第5話 真夜中の残り香と、古びた鞭の記憶
「旅の人、あんたの話は愉快だ」
その日の夕方、客が立て込む酒場で、道化は身振り手振りを交えて、時には歌を交えて、旅の話を披露していた。
「黄金の氷柱? へえ、そりゃ、俺も行きたいもんだ。一気に大金持ちだ」
「海から湧き出る温泉か。熱いのか冷たいのか、わかんねーな」
「布一枚の美女がたくさん? そんなとこ行ったら、早死にするだろ」
酒場の男たちは、笑いながら、時に驚きながら、道化の話に聞き入っていた。
「……城が砂になって崩れた?」
笑った後は、哀しい話だ。
「そんな風に、滅びる国もあるんだなぁ」
「魔法か?」
「この国の魔法はほんの少しだからな。想像できないが、……だがな、そんなこともあるんだろうな」
酔客はしんみり話に聞き入っている。
客が一人帰り、一人去り、とうとう店に道化だけになったときに、アルが令嬢を連れてやってきた。
そして、あの短い対面のあと、道化は夜の闇へと消えていった。
アルが令嬢を保護するように連れ、逃げるように帰っていった後。
残されたのは、琥珀色のランプの下、重苦しい沈黙に包まれたオーラムとねずみだけだった。ねずみは道化がいなくなった椅子をじっと見つめる。
「……砂になった城は、あの城か」
「……どう思う?」
「……さあな。だが、あの子が幸せになった後のことなんて、俺たちが知る必要はねえ」
ねずみは自嘲気味に笑い、カウンターの下から一本の「棒」を取り出した。それは、この世界に来てから一度も使っていない、かつての御者時代の鞭の柄だった。皮の部分はとうに腐り落ち、今はただの古びた木の棒に過ぎない。
「……なあ、オーラム。俺たちは、逃げてきたのか? それとも、捨てられたのか?」
「……どちらでもないさ」
オーラムは、焼き上がったばかりの、けれど誰に出す当てもない小さなパンをカウンターに置いた。
「俺たちは、あの日、魔法が解ける前に、たぶんな、自分たちの意思で、この草原に降り立ったんだ。……あの子が王子の馬車を選んだ時、俺たちの役割は終わったんだ」
オーラムの言葉は静かだったが、そこには「この土地で食い扶持を稼ぎ、生きていく」という、強い覚悟が宿っていた。
「……そうだな。それにしても、アルの野郎、真っ青な顔してやがった。……あいつ、お嬢様の目が治ったら、自分の冷たい手がバレるって、そればかり気にしてやがる」
「……あの道化師……お嬢の毒にならなきゃいいんだがな」
ふと、ねずみがオーラムの顔を覗き込んだ。
「アルの……あの子、……あの子か?」
「なにいってんだ、かぼちゃ」
二人は顔を見合わせて、同時に噴き出した。
「確かに、目の色は似ている。だけど、俺らがこっち来たとき、あのお嬢はまだ子供だった。もう何年も前だ」
「性格も違う」
「そう、あの子はもっと……」
「あの子は、あいつらにイジメられても、明るく愉快だった」
「アルのお嬢様は淑女だ」
「だな」
かぼちゃとねずみは、灰をかぶりながらも、明るさを失わなかった、あの子を思い出す。
思い出の中の少女と、今、隣町で静かに暮らす令嬢。二つの影を重ねては消し、彼らはまた日常の顔に戻る。
「……ねずみ。明日は、朝一番で市場へ行くぞ。……あいつに食わせたスープよりも、もっと旨いもんを作らなきゃならねえ」
「……へいへい。仕込みは手伝ってやるよ」
ねずみは、大きな閂を扉に掛けた。
十二時の鐘が鳴る。魔法が解ける時間。けれど、この酒場の明かりが消えても、彼らの「明日」は、確かにこの場所から始まるのだ。




