第22話 選ばせる悪魔
乱子が一歩、前へ出た。
メフィストフェレスを中心に描かれた黒い円。その半径は二メートル。
【第四条――我より二メートル以内へ侵入した物体は、その速度に応じて自壊する】
高速で入れば入るほど激しく壊れる。拳銃弾ほどの速度なら、境界を越えた瞬間に原形を留めない。
ならば、と乱子はまず一番単純な方法から試した。
銃口を下げて一発。
残された反射面をいくつも使いながら弾丸の勢いを削り、人間が投げた小石ほどの速さまで落とす。鈍くなった弾丸は黒い円へ触れ、表面へ細かなひびを走らせながらも、今度は砕けずに内側へ入り込んだ。
「入りました!」
マヨイエルが思わず前のめりになる。
だが、弾丸はあまりにも遅い。
メフィストは慌てることもなく、杖の先で軽く払った。金属音を立てて弾丸が床を転がる。
「……、まあ、そうなるよな」
ロンジがちっと舌打ちする。
「第四条だけなら抜けられる。でも速度を捨てたら、今度は本人に普通に処理される」
「そういうことですねえ」
ディーゼも黒い円を見ながら頷いた。
「条文自体は単純ですけど、実戦だとかなり嫌らしいですよお」
メフィストも満足そうだった。
「発想は正解です。しかし残念ながら、私も動けますので」
「うん。じゃあ次」
乱子はすぐ二発撃った。
左右から低速で侵入した弾丸を、メフィストは片方だけ杖で落とし、もう一方は半歩ずれて避ける。三発に増やしても、さらに数を重ねても結果は大きく変わらない。
《《速度を捨てれば第四条は抜けられる》》。
しかし同時に、《《銃弾としての脅威まで捨てることになる》》。
「無駄ですよ」
メフィストが言う。
「速度を捨てれば破壊力も捨てる。銃というものは、随分と不便な道具ですな」
乱子はすぐには撃ち返さなかった。
その数秒を、メフィストは逃さない。
「一つ、取引をいたしませんか?」
「……また?」
「ええ。あなたとの取引は実に楽しい」
杖を胸元へ添え、丁寧に条件を提示する。
「その拳銃を《《一丁こちらへ譲っていただければ》》、《《第四条を一度だけ停止して差し上げましょう》》」
「一回だけ?」
「好きな角度から一発。ただし第一条は残ります」
「じゃあいらない」
「では二発」
「いらない」
「三発」
「それでもいらない」
メフィストは困ったように帽子を傾けた。
「随分と頑固ですね」
「だって、自分で解いた方が面白いし」
「契約より解答を選ぶ、と」
「うん」
「そこは実にあなたらしい」
乱子はそこで銃口を下げた。
黒い円とメフィストまでの距離を確かめるように一度足場を変え、《《そのまま真正面から走り出した》》。
「……、は?」
ロンジの声が遅れて出る。
「いや待て、なにやってんだ……!?」
十メートルほどあった距離が、一気に縮まる。
意図を察したメフィストも杖を振り、黒い刃のような光を放った。乱子は最初の一撃を身体を捻ってかわしたが、続く二撃目が肩を裂く。
「近づくつもりですか」
「うん」
「弾丸を入れられないなら、自分が入る。随分と乱暴な答えだ」
「簡単でしょ?」
さらに黒光が走り、今度は脇腹を浅く裂いた。乱子の足が少し乱れる。
それでも止まらない。
四メートル――三メートル。
メフィストが杖を真正面から突き出した。
乱子は避けなかった。
《《先端が腹部へ深く刺さる》》。
「乱子さん!!!!!」
マヨイエルの悲鳴が上がった。
白い衣装へ血が広がるが、それでも乱子は止まらず、そのまま一歩踏み込んだ。
杖がさらに肉へ食い込む。
「……!」
メフィストの方が、一瞬だけ反応に遅れた。
普通なら、痛みで身体が引く。恐怖で足が止まる。だが乱子は、腹を貫かれたまま黒い円の境界を越えた。
何も起こらない。
「やっぱり」
血を吐きながら、乱子は嬉しそうに言った。
「私は壊れない」
第四条の対象は〝侵入した物体〟。
乱子自身は、条文の対象外だった。
『入ったァあああああああァ!!? 乱子、自分自身で第四条の内側へ侵入! 弾丸が駄目なら射手ごと入るううう!!!!!!』
ディーゼは呆れ半分、感心半分の声を漏らした。
「まあ……理屈は通ってますねえ」
「理屈が通ってたら腹に杖刺して進んでいいわけじゃねえからな!?」
メフィストが杖を引こうとする。だが乱子は左手でそれを掴んだ。
「離しなさい」
「やだ」
「その傷では長く保ちませんよ」
「大丈夫」
何を根拠に言っているのか、メフィストにも分からなかっただろう。
その時、乱子の右手に握られていた<絶対銃>が、《《黒い粒子へほどけた》》。
「……、え?」
マヨイエルが声を漏らす。
「<絶対銃>が消え――」
「いや、違う」
ロンジもすぐに気づいた。
黒い粒子は消えていない。
乱子の掌を中心に渦を巻き、拳銃とは違う輪郭を作り始めている。銃身が伸び、機関部が太くなり、大ぶりな銃床まで組み上がっていく。
その形を見た瞬間、ロンジの記憶にも別の光景が蘇った。
「……、あ」
罪具を検証した時だ。
乱子はあの時、拳銃以外の銃も普通に出していた。
「そうだ! こいつ、別に拳銃しか出せないわけじゃなかったじゃねえか!!!!」
「……、ああっ!??」
マヨイエルまで今さら思い出したように声を上げる。
「そうでした! 見ましたよ私たち! どうして忘れてたんでしょう!?」
「いや忘れるだろ! 試合始まってからずっと二丁拳銃だけで大悪魔と殴り合ってんだぞ!? 普通そっちが本体だと思うわ! ずっと見てた俺たちでさえ――」
二人が揃って今さら騒ぐ横で、ディーゼだけは何の驚きも見せなかった。
「ようやく使いましたねえ」
実際、第一条を破った時も、第二条で盤面を削った時も、三秒という第三条を攻略した時でさえ、乱子は二丁の拳銃だけで戦っていた。
使えなかったんじゃない。
使わなかっただけだ。
黒い粒子が収束する。ここで初めて、メフィストの余裕が目に見えて崩れた。
太い銃口が、ほとんど押し付ける距離で胸へ向けられる。
第四条は高速物体の侵入を阻む。
だが、すでに内側へ入ってしまえば関係ない。
「<絶対銃>って」
腹を貫かれ、口元から血を垂らしながらも、乱子の声はいつも通りだった。
「《《拳銃しか出せないわけじゃないよ》》?」
「で……は、なぜ今まで――」
「必要なかったし」
乱子はさらりと言った。
「それに、そっちの方が面白そうだったから」
「ショットガン……!!」
ロンジの声と同時に、メフィストの瞳も大きく開いた。
返事を待たずに引き金が落ちた。
ドンッ!
それまでの銃声とは質が違った。
空気そのものを殴りつけるような轟音が闘技場を揺らし、至近距離から放たれた散弾がメフィストの胸を大きく抉る。燕尾服が裂け、血と肉が飛び、長身の身体が後方へ吹き飛んだ。
観客席が一瞬、静まり返る。
『……直撃』
実況の声まで、数舜遅れた。
『至近距離!!!! 散弾銃!!!!!! メフィストフェレス、まともに食らったァァああああ――――!!!!!!!!』
「取った……?」
マヨイエルの声に期待が滲む。
乱子も腹、肩、脇腹、翼まで傷だらけになりながら、散弾銃を抱えたまま立っている。
数メートル先には、倒れたメフィスト。
ディーゼが小さく息を吐いた。
その直後だった。
「……、いえ」
声音が変わる。ディーゼが見ていたのは、倒れたメフィストではない。
その手元に残された杖。
「最後の一条が残ってます」
杖には、まだ一つだけ黒い輪が残っていた。
メフィストフェレスが、ゆっくりと身体を起こす。
胸から大量の血が流れている。普通なら立てるような傷ではない。それでも立った。
「……、見事」
声はかすれ熱が混じっている。
「もう一発いる?」
乱子が散弾銃を構え直す。
「その前に」
メフィストが杖を床へ落とす。最後の黒い輪が赤く輝いた。
「最終問題です」
輪が砕け、中空へ黒い文字が浮かび上がる。
【第五条】
【我が受けた損傷は、この遊戯の契約者へ等しく返還される】
乱子が文章を読む。
「契約者?」
メフィストは血に濡れたまま答えた。
「お忘れですかな?」
『私のゲームへ参加していただけますかな?』
最初のやり取りが、ロンジの頭にも鮮明に蘇った。
「最初の……契約」
マヨイエルの顔から血の気が引く。
「私は嘘をついていない」
メフィストが胸の傷へ触れる。
「危険だと申し上げた。その上であなたは、自分の意思で了承した」
乱子は黙って聞いている。
「故に、あなたは契約者です」
次の瞬間。乱子の胸が大きく弾けた。
「――ッつ!?」
さきほど散弾銃が抉ったのと、ほぼ同じ位置。
大量の血が噴き出し、乱子の身体が大きく揺れる。片膝が地面へ落ちた。
「乱子おおおおおおおおお!!!!」
ロンジの叫びと同時に、悪魔側から大歓声が起こる。
「第五条!」
「終わりだ……!」
「もう撃てねえぞ!!!!」
『返ったァあァァ! メフィストフェレスが受けた傷が、そのまま乱子へ返還されたァ!!!!!!!』
「……これで。理解していただけましたかな」
メフィストは血まみれのまま立っている。
「私を傷つければ、同じ傷があなたにも返る」
「……うん」
「ならば、これで――」
言葉が止まった。乱子が立ち上がったからだ。
胸を押さえ、ふらつきながら、それでも立つ。
「……、まだ続けるのですか」
「うん」
「あなたも傷つく」
「分かってるよ」
「ならば……何故?」
乱子は返事をせず、メフィストの杖へ目を向けた。
五つあった黒い輪は、もう一つも残っていない。
「……、そっか」
散弾銃が黒い粒子へ戻る。
「もう増えないんだ」
次に組み上がったのは、箱型弾倉を備えた黒い突撃銃だった。
「……、何を」
「まだ出してないの、いっぱいあるから」
乱子が引き金を引く。轟音とともに、大量の弾丸が吐き出された。
メフィストが走る。真正面から来る弾丸は第一条で失速する。
だが乱子は正面だけを狙わない。
残された床、砕けた柱、舞い落ちる天使の羽根、三秒以内の軌道変更。
そこへ拳銃では作れなかった弾数を重ね、逃げ道そのものを削っていく。
『今度は突撃銃ゥゥゥ! 弾道計算に物量まで乗せてきたあああ!!!!』
一発がメフィストの肩へ入る。ほぼ同時に、乱子の肩も裂ける。
身体が揺れた。
それでも連射は止まらない。
次の一発がメフィストの脚を貫き、乱子の脚からも同じように血が噴いた。
「……、何をしている」
メフィストの声に、初めて明確な戸惑いが混じる。
「見れば分かるでしょ」
「あなたにも返っている!」
「うん」
「一発撃つたび、自分の身体も壊れている!!1」
「そだね」
「なら何故止めない!!!!」
乱子は当然のように答えた。
「まだ撃てるから」
その言葉を聞いたメフィストの動きが、鈍った。突撃銃がまた黒い粒子へ戻り、次に細長い銃器が形を取る。
長い銃身と大型の照準器。
「狙撃銃……」
ロンジが呟く。乱子は血に濡れた身体で片膝をつき、銃を構えた。
「遠くても」
照準器越しにメフィストを捉える。
「見えてるよ」
発砲。メフィストが杖を振る。
だが弾丸へ横から別の弾が当たり、軌道が変わる。
さらにもう一度。戦場に残された反射面を拾いながら、大きく回り込む。
メフィストがかわす。最後の一度だけ弾道が折れ、肩を貫いた。
同時に、乱子の肩にも穴が開く。
「っ……、」
今度はさすがに姿勢を保てず、乱子は片手を床へついた。
「……、まだですか」
メフィストの声にはもう余裕がない。
「まだ」
狙撃銃が消える。
そして今度は、黒い粒子がこれまでより遥かに大きく膨らんだ。
「おい……、嘘だろ」
太い銃身。
長大な機関部。
人間相手には明らかに過剰な巨大銃。
ディーゼもさすがに声を落とした。
「対戦車ライフルですねえ」
「な……マジ、かよ………………!!!!」
乱子は巨大な銃を抱えるように構える。胸も肩も腹も脚も傷だらけで、翼ももはや見る影がない。
それでも狙いだけは、まっすぐメフィストへ向いていた。
「ねえ」
巨大な銃口が上がる。
「これなら、どっちが先に壊れるかな」
その言葉で、メフィストから初めてたたえていたゆとりが完全に消えた。
「……、やめなさい」
乱子が少し意外そうにする。
「嫌なの?」
「あなたも死ぬ」
「うん」
「分かっているのか!!」
「分かってるよ」
「なら、何故!」
乱子は本当に不思議そうだった。
「だって、知りたいから」
メフィストが一歩下がった。
それを見た瞬間、乱子の指が止まった。
恐怖ではない。
痛みでもない。
誰かに止められたわけでもない。
乱子はしばらくメフィストの顔を眺め、それから巨大な銃口をほんの少し下げた。
「……、あ」
何かに気づいたようだった。
「分かった」
「何が、です?」
メフィストが警戒を解かないまま問う。
乱子は少しだけ嬉しそうに答えた。
「今の顔」
メフィストが黙る。
「怖かったんでしょ?」
悪魔側の観客席まで静まり返った。
乱子は自分の傷だらけの身体を一度見下ろし、もう一度メフィストを見る。
「じゃあ、もういいや」
「……、何?」
「知りたかったの、それだから」
対戦車ライフルが黒い粒子へほどけていく。
メフィストはしばらく言葉を返せなかった。
人間へ何千年も選択を迫り、何を恐れ、何を捨てるのかを見続けてきた悪魔。
その悪魔が今度は、自分の恐怖を見抜かれた。
メフィストが一歩下がった。
ほんの一歩。
それだけだが。初めて人間から後ずさった。
「……………………………………………………、」
悪魔側の観客席さえ静かになる。
これは勇気でも覚悟でもない。敵を倒すために命を捨てる英雄の姿でもない。
乱子はただ。
結果を知りたい。
そのためなら、自分の身体まで実験材料にできる。
「お、い……」
ロンジも、その意味に気づく。
「こいつ、勝つために止めたんじゃない」
ディーゼも同じものを見ていた。
「ええ」
声音だけが少し重い。
「彼女は目的を一つ、達成したんですよお」
乱子はもう巨大な銃を出さない。
それでも<絶対銃>そのものは消えていない。血だらけの両手に、再び扱いやすい拳銃が形を取る。
「でも試合はまだ終わってないから」
乱子が構える。
「ちゃんと、終わるまでやろっか」
その言葉に、メフィストは返事すらできなかった。




