えるようにしましょう」
葵湖は唇を噛む。その通りだ。何を書けばいいかわからないから怖い。どこから手をつければいいかわからないから焦る。暗闇の中で走ろうとしているから、転びそうで怖い。
「まず、クリエイティブじゃない部分から片付けましょう。提案書の3つの要件のうち、3つ目のスケジュールと予算の概算は、僕の方で叩き台を作れます。神楽様の現在の活動スケジュールと収支データから逆算すれば、現実的な数字が出せます。これは僕に任せてください」
「え、いいんですか」
「はい。数字の部分は私の領域です。神楽様が考えるべきなのは、1つ目と2つ目。企画の中身と、誰に届けたいか。ここはクリエイティブの領域なので、神楽様にしか書けません」
役割分担が、一瞬で決まる。葵湖がやるべきことと、律がやるべきこと。境界線が明確になるだけで、10時間という時間の見え方が変わる。全部自分でやらなければならないと思っていた時は、10時間が砂時計の砂のように零れ落ちていく感覚だった。でも半分を律に預けられるなら、残りの半分に全力を注げる。
「スケジュールと予算の叩き台は、1時間ほどで送ります。その間に、神楽様には1つだけやっていただきたいことがあります」
「はい」
「D社のこれまでのコラボ事例を、3つだけ見てください。D社のウェブサイトに過去のコラボ実績が載っているはずです。全部見る必要はありません。3つだけ。どんな企画をやってきたか、どんなクリエイターと組んできたか。それだけ見ておいてください」
「3つだけ?」
「3つで十分です。傾向が見えますから」
具体的だ。「調べてください」ではなく、「3つだけ見てください」。数を限定してくれるだけで、ハードルが下がる。3つなら、できる。3つなら、今すぐ始められる。
「わかりました。やります」
「はい。では、1時間後にまたお電話します。失礼します」
通話が切れた。葵湖はスマートフォンを握ったまま、ゆっくり深呼吸をする。さっきより少しだけ肺が柔らかい。呼吸が楽になっていた。焦りは未だ消えていない。でも、やることが見えた。暗闘の中に、小さな目指すべき灯りが1つ点いた。
パソコンを開く。D社のウェブサイトにアクセスする。コラボ実績のページ。過去の事例が並んでいる。
1つ目。アウトドアブランドとのコラボ。キャンプ用品のプロモーション動画を、アウトドア系YouTuberと制作。
2つ目。化粧品ブランドとのコラボ。新商品のレビュー配信を、美容系VTuberと実施。
3つ目。ゲーム会社とのコラボ。新作ゲームの先行プレイ配信を、ゲーム実況者と実施。
3つ見て、律の言った通り、傾向が見えてきた。D社は「クリエイターの得意分野を活かした、自然なプロモーション」を好んでいる。押し売り感のない、クリエイターの個性が前面に出るコラボ。台本通りの宣伝ではなく、クリエイター自身が楽しんでいる姿を通じて商品の魅力を伝える形。
なるほど。だから提案書のフォーマットが自由なのか。D社は、クリエイター側の「やりたい」を聞きたいのだ。出来ると分かればもう心理的なハードルはない。葵湖は時間の許す限りD社のコラボ実績や商品を漁った。自分だったら何が欲しいか、D社の商品でどんな仕事がしたいか。そのヒントになりそうな情報をインプットしまくった。
1時間後、スマートフォンが鳴る。律からの着信。
「お疲れ様です。スケジュールと予算の叩き台、メールで送りました。確認していただけますか」
メールを開き、添付ファイルをクリック。スプレッドシートが開く。
綺麗だ。
数字が整然と並んでいる。企画準備期間、制作期間、配信日、振り返り期間。それぞれに必要な工数と、概算コストが紐づいている。葵湖の現在の配信スケジュールとの兼ね合いも考慮されていて、無理のないタイムラインになっている。1時間で、これを作った。
「……すごい」
思わず声に出る。
「ありがとうございます。ただ、これはあくまで叩き台なので、企画の中身が決まったら調整が必要です。D社の過去事例、見ていただけましたか?」
「見ました。D社って、クリエイターの個性を活かすタイプのコラボが多いんですね」
「なるほど、いいですね。そこが提案書の軸になると思います」
褒められた。さりげなく、でも確実に。葵湖の胸の中で、小さな火が灯る。
「では、ここからが本題です。企画の中身を考えましょう。……と言いたいところですが」
律の声が、少し間を置く。
「少し休憩しませんか」
「え?」
葵湖は耳を疑った。締切まであと9時間を切っている。一文字も書いていない。休憩?
「今、何か飲み物はありますか」
「えっと……ペットボトルのお茶が……」
「温かいものの方がいいです。お湯でもいいので」
「……コーヒーなら、インスタントのがあります」
「それを淹れてきてください。電話はそのままで大丈夫です」
言われるがまま、キッチンに向かう。ケトルに水を入れて、スイッチを押す。お湯が沸くまでの間、スマートフォンをスピーカーモードにしてカウンターに置く。
「須藤さん、休憩してる場合じゃないと思うんですけど……」
「大丈夫ですよ。ほら、焦って書いたものは焦った匂いがする、と言いましたよね。同じように、楽しんで書いたものには楽しい匂いがします。D社が求めているのは後者です」
ケトルが沸く。コーヒーを淹れる。インスタントの粉をマグカップに入れて、お湯を注ぐ。安っぽい香りが立ち上る。でも、深夜のキッチンでは、それだけで少し気持ちが落ち着く。
「コーヒー、淹れました」
「では、一口飲んでから聞いてください」
言われた通り、一口飲む。熱い。舌の先がひりつく。でも、身体の芯に温度が通る。
「神楽様。D社とのコラボで、何がしたいですか」
「何がしたいか……って、それを考えなきゃいけない仕事なんですけど」
「いえ、仕事として考えないでください。提案書のことも、締切のことも、一回忘れてください」
「忘れるって……」
「もし、予算も締切もスケジュールも何も制約がなかったら。D社の商品を使って、どんな配信がしたいですか。夢物語でいいです。実現可能性は僕が後で考えます」
夢物語。
面談の時と同じだ。律は、葵湖に夢物語を語らせようとしている。仕事として何がしたいかを考えるために情報を飲みまくった。どんな企画なら、リスナーが喜ぶか。欲しくなるか。そして、D社が喜ぶか。
葵湖はコーヒーのマグカップを両手で包む。温かい。指先から、少しずつ緊張が溶けていく。
少しの沈黙が流れたあと、葵湖は口を開いた。
「……D社って、食品メーカーですよね」
「はい。主力商品はレトルト食品と調味料です」
「私、料理配信やってるじゃないですか」
「はい」
「D社の調味料を使って、オリジナルレシピを開発する配信とか……どうですかね。リスナーと一緒に味を決めていく、みたいな。投票で材料を選んで、その場で作って、食べて、リアクションして」
言いながら、頭の中にイメージが広がっていく。
「あ、でもそれだけだと普通か。もっとこう……」
コーヒーをもう一口飲む。目を閉じる。
「……リスナーから『無茶振りレシピ』を募集するのはどうでしょう。D社の調味料を必ず1つ使うルールで、あとは自由。変な組み合わせが来ても、それを美味しくするのがチャレンジ。失敗しても面白いし、成功したら『アコちゃんすごい!』ってなるし」
「面白いですね。リスナー参加型で、かつ結果が予測できない。配信としてのライブ感が強い」
「でしょ? しかもね、D社の調味料が必ず入るから、自然にプロモーションになるんですよ。『この調味料、こんな使い方できるんだ!』って。押し売り感ゼロ。D社の過去事例の傾向にも合ってる」
「合ってますね。D社が好むのは、クリエイターの個性が前面に出る自然なプロモーションでした。神楽様の料理配信のスタイルと、リスナーとの距離感の近さは、まさにそこに合致します」
律の相槌が、燃料になる。否定しない。でもただ肯定するだけでもない。葵湖の言葉を受け取って、少しだけ角度を変えて返してくれる。
「あと、これ1回きりじゃなくて、シリーズにするのもいいかもです。月に1回、『アコの無茶振りキッチン』みたいな。毎回テーマを変えて、D社の違う商品を使って。3ヶ月とか半年のシリーズにすれば、D社にとっても継続的なプロモーションになるし、リスナーにとっても定期イベントになる」
「シリーズ化は強いですね。1つ確認ですが、シリーズにする場合、毎回の配信準備の負荷はどの程度になりますか」
「レシピの試作が必要だから……1回につき、準備に半日くらい? でも料理は好きだから、苦にはならないです。むしろ楽しい」
「であれば、月1回のペースなら現在のスケジュールに無理なく組み込めます。先ほどの叩き台に反映できますね」
会話が弾んでいる。いつの間にか、焦りが消えている。締切のことを忘れている。頭の中にあるのは、配信のイメージだけだ。リスナーのコメントが飛び交う画面。変な食材の組み合わせに笑う自分。D社の調味料を手に取って、「これ、実はすごいんだよ」と目を輝かせるアコの姿。
「あ、それと、完成したレシピをD社のウェブサイトに載せてもらうのはどうでしょう。配信のアーカイブへのリンク付きで。そうすれば配信を見逃した人もレシピだけ見られるし、D社のサイトへの流入にもなる」
「クロスメディア展開ですね。配信プラットフォームとD社のウェブサイト、双方にメリットがある。提案書に盛り込む価値があります」
「あとあと、シリーズの最終回は特別版にしたい。それまでに作ったレシピの中から、リスナー投票で1位を決めて、それをD社に商品化してもらう……って、さすがにそれは無理か」
「商品化は先方の判断になりますが、提案として入れておくのは悪くないです。最終ゴールが明確になると、シリーズ全体に物語性が生まれます。リスナーも『自分が投票したレシピが商品になるかも』というモチベーションで毎回参加してくれる」
「そうそう! そういうことです! 参加してる感が大事なんですよ。見てるだけじゃなくて、一緒に作ってる感。リスナーって、自分が関わったものには愛着が湧くから」
葵湖は気づいていない。自分の声が、配信中の遊楽アコの声に近づいていることに。甘さではなく、熱。企画を語る時の、あの止まらない熱。面談の時に滲み出てしまったものと同じ温度が、今、電話越しに溢れている。
アイデアが無限に湧き出てくる。あれもしたい、これもしたい、もっとしたいが止まらなくなる。深夜のチャットの津波と同じことが、今対話で繰り広げられている。
「あ」
葵湖はハッとして目を開けた。
いつの間にか、目を閉じていた。コーヒーのマグカップを両手で包んだまま、椅子の背もたれに身体を預けて、完全に空想の世界に入り込んでいた。配信の画面が見えていた。リスナーのコメントが流れていた。D社の調味料のパッケージが、アコの手の中で輝いていた。
妄想だ。妄想に近い空想に、どっぷり浸かっていた。
時間。時間がもったいない。締切は明日の正午だ。こんなことをしている場合じゃない。
時計を見る。
午前0時28分。
電話を始めたのが、11時過ぎ。D社の事例を調べて、律の叩き台を確認して、休憩を挟んで、企画の話をして。体感では1時間以上経った気がしていたのに、実際には1時間ちょっとしか経っていない。
「神楽様」
律の声が、穏やかに割り込む。
「何とかまとまりそうですね。今お話しいただいた内容を整理した資料を送りましたので、確認していただけますか。それをベースに、企画書に書き起こしましょう」
メールの通知が光る。添付ファイルを開く。
葵湖の口が、小さく開く。
さっき話した内容が、全部まとまっている。企画コンセプト。ターゲット層。配信フォーマット。シリーズ構成。クロスメディア展開。商品化提案。葵湖が散らかした言葉の断片が、1つ残らず拾い上げられて、論理的な構造に組み替えられている。
しかも、葵湖が言っていないことまで補完されている。ターゲット層の年齢層と購買傾向のデータ。D社の既存コラボとの差別化ポイント。リスナー参加型企画の過去の成功事例との比較。葵湖が感覚で語ったことに、数字と根拠が添えられている。
いつの間に。
電話しながら、聞きながら、相槌を打ちながら、同時にこれを作っていたのか。
葵湖の顔が、じわりと熱くなる。
踊らされていた。
律の手のひらの上で、完全に踊らされていたということに気がついた。「休憩しましょう」も、「夢物語でいいです」も、「仕事として考えないでください」も。全部、計算だった。いや、計算という言葉は冷たすぎる。設計だ。葵湖が一番いいアイデアを出せる状態を、律が設計していた。
焦りを取り除いて、温かい飲み物で身体を緩めて、制約を外して自由に空想させる。葵湖が調子に乗ってポンポンアイデアを出す性質を、律はもう知っている。10日間のチャットで、深夜の暴走メッセージで、とっくに把握している。
だから、その性質が最大限に発揮される環境を作った。焦りという蓋を外して、好奇心という火に酸素を送り込んだ。葵湖は勝手に燃え上がって、勝手にアイデアを吐き出して、それを律が横で全部拾って組み立てていた。
この人、怖い。
怖いけど、悔しいけど、顔が熱い。
「須藤さん」
「はい」
「……私、完全に手のひらの上でしたよね」
沈黙。一拍。
「何のことでしょう」
とぼけている。声の温度は変わらない。でも、ほんの微かに、笑いを含んでいる気がする。気のせいかもしれない。電話越しでは、わからない。
「もう……、いいです。企画書、書きます」
「はい。構成は資料の通りで大丈夫です。神楽様の言葉で、肉付けしてください。さっき話してくれた時の、あの温度のまま書けば、いい提案書になります」
あの温度のまま。
葵湖はパソコンの前に座り直した。律が送ってくれた資料を画面の左半分に、企画書の白紙を右半分に開く。
指がキーボードに触れる。
書ける。書ける気がする。さっきまで真っ白だった頭の中に、言葉が並んでいる。律が整理してくれた骨組みの上に、自分の言葉を乗せていく。
書き始めたら、止まらなくなった。
料理配信の楽しさ。リスナーとの一体感。D社の調味料が持つポテンシャル。無茶振りレシピというフォーマットの面白さ。シリーズ化による継続的な効果。商品化という夢のゴール。
さっき電話で話したことを、そのまま文字にしているだけだ。でも、文字にすると、また新しいアイデアが浮かぶ。書きながら考えて、考えながら書く。集中力が、一点に収束していく。周囲の音が消える。時計の針が見えなくなる。葵湖の意識は、企画書の中だけにある。
律は電話を切らなかった。
葵湖が書いている間、律は黙っていた。でも、回線は繋がっている。時折、葵湖が「これ、どう思います?」と説明を添えて聞くと、数秒で的確な返答が返ってくる。「その表現だと先方に伝わりにくいかもしれません。こういう言い換えはどうですか」「数字を入れた方が説得力が出るかと。先ほどの資料の3ページ目を参照してみてください」「ここは神楽様の個性が出ていて、とてもいいです。そのまま残してください」
添削ではない。伴走だ。横に並んで、同じ方向を見ながら、走っている。
午前1時を過ぎる。午前2時を過ぎる。
葵湖の指は止まらない。コーヒーは2杯目に入っている。肩が凝っている。目が乾いている。でも、頭は冴えている。冴えすぎている。この集中力は、配信中のそれに近い。いや、配信中よりも深い。配信はリスナーの反応を見ながらの並行作業だが、今は企画書だけに意識が向いている。マルチタスクが苦手なんじゃない。シングルタスクが得意なのだ。
1つのことに、全力で集中できる。
律が「特性」と呼んだものが、今、全力で回っている。
葵湖は今ある考えの全てを、目の前のワードファイルというキャンバスに、キーボード越しに叩き込んだ。
時間感覚を失ってから数時間。カーテンの隙間から部屋の中に淡く光が差し込み始めていた。
葵湖はキーボードから手を離す。
「……できた」
声が掠れている。ずっと喋っていないことに気づく。律に質問する時以外、ずっと黙って書いていた。
「お疲れ様です。送っていただけますか」
企画書のファイルを添付して、送信する。律に読んでもらう。校閲してもらう。誤字脱字、論理の飛躍、数字の整合性。自分では気づけないものを、律の目で拾ってもらう。
送信ボタンを押した瞬間、全身の力が抜ける。椅子の背もたれに倒れ込む。天井が見える。今日何度目の天井だろう。でも、さっきまでの天井とは違う。さっきの天井は逃げ場で、今の天井は休憩所だ。
「確認します。少しお時間いただきますね」
「はい……お願いします……」
目を閉じる。閉じたら最後、そのまま眠ってしまいそうだ。でも、まだ寝られない。律の校閲が終わるまで。
5分。10分。体感では1時間くらい経った気がするが、時計を見る気力がない。
「神楽様」
律の声で、意識が浮上する。半分寝かけていた。
「読みました。とてもいい企画書です」
「ほんとですか……」
「はい。特に、リスナー参加型のフォーマットと、シリーズ最終回の商品化提案が独創的で面白いです。D社の担当者が読んだら、前のめりになると思います。修正点は軽微なものが3箇所。赤字で入れたファイルを送りますので、確認して反映していただければ、あとはこちらでその他資料を調整するのでご確認いただき、そしたら提出できます」
提出できる。
あと9時間前は真っ白だった企画書が、提出できる状態になっている。
「どうなるかと思いましたが、すごい集中力でしたね」
律の声に、何かが混じっている。いつもの淡々とした温度とは、少し違う。
葵湖はスマートフォンの画面を見る。通話中の表示。時刻は午前6時半を過ぎている。ふと、ビデオ通話に切り替えたい衝動が湧く。この人の顔が見たい。今、どんな表情で話しているのか知りたい。
その衝動を、飲み込む。こんな時間にパーカー姿で、髪もぼさぼさで、目の下にクマができているであろう自分の顔を見せるわけにはいかない。
「須藤さん」
「はい」
「ありがとうございます。本当に」
「いえ、企画の中身を考えたのは神楽様です。私は整理しただけですから」
整理しただけ。この人はいつもそう言う。自分のやったことを、最小限の言葉で片付ける。でも、その「整理」がなければ、葵湖は一文字も書けなかった。焦りに押し潰されて、白紙の画面を睨んだまま朝を迎えていた。
「修正、今やっちゃいます。3箇所だけなら、すぐ終わるので」
「無理しないでください。少し休憩してからでも間に合います」
「いえ、今やります。勢いがあるうちに」
律の赤字ファイルを開く。修正点は確かに軽微だ。表現の微調整が2箇所と、数字の端数処理が1箇所。5分で終わる。
修正を反映して、最終版を保存する。提出は今日の午前中に終えられればいい。少し寝て、頭がクリアな状態で最終確認してから送る。
「修正、終わりました」
「確認しました。問題ないです。ほんとにお疲れ様でした。今日はもう休んでください」
「はい……」
葵湖は椅子の上で伸びをする。背骨が鳴る。肩が鳴る。首が鳴る。身体中の関節が、4時間分の緊張を訴えている。
「須藤さん」
「はい」
「あの……ごめんなさい。こんな時間まで」
「気にしないでください。これも仕事ですから」
仕事。そうだ、仕事だ。律にとって、これは仕事だ。深夜に電話に出るのも、企画の整理をするのも、校閲をするのも。全部業務だ。
でも。
葵湖はふと、考える。
今、何時だ。もう朝だ。律が電話に出たのは午後11時過ぎ。約7時間、付き合ってくれている。しかも、その間に予算の叩き台を作り、企画の資料をまとめ、校閲をし、修正点を入れた。電話で話しながら、同時に作業をしていた。
そして今から、校閲が終わった企画書の最終確認をするのだろう。
この人は、いつ寝ているんだろう。
契約してからの10日間を振り返る。葵湖が深夜1時にチャットを送っても、既読がつく。朝7時に送っても、すぐ返信が来る。昼間も、夕方も、夜も。占有時間を設けないプランだから、空いている時間に対応する、と言っていた。でも、いつが空いていて、いつが空いていないのか、葵湖にはわからない。わからないくらい、いつでも対応してくれている。
律は何人のクライアントを同時に回しているのだろう。
葵湖1人の対応でこれだけの仕事量なのに、他にも何人ものクライアントがいる。
人間離れしている。
いや、人間だ。人間のはずだ。でも、あまりにも的確で、あまりにも速くて、あまりにも安定していて、時々忘れそうになる。チャットの向こうにいるのが、生身の人間であることを。
葵湖は自分の胸に手を当てる。
私、この人のこと、便利なツールか何かだと思ってなかったか。
思い返す。深夜の暴走チャット。脈絡のない連投。「須藤さん助けて」の軽さ。思いついたことを思いついた瞬間に投げる、あの気軽さ。律が「そうしてください」と言ったから、そうしていた。でも、受け取る側にも生活がある。睡眠がある。疲労がある。
この人だって、疲れるはずだ。眠いはずだ。休みたいはずだ。
なのに、徹夜明けの朝に、まだ電話の向こうにいる。声の温度は変わらない。最初と同じ、落ち着いた、角のない声。疲れの色が、一切ない。
それが逆に、怖い。
「須藤さん」
「はい」
「……今日は、もう休んでくださいね」
少しの間。
「ありがとうございます。神楽様も、ゆっくり休んでください。スケジュールと予算関係の書類はもうすぐ調整終わるので、起きたら確認していただいて、諸々まとめて提出してください。では、おやすみなさい」
「はい。……おやすみなさい」
通話が切れる。
スマートフォンの画面が暗くなる。通話時間の表示。6時間23分。
葵湖はスマートフォンを胸の上に置いて、椅子の背もたれに深く沈み込む。
この人は、いつ休んでいるんだろう。
その疑問が、胸の奥に小さな棘のように刺さったまま、葵湖は目を閉じる。
企画書は、できた。締切には間に合う。律のおかげだ。律がいなければ、絶対に間に合わなかった。
でも、律がいなければ、こんな疑問も抱かなかった。
知らない人の生活を心配するなんて、契約する前の自分には想像もできなかったことだ。
いつから、この人のことを「知らない人」だと思わなくなったんだろう。
その問いに答えが出る前に、疲労が意識を引きずり込む。椅子の上で、パーカーのまま、葵湖は眠りに落ちる。
デスクの上では、パソコンの画面がまだ光っている。企画書のファイルが開いたまま。タイトルの下に、小さく書かれた名前。
企画・構成:遊楽アコ
その隣に、書かれていないもう1つの名前が、画面の光の中で静かに浮かんでいた。




