Archive.2 やりたいこと、めちゃくちゃあるんです
画面の中に、人がいる。
ウェブ面談なのだから、画面の向こうに人がいるのは当然だ。でも葵湖は、その当然のことに一瞬だけ驚いた。プロフィールの文字列でしかなかった「須藤律」が、声と輪郭を持って目の前に現れている。
落ち着いた声だ。低すぎず、高すぎず、角がない。急かさない速度で、はっきりと。声だけで、根拠は無いけど、この人は怒鳴らない人だと思った。声の温度がそう言っている。
「神楽様、本日はお時間いただきありがとうございます」
背景は白い壁。余計なものが映っていない。服装はシンプルな襟付きのシャツで、清潔感がある。顔立ちは、整っている、と思う。思ってから、そういうことを気にしている場合ではないと自分を叱る。
「あ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
声が少し上擦った。配信では何千人の前でも平気なのに、たった1人の相手に緊張している。遊楽アコの声ではなく、神楽葵湖の声で話すことに、まだ慣れない。
「事前にお送りいただいた資料、拝見しました。とても丁寧にまとめてくださっていたので、助かりました」
律の声にはお世辞の響きがなかった。事実を述べているだけの、平らな温度。それが逆に信用できる。
「では、今日は30分ほどお時間をいただいて、神楽様の現在の状況と、どんなサポートがあるとお仕事がしやすくなるか、一緒に整理できればと思います。堅い面接ではないので、気楽にお話しいただければ」
気楽に、と言われても気楽にはなれないが、「堅い面接ではない」という一言で、肩の力が少しだけ抜けた気がした。この人は、相手が緊張していることに気づいている。気づいた上で、さりげなく逃げ道を作ってくれている。
「まず確認なんですが、神楽様が現在いちばんお困りのことは何でしょうか。資料にはスケジュール管理と案件対応を挙げていただいていましたが、優先順位としてはどちらが先でしょう」
どちらが先かと問われても、どちらも限界だ。でも、どちらかと言えば。葵湖は口を開いた。
「スケジュール管理ですかね。案件の対応も大変なんですけど、そもそもスケジュールが把握できてないから案件の返信も遅れるし、配信の準備も後手に回るし。全部、時間の管理ができてないところから崩れてる気がします」
「なるほど、ありがとうございます」
律が小さく頷いた。画面越しでも、聞いている姿勢が伝わる。メモを取っているのか、視線が一瞬だけ下に落ちて、すぐに戻った。
「スケジュール管理がうまくいかない原因について、ご自身で心当たりはありますか。たとえば、入力を忘れてしまうとか、予定の変更が多いとか」
心当たり。ありすぎる。
「私、マルチタスクが苦手で」
言いながら、少し恥ずかしくなった。VTuberとして配信中は同時にいくつものことをこなしているように見えるかもしれないが、あれは慣れと勢いでどうにかしているだけだ。裏側の事務作業になると、途端にダメになる。
「何かに集中すると、他のことが頭から抜けちゃうんです。メールを返そうと思ってたのに、配信の準備を始めたらそっちに意識が全部持っていかれて、気づいたら返信してなかった、みたいなことがしょっちゅうで」
「配信の準備中は、配信のことだけに集中したい」
「そうです。というか、集中したいというより、勝手にそうなっちゃう感じで。意識が1個のことに向くと、他が全部消えるんです」
律がまた頷いた。今度は少し深く。
「それは弱点ではなく、特性ですね」
葵湖は一瞬、言葉を失った。
「配信に全力で集中できるからこそ、神楽様の配信は視聴者を引き込む力がある。それは大きな強みです。ただ、その集中力の裏返しとして、並行作業が苦手になる。であれば、並行作業をしなくて済む仕組みを作れば、神楽様のご負担はかなり軽減されると思います」
弱点ではなく、特性。
その言い換えに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった気がした。自分でも気づいていなかった重さが、ほんの1ミリだけ浮いた感覚。こんなふうに言ってもらえたのは、初めてかもしれない。
「具体的には、思いついたことや決まったことを、その場ですぐ僕にチャットで投げていただく形が合うかもしれません。メモ代わりに使っていただいて構いません。スケジュールの登録も、案件の返信の下書きも、こちらで整理します。神楽様は、思ったことを思った瞬間に送るだけで大丈夫です。作業をしなきゃ、考えなきゃと思わなくていい」
「え、それだけでいいんですか」
「はい。情報の整理と管理を私が行えば、神楽様の脳内であれもしなきゃ、これもやらなきゃ、と焦る必要がなくなります。神楽様が抱えているタスクの締切や必要なもの、優先順位付けの管理は私が行いますので、神楽様は目の前のタスク、配信と企画に集中してください」
あまりにもあっさり言うので、葵湖は拍子抜けした。こんなに簡単に解決するものなのか。いや、解決するかどうかはまだわからない。でも、少なくとも「こうすればいい」という道筋が、初めて見えた気がする。
「料金プランについてもご案内しますね。ご契約を前提にしたお話ではなく、あくまでご参考として」
律が画面を共有し、料金表が映し出された。いくつかのプランが並んでいるが、律が指し示したのはその中でも一番下に書かれた、葵湖が想定していたものとは違うプランだった。
「通常は週に何時間、という形で占有時間を設定するプランが主流です。たとえば週10時間の占有プランだと、月額60,000円。この枠の中で、スケジュール管理、案件対応、経理補助などをまとめて対応します」
月額60,000円。葵湖は画面の数字を見つめる。安くはない。でも、法外でもない。案件1件分の報酬で賄える金額だ。
「ただ、神楽様の場合は占有時間を設けないプランの方が合うと思います」
「占有時間を設けない?」
「はい。決まった時間を確保する代わりに、私の空いている時間であればいつでもオンラインで対応できるプランです。チャット、メール、必要であれば電話も。月額35,000円になります」
35,000円。占有プランより、25,000円安い。葵湖は思わず画面に身を乗り出す。
「ただし、他のクライアント様の対応中は優先順位が下がりますので、即時対応はお約束できません。占有プランであれば確保された時間内は最優先で対応しますが、このプランではそれがない。そこがトレードオフになります」
律の説明は淡々としていた。メリットだけを並べずに、デメリットもきちんと伝えてくる。押し売りの気配が一切ない。まるで商品棚に並んだ選択肢を、横に立って一緒に眺めているような距離感だ。
「神楽様の活動スタイルだと、決まった曜日の決まった時間にまとめて相談、というより、思いついた時にすぐ投げたい、という方が自然だと思います。占有時間を設けると、その枠の中でしか対応できないので、かえって窮屈になるかもしれません」
自分の活動スタイルに合わせて、プランを選んでくれている。テンプレートの提案ではない。さっきの会話で聞き取った情報を、もう反映している。
「それと、現在2つのキャンペーンが適用できます」
律が料金表の下部を指し示した。
「1つ目が、1ヶ月お試しキャンペーン。初月の料金が30%オフになります。2つ目が、個人活動者応援キャンペーン。活動開始から1年以内の個人クリエイターの方を対象に、初月の料金が半額になります。神楽様は活動歴が約1年ですので、こちらも適用可能です」
「両方使えるんですか?」
「はい、重ねがけできます。35,000円の30%オフで24,500円、そこからさらに半額で、初月は12,250円になります」
12,250円。
葵湖は、自分の耳を疑った。月額12,000円ちょっとで、スケジュール管理も、案件の返信の下書きも、経理の補助も、全部投げられる。あの未読メールの山も、カレンダーの混乱も、請求書の管理も。
頭の中で、天秤が揺れた。
片方の皿に、12,250円。もう片方の皿に、あの散らかった部屋と、空の冷蔵庫と、返信し忘れたメールと、ダブルブッキングしかけたスケジュールと、1つも消えないやりたいことリスト。
「2ヶ月目以降は通常料金の35,000円に戻りますが、もちろん初月で合わないと感じられたら、そのまま契約を終了していただいて構いません。違約金もありません」
律の声は変わらない。売り込んでいない。ただ、事実を並べている。選ぶのはこちらだ、という姿勢が、言葉の端々から伝わる。
「最初はオンラインベースのサポートから始めて、必要に応じて対面での業務を追加していく形でいかがでしょうか。いきなり全部をお任せいただく必要はありません」
その言葉の裏に、葵湖が何を警戒しているか、律は気づいているんだろう、と伺えた。初対面の異性に、いきなり生活圏に入られることへの抵抗。それを口に出さずに、選択肢として「オンラインから」と提示してくれている。
メールの時と同じだ。カメラのオン・オフを選ばせてくれた時と。この人は、相手が言葉にしていない不安を読み取って、それを指摘するのではなく、自然に配慮として組み込む。
すごいな、この人。
「あと1つ、お聞きしてもいいですか」
律の声のトーンが、ほんの少しだけ変わった。柔らかくなる、というのとは違う。真剣さの種類が変わる、という方が近い。
「今後、やってみたいことはありますか。直近の課題とは別に、もう少し先の話として。こういう企画をやりたいとか、こういう方向に活動を広げたいとか」
葵湖の指が、膝の上で止まった。
やりたいこと。
あのノートに書き溜めた、実行できていないリストが頭をよぎる。ゲーム実況の新シリーズ。オリジナル曲の制作。屋外ロケの企画。コラボイベントの主催。グッズの新ライン。ファンミーティング。料理企画の拡大。旅行配信。ものづくり配信。
多すぎる。全部言ったら、欲張りだと思われるかもしれない。現実を見ろと言われるかもしれない。今の状況で何を言っているんだと。
でも、律の目が、画面越しに真っ直ぐこちらを見ている。聞きたいと言っている。夢物語でもいいから、聞きたいと。
「あの、笑わないでくださいね」
「笑いません」
即答だった。間がなかった。その間のなさに、葵湖は少しだけ笑ってしまう。
「やりたいこと、めちゃくちゃあるんです」
口を開いたら、止まらなくなる。
オリジナル曲を作りたい。歌が上手いわけじゃないけど、自分だけの曲が欲しい。そのためにボイトレやダンスレッスンに通いたい。屋外でロケをしたい。スタジオの中だけじゃなくて、外の空気を配信に乗せたい。ファンの人たちと直接会えるイベントをやりたい。コラボも、もっと色んな人と。ものづくりの企画もやりたい。アクセサリーとか、小物とか、自分の手で作ったものをグッズにしたい。
話しながら、自分の声が変わっていくのがわかる。さっきまでの緊張した声ではない。配信の時の遊楽アコの声でもない。もっと奥にある、神楽葵湖の、素の熱。抑えようとしているのに、言葉の端から滲み出てしまう。
「すみません、話しすぎました」
我に返って、慌てて口を閉じた。顔が熱い。初対面の人に、こんなに喋るつもりじゃなかった。
「いえ。とても大事なことを聞かせていただきました」
律の声は、変わらない。最初と同じ温度と速度で、でも画面の向こうで、ほんの少しだけ口元が緩んでいるように見えた。見間違いかもしれない。
「では、正式な契約に際してのご案内は、後ほど専用のURLをメールでお送りします。契約内容の詳細と、利用開始までの流れをまとめたものです。ご不明な点があれば、いつでもご連絡ください」
「はい。ありがとうございます」
「こちらこそ、本日はありがとうございました。失礼いたします」
画面が切れる。
葵湖はしばらく、暗くなったモニターを見つめていた。自分の顔が、黒い画面にうっすら映っている。頬が、まだ少し赤い。
怖い人じゃなかった。怪しい人でもなかった。穏やかで、丁寧で、こちらの話をちゃんと聞いてくれる人だった。仕事ができる人だった。自分の弱いところを「特性」と言い換えてくれる人だった。
でも。
だからこそ、少しだけ怖い。
こんなに的確に自分のことを見抜かれたら、隠しておきたいことまで見透かされてしまうんじゃないか。仕事の裏側だけじゃなく、もっと奥の、自分でも整理できていない部分まで。
葵湖は首を振る。考えすぎだ。仕事の関係なのだから。プロとプロの、契約に基づいた関係。それ以上でも以下でもない。
でも、頭の中で天秤がまた揺れている。今度は、さっきとは違う天秤。
月々35,000円。初月は12,250円。その金額で、あの未読メールの山が消える。スケジュールの混乱が収まる。案件の返信を忘れる恐怖から解放される。そして、空いた時間で、あのノートのリストに手をつけられる。
オリジナル曲。屋外ロケ。ファンイベント。ものづくり。
想像するだけで、胸の奥に火が灯る。あの面談の最後に滲み出てしまった熱が、まだ消えていない。消えるどころか、具体的な金額と具体的なサポート内容を知ってしまった今、熱はむしろ強くなっている。
月35,000円で、やりたいことに手が届く。
葵湖は自分の目が、画面に映った暗いモニターの中で光っているのに気づく。瞳の奥に、さっきまでなかった色がある。
でも、男の人だ。
知らない男の人に、自分の生活のリズムを全部知られる。収入も、スケジュールも、困っていることも。オンラインだけとはいえ、チャットでいつでも繋がるということは、日常の中に常にその人の存在がある、ということだ。
大丈夫だろうか。本当に。
スマートフォンを手に取る。画面に、律からのメールの通知はまだない。当たり前だ。面談が終わったばかりだ。
なんで確認したんだろう。
スマートフォンを伏せて、椅子の背もたれに身体を預ける。深く息を吐く。
大丈夫。きっと、大丈夫だ。
須藤律は、面談の通話を切った後、数秒だけ画面を見つめてから、手元のノートに視線を落とした。
面談中に走り書きしたメモが、見開き1ページを埋めている。神楽葵湖。個人勢VTuber。登録者約3万。活動歴1年。案件増加に伴い事務処理が逼迫。マルチタスク不適性。集中特化型。スケジュール管理の外部委託が最優先。
ペンを置いて、スケジュール管理アプリを開く。
画面に並ぶのは、色分けされたブロックの群れだ。月曜から日曜まで、朝から夜まで、隙間を縫うように予定が詰まっている。青はA社のタレントマネジメント。緑はB氏のイベント運営補助。黄色はC社の新人研修サポート。オレンジは個人クリエイターのSNS運用代行。それぞれが異なるクライアントで、異なる業務で、異なる締め切りを持っている。
律はこの画面を、毎朝コーヒーを淹れながら確認する。今日やるべきことの全体像を頭に入れて、優先順位を組み替えて、1日を始める。それが習慣だ。特別なことだとは思っていない。
新しいブロックを1つ追加する。薄い紫。神楽葵湖。占有時間なしのオンライン対応プラン。ブロックは小さい。他のクライアントの色鮮やかなブロックに比べると、控えめに見える。でも、この小さな紫が、これからどう広がるかはまだわからない。
ノートのメモに目を戻す。走り書きの中に、業務内容とは別の言葉が1つだけ混じっている。
熱量。
面談の後半、やりたいことを聞いた時の神楽葵湖の声を、律は思い出す。
最初は緊張していた。声が硬くて、言葉を選んでいるのが画面越しにもわかった。警戒されている自覚はあった。初対面の異性に仕事の裏側を見せることへの抵抗は、当然のことだ。だから距離を詰めなかった。必要な情報を、必要な分だけ聞いた。
でも、最後の質問で変わった。
やりたいことを話し始めた瞬間、声の質が変わった。硬さが溶けて、速度が上がって、言葉が言葉を追い越していく。オリジナル曲、屋外ロケ、ファンイベント、ものづくり。次から次へと溢れ出す企画の断片。本人は「話しすぎた」と恥ずかしそうに切り上げたが、あの数分間に、神楽葵湖という人間の核が見えた気がした。
この人は、余計な荷物さえ降ろせば、走れる人だ。
走りたくて走りたくて仕方がないのに、両手に荷物を抱えすぎて、足が動かなくなっている。荷物を持ってあげれば、たぶん、すごい勢いで走り出す。
律はペンを取り、ノートの隅に小さく書き足す。
この人は、契約する。
確信に近い感覚がある。でもそれは、自分のプレゼンが良かったからではない。サービスの内容や料金が魅力的だったからでもない。
あの声だ。やりたいことを語る時の、あの声。あの熱量を持っている人間は、目の前に道が見えたら止まれない。止まりたくない。本人はまだ迷っているつもりかもしれないが、心はもう決まっている。あとは頭が追いつくのを待つだけだ。
律はノートを閉じて、メールの作成画面を開いた。契約手続きの案内。専用URLの発行。利用開始までのステップ。テンプレートはあるが、少しだけ文面を調整する。神楽葵湖の文章の温度に合わせて、硬すぎず、でも馴れ馴れしくならないように。
送信。
メールボックスに、送信済みの表示が出る。律はそれを確認してから、スケジュール管理アプリに視線を戻した。次の予定は15分後。B氏のイベント会場の下見に関する電話確認。その後はC社の研修資料のレビュー。夕方にはA社のタレントとの定例ミーティング。
薄い紫のブロックが、画面の隅で静かに光っている。
はコーヒーカップを手に取り、一口飲んで、次の仕事に向かった。




