Archive.1 死ぬ時に後悔だけは残したくない
「というわけで、今日のお料理配信はここまでっ。みんな、一緒に作ってくれた人いるかな?」
画面の向こうから流れてくるコメントの波を、遊楽アコは満面の笑みで受け止めた。チャット欄の自動スクロールが止まらない。『おいしくできた!』『焦がした』『アコちゃんのレシピ神』『俺の嫁』。色とりどりの文字が滝のように落ちていく。
「えー、焦がしちゃった人もいるの? 大丈夫大丈夫、アコもね、リハーサルで1回やらかしてるから! え、リハーサルしてたの、って? してますよぉ、アコだってちゃんと準備するんだから!」
ぷくっと頬を膨らませるモーションが画面に映る。トラッキングが拾った表情の動きが、2Dのアバターを可愛らしく歪ませる。チャット欄が『かわいい』の4文字で塗り潰された。スーパーチャットの通知音がぽん、ぽん、と軽やかに鳴り、アコは両手を胸の前で合わせて小さくお辞儀をする。
「ありがとう、ほんとにありがとう。みんなが来てくれるから、アコは毎日楽しいよ」
声のトーンが少しだけ落ちる。甘さの中に、芯のある温度が混じる。何千回と繰り返してきた感謝の言葉なのに、毎回ちゃんと心を込める。それが遊楽アコというVTuberの、いちばんの武器だった。
「じゃあ、また明日ね。おやすみなさい、ゆらアコでしたっ」
配信終了のボタンを押す。
画面が暗転する。
同時接続数のグラフが折れ線を描いて落ちていく。チャット欄が凍る。スーパーチャットの通知音が止む。さっきまで何千人もの視線が集まっていたモニターが、ただの光る四角に戻る。
数秒の静寂。部屋の中に、パソコンのファンが回る低い音だけが残る。
葵湖は、椅子の背もたれに全体重を預ける。革張りの安い椅子がぎしりと軋む。天井の染みを数えるように視線を漂わせ、長く、深く、肺の底から息を吐き出す。
「つっかれた」
声はさっきまでの甘い響きとは別人だ。低くて、乾いていて、飾り気がない。部屋着のパーカーの袖で額の汗を拭い、ぐるりと首を回すと、鈍い音が2つ鳴った。右と、左。肩の奥に溜まった疲労が、骨を軋ませている。
ヘッドセットを外すと、耳の周りに残る圧迫感が、じわりと解けていくのを感じた。3時間押しつけっぱなしだった耳たぶが熱い。指先で揉むと、自分の耳がこんなに薄かったかと妙な感慨が湧く。
モニターの光が消えた部屋は、思ったより散らかっていた。いや、思ったより、ではない。散らかっていることは知っていた。知っていて、見ないふりをしていた。
デスクの端に積まれた未開封の郵便物。いちばん下のものは、もういつのなんの郵便かすら分からない。飲みかけのペットボトルが3本、それぞれ違う水位で並んでいる。どれが今日のものかわからない。台本用に開いたままのノートの上に、干し忘れた洗濯物が1枚、なぜか乗っている。いつ置いたのかも覚えていない。
葵湖はそれを見て、笑う気力もない。笑えたら、まだ余裕があるということだ。
スマホを手に取る。画面が点灯した瞬間、通知の数字が葵湖の脳を殴る。
未読メール14件。SNSのDMが8件。案件の問い合わせが3件。コラボ依頼の返信期限が明日までのものが1つ。
1つ1つは小さな仕事だ。返信を打つだけ。確認するだけ。判断するだけ。でも「だけ」が14個並ぶと、それはもう「だけ」ではない。水滴が1滴ずつ溜まっていくように、気づいた時にはバケツから溢れている。葵湖のバケツは、もうとっくに限界を超え、水は足元を濡らし、靴下を湿らせ、それでも蛇口は止まらない。
スマホを伏せて、立ち上がる。
冷蔵庫を開けると、白い光が顔を照らした。眩しそうに中身を覗けば、卵が2個と、賞味期限が怪しいヨーグルトが1つ目に入る。棚の奥に押しやられた調味料のボトルが、冷蔵庫の広さをかえって際立たせている。
今日の配信で作った料理は見栄えよく盛り付けて画面に映した。リスナーからは『美味しそう!』『アコちゃん料理上手!』とコメントが飛んだ。でも自分の分は作っていない。いつもそうだ。配信のための準備はできるのに、自分のための準備はいつも後回しになる。画面の中のアコは毎日ちゃんとご飯を食べているのに、画面の外の葵湖はろくに食べていない。
コンビニに行く気力はない。外に出るなら着替えなければならない。着替えるなら洗濯物の山から何か探さなければならない。その工程を想像しただけで、足が重くなる。
卵かけご飯でいいか、と炊飯器を見る。蓋を開けると空のお釜が顔を出した。米を炊き忘れていた。
「あー」
天井を仰ぐ。2度目。今日はまだ2度目だから、まだましな方だ。
食事を諦めて、冷蔵庫の扉を閉める。白い光が消えて、キッチンが薄暗くなる。
登録者が30,000人を超えたあたりから、歯車の回転が速くなった。案件が増え、コラボの声がかかるようになった。嬉しいはずだった。嬉しいのだ、間違いなく。1年前、誰にも見向きもされなかった頃を思えば、今の状況は夢みたいなものだ。初配信の同時接続数が3人で、そのうち2人は自分のサブアカウントだった頃。あの頃の自分が今を見たら、泣いて喜ぶだろう。
でも夢は、1人で回すには重すぎた。
企画の立案。サムネイルの作成。案件先とのメールのやり取り。請求書の管理。確定申告の準備。SNSの更新。リスナーへの対応。グッズの発注確認。コラボ相手との日程調整。全部、葵湖が1人でやっている。最初はそれでよかった。全部自分でやるのが個人勢の醍醐味だと思っていた。自分の手で全部作り上げる。それが誇りだった。
最近は違う。全部自分でやらなければならないのが、個人勢の限界だと思い始めている。
先週、案件のメールに返信し忘れた。下書きフォルダに入れたまま、送信ボタンを押していなかった。気づいた時には先方の担当者から催促が来ていて平謝り。相手は目の前にいないのに、胃の底が冷たくなるのを感じた。その前の週は、コラボ相手とのスケジュール調整を間違えて、危うくダブルブッキングするところだった。確認すると、カレンダーアプリに入力したはずの予定が、別の日に入っていた。自分で入力したのに。
ミスが増えている。以前はこんなことなかった。
配信の質は落としたくない。リスナーの前では、いつも通りの遊楽アコでいたい。画面の中では笑っていたい。でもそのために裏側で削られているものが、確実にある。睡眠時間。食事。部屋の清潔さ。友人との連絡。そして、何より、
「やりたいこと、全然できてない」
つい漏れ出た呟きが、散らかった部屋に落ちる。洗濯物も、未開封の郵便物も、空のペットボトルも、何も答えない。
VTuberになったのは、色んなことに挑戦するためだった。ゲームも、歌も、料理も、旅行も、ものづくりも。企画と称して何でもやれる、それがこの仕事の一番の魅力だったはずだ。会社を辞めた時、自分に誓った。もう、やりたいことを我慢しない。後悔だけは残さない、と。
なのに今は、事務作業に追われて新しい企画を考える余裕すらない。やりたいことリストは増える一方なのに、実行に移せたものは1つもない。リストだけが膨らんで、ノートの中で腐っていく。準備する時間が取れなくて、新しいことへの挑戦がここ数ヶ月できていない。
本末転倒だ。
葵湖はベッドに倒れ込む。スプリングが軋んで、身体を受け止める。仰向けのまま、スマホを顔の上に掲げるが、腕がだるいし、画面の光が目に痛い。
SNSのタイムラインを無意識にスクロールする。親指が勝手に動く。誰かの新作動画の告知。誰かのコラボ報告。誰かの新衣装お披露目。同じ時期にデビューした子たちが、最近やたらと伸びている。嫉妬ではない。ただ、眩しい。自分も、ああいうことがしたいのに。
親指が止まる。
広告だ。
『あなたの活動、1人で抱えていませんか? タレント・クリエイター向けマネジメント人材派遣サービス』
普段なら指で弾いて飛ばしている。広告は広告だ。目に入っても、脳まで届かない。でも今日は、その一文が胸の真ん中に刺さる。1人で抱えていませんか。
抱えてる。めちゃくちゃ抱えてる。
興味本位でタップする。期待はしていない。どうせ法人向けの高額サービスか、怪しいフリーランスの寄せ集めだろう。
サービスのページは、思ったより洗練されていた。
登録されているスタッフのプロフィールが並び、それぞれのスキルセットや対応可能な業務が一覧になっている。顔写真の横に、経歴の要約と利用者からの評価が星の数で表示されている。料金体系も明瞭で、時間単位のスポット契約から始められるらしい。月額固定ではなく、必要な時だけ頼める。
想像していたより、ずっと手が届く価格だった。
葵湖はベッドの上で身体を起こす。枕を背中に当てて、画面を真剣に覗き込む。さっきまでの疲労が、少しだけ後ろに退く。
スタッフの一覧をスクロールしていく。スケジュール管理が得意な人。SNS運用に強い人。動画編集ができる人。経理専門の人。それぞれに専門分野があって、自分の需要と照らし合わせながら見ていく。
欲しいのは、全部だ。スケジュール管理も、案件交渉も、事務処理も、できれば企画の相談にも乗ってほしい。でもそんな都合のいい人が、
指が止まる。
須藤律。20代。
対応可能業務の欄に並んだスキルの数が、他のスタッフと明らかに違う。スケジュール管理、案件交渉、契約書確認、経理補助、企画立案サポート、SNS運用、動画編集補助、イベント運営。項目が縦に連なって、スクロールしないと全部見えない。まるで1人で事務所を回せるような布陣だ。
利用者からの評価も高い。星は4.9。レビューの数も多い。
『対応が的確で早い』『こちらの意図を汲んでくれる』『痒いところに手が届く』『言わなくても先回りしてくれる』『もう手放せません』。
レビューの文面からは、淡々と、でも確実に仕事をこなす人物像が浮かぶ。派手さはない。でも、頼んだことが確実に片付く。それがどれだけ貴重なことか、葵湖には痛いほどわかる。
画面を見つめたまま、唇を噛んだ。
理想的すぎる。こんな人に手伝ってもらえたら、どれだけ楽になるか。事務作業から解放されたら、新しい企画を考える時間ができる。やりたかったことに、また手を伸ばせる。あのノートに書き溜めたリストを、1つずつ消していける。
胸の奥が、じわりと熱くなる。希望という名前の熱だ。久しぶりに感じる。
でも。
プロフィール写真の横に表示された性別の欄。
男性。
熱が、すっと引く。
VTuberとして、異性のマネージャーを入れるということに若干の抵抗があった。配信のスケジュールを共有するということは、生活のリズムを知られるということだ。何時に起きて、何時に寝て、何曜日が空いていて、何曜日が忙しいか。案件のやり取りを任せるということは、収入の規模を把握されるということだ。どこからいくら入って、何にいくら使っているか。前の会社が男社会だったこともあり、男性と関わること自体にうっすらと抵抗を感じる。何より、アイドル路線で売っている遊楽アコに男の影がチラつくリスクを抱えるのは、ブランディング上非常に良くない。
信頼できるかどうか以前に、そもそも知らない男の人に、自分の活動の裏側を全部見せることになる。遊楽アコの中身が神楽葵湖であること。配信の裏で部屋が散らかっていること。冷蔵庫が空っぽなこと。そういう、全部。
いや、考えすぎか。仕事なんだから。プロとして契約するんだから。美容院だって歯医者だって、相手が男性のこともある。それと同じだ。
でも、美容院は髪を切って終わりだ。歯医者は歯を治して終わりだ。マネージャーは、終わらない。日常に、入ってくる。
やっぱり。
葵湖はスマホを1度伏せて、天井を見上げる。3度目。今日はよく天井を見る日だ。天井の染みが、さっきより1つ増えた気がする。気のせいだ。
考え直して、女性スタッフの中から探すことにする。須藤律ほど万能ではないけれど、スケジュール管理と案件対応ができる人。画面を戻して、フィルターをかけ直す。何人かのプロフィールを比較して、1人の女性スタッフに目を付ける。スキルの幅では律に及ばないが、対応業務は葵湖の最低限の需要をカバーしている。評価も悪くない。星4.6。レビューには『丁寧で安心感がある』と書いてある。
うん、この人でいい。この人にしよう。
お気に入りに登録する。明日、改めて契約の手続きを確認しよう。今日はもう、考える力が残っていない。
スマホを充電器に繋いで、布団に潜り込んだ。目を閉じると瞼の裏に、須藤律のプロフィールページがちらついた。あのスキルの羅列。あの評価の高さ。あの、ちょっと悔しいくらいの完璧さ。
まあ、女性スタッフで十分だ。十分。そもそもこのサービスを利用するかどうかも含めて、寝ながら考えよう。
そう自分に言い聞かせて、葵湖は眠りに落ちる。
3日後。
葵湖は画面の前で固まっていた。
あの女性スタッフのプロフィールページ。ステータスの欄に、見覚えのない表示が出ている。
『現在新規契約の受付を停止しています』
たった3日だ。3日、迷っている間に。いや、迷ってすらいなかった。明日やろう、と思って、その明日が3回過ぎただけだ。その3回の間に、誰かがあの人を見つけて、契約して、持っていった。
慌てて他の女性スタッフを探す。フィルターをかけ直し、条件を入力する。スケジュール管理、案件対応、できれば経理も。でも、同じ条件を満たす人がいない。いても、対応可能エリアが違う。いても、スケジュールが合わない。いても、評価が低い。
指が止まる。
ふと、須藤律のページに戻る。
お気に入り登録数が、3日前より明らかに増えている。3日前は2桁だったはずの数字が、3桁に届きそうだ。じわじわと、確実に上がっている。この人も、このままだと。
胸の奥で、焦りが弾ける。
あの女性スタッフを逃した時と同じだ。迷って、先延ばしにして、気づいた時にはもう遅い。葵湖はいつもそうだ。考えすぎて、動けなくなる。
でも。
男性だ。知らない男の人だ。自分の活動の裏側を、全部。
葵湖は唇を引き結ぶ。
迷っている場合じゃない。迷って動かなかった結果がこれだ。次を逃したら、また振り出しに戻る。事務作業に埋もれて、やりたいことができない日々に戻る。あのノートのリストが、また1つも消えないまま、ページだけが増えていく。
死ぬ時に後悔だけは残したくないって、決めたでしょ。
心の中で葵湖は自分に言い聞かせた。会社を辞めた日に誓った言葉だ。あの時だって怖かった。収入がなくなる恐怖。周囲の目。親への申し訳なさ。でも飛び込んだ。飛び込んだから、今がある。
指が動く。契約手続きのボタンをタップする。必要事項を入力していく。活動名。業務内容の希望。連絡先。指が震えている。寒いからだと思うことにする。7月なのに。
入力欄を全部埋めて、確認画面を見直す。3回見直す。誤字がないか。変なことを書いていないか。大丈夫。大丈夫だ。
送信ボタンを、押す。
画面が切り替わって、「送信が完了しました」の文字が表示される。
葵湖はスマホを胸の上に置いて、大きく息を吐く。心臓がうるさい。やってしまった。もう戻れない。いや、戻れる。キャンセルすればいい。でも、キャンセルしたら、また。
しない。キャンセルはしない。
決めたのだ。
返信は、思ったより早かった。翌日の午前中、配信の準備をしている最中に、スマホが震える。メールの通知。差出人の名前を見て、心臓が跳ねる。
須藤律。
『神楽様 はじめまして。この度はご相談いただきありがとうございます。須藤と申します。
ご希望の業務内容を拝見いたしました。まずは1度、ウェブ面談にてお話をお伺いできればと思います。ご都合の良い日時をいくつかお知らせいただけますでしょうか。
なお、面談は30分程度を予定しております。カメラのオン・オフはご自由にお選びください。』
丁寧で、簡潔で、過不足がない。一文一文が短くて、読みやすい。ビジネスメールとしては模範的だ。文面から人柄を読み取ろうとするけれど、ビジネスメールの向こう側にいる人間の温度は、まだわからない。
ただ、最後の一文が目に留まる。カメラのオン・オフはご自由に。
こちらの事情を想像してくれている。VTuberの中の人が、初対面の相手に顔を見せることへの抵抗。それを察した上で、選択肢を渡してくれている。気遣いなのか、マニュアルなのか。どちらにしても、嫌な感じはしない。
葵湖は返信を打つ。候補日を3つ。文面を書いては消し、書いては消す。硬すぎないか。逆に軽すぎないか。「よろしくお願いします」の後に「!」をつけるかどうかで30秒迷った。普段のメールではこんなことしないのに。案件先への返信なんて、テンプレートを少しいじるだけだ。
結局、「!」はつけなかった。
送信。
律からの返信は、また翌日の午前中だった。時間帯が一定している。朝型の人なのかもしれない。候補日の中から1つを選び、ウェブ面談のURLが添えられている。
その下に、事前に共有してほしい情報のリストが付いていた。
現在の活動規模(登録者数、月間再生数の概算)。月あたりの案件数。配信頻度と主な配信ジャンル。現在困っている業務の優先順位。今後やりたいと考えている活動。
項目が、妙に具体的だと思った。漠然と「お話を聞かせてください」ではなく、何を知りたいかが明確に示されている。しかも最後の1つ、「今後やりたいと考えている活動」。現状の問題を聞くだけでなく、未来の話まで聞こうとしている。
ああ、この人は仕事ができる人だ。
葵湖は直感的にそう思った。質問の仕方で、わかる。何を聞けばいいか知っている人の聞き方だ。必要な情報を、相手に負担をかけない形で引き出す。それは技術だ。
同時に、現実味が増す。
本当にこの人と仕事をするのだ。知らない男の人に、遊楽アコの裏側を見せるのだ。登録者数も、収入の規模も、困っていることも、やりたいことも。全部。
リストの項目を1つずつ埋めていく。数字を書くたびに、自分の活動が丸裸にされていくような気持ちになる。でも、隠しても意味がない。隠したら、正確なサポートは受けられない。病院で症状を隠す患者みたいなものだ。
全部書いた。送信した。また、心臓がうるさい。
面談の前日。いつぶりか分からないほど久々に、葵湖は部屋を片付けた。睡眠時間をいつもの半分に削り、映画の同時視聴配信の片手間にデスクを静かに整えた。
ウェブ面談だから、カメラに映る範囲だけでいいはずだ。背景をバーチャル背景にすれば、そもそも部屋は映らない。なのに、なぜか部屋全体を掃除している。洗濯物を畳み、ペットボトルを捨て、未開封の郵便物を開封して、必要なものと不要なものに分ける。デスクの上を整理し、ノートを閉じて、ペン立てにペンを戻す。
掃除機をかけながら、自分でも不思議に思った。誰に見せるわけでもないのに。カメラをオンにするかどうかすら決めていないのに。
でも、散らかった部屋のまま面談に臨むのは、なんとなく嫌だった。相手に見えなくても、自分が知っている。散らかった部屋で、散らかった生活のまま、「助けてください」と言うのは。なんだか、負けを認めるみたいで。
いや、助けてほしいから契約したんだけど。
鏡の前で、服を3回着替える。最初にパーカーを着て、やっぱりちゃんとした方がいいかとブラウスに替えて、でも気合い入りすぎかとカットソーにして、結局なんかしっくりこなくて、一番最初のパーカーに戻った。
パーカーが、いちばん自分らしい。
面談の時間になった。
パソコンの前に座ると、画面にはウェブ会議ツールの待機画面が映っていた。無機質な灰色の画面に、「ホストが会議を開始するまでお待ちください」の文字。開始時刻の2分前。
葵湖は自分のカメラ映りを確認する。結局、カメラはオンにすることにした。顔を隠したまま仕事を頼むのは、なんだかフェアじゃない気がした。髪を整える。前髪の分け目が気になる。背筋を伸ばす。画面の中の自分が、少しだけまともに見える。
心臓が、配信前より速く打っている。
配信なら慣れているはずだ。何千人の前でも平気だ。台本がなくても、アドリブで場を回せる。遊楽アコの仮面をかぶれば、どんな場面でも乗り切れる。
でもこれは、遊楽アコではなく神楽葵湖としての、たった1人の知らない人との、一対一だ。台本はない。アバターもない。素の自分で、素の声で、話さなければならない。しかもこの先、自分の仕事の全部を預けるかもしれない相手と。
手のひらが湿っている。膝の上で、拳を握ったり開いたりした。
通知音が鳴る。
相手が入室した合図。画面の隅に、小さなアイコンが点灯する。
葵湖は1つ深呼吸をした。肺いっぱいに空気を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。大丈夫。大丈夫だ。ただの面談だ。合わなければ断ればいい。
接続ボタンを押す。
画面が切り替わる。灰色の待機画面が消えて、1人の人間の姿が映った。
「はじめまして。須藤です」
落ち着いた声が、スピーカーから流れる。低すぎず、高すぎず、角のない声。急かさない速度で、はっきりと。
葵湖は、息を止めたまま、画面を見つめた。




