第3話 忙しい朝と、琥珀色の止まり木
夜明け前の城壁町『ルミエール』。
ルミエールは、この街を作った英雄の名前で、この国の国王の名前でもある。
まだ霧が石畳を濡らしている時刻、酒場『オーラム』の裏口からは、もうもうと白い湯気が立ち上っていた。
「……おい、ねずみ! ぼさっとすんな、小麦粉の袋を持ってこい!」
厨房の主、オーラムの太い声が響く。
彼は既に汗だくで、巨大な木桶に入った生地を力強く捏ねていた。
「分かってらあ! ったく、朝から元気なこった……」
ねずみは腰をさすりながら、自分の体ほどもある麻袋を引きずってくる。
「だいたいよ、昨日だってあんなに焼いたんだ。少しは量を減らしたって、誰も文句言やしねえよ」
「馬鹿を言え。昨日は騎士団の連中が非番で、昼前に売り切れたんだぞ。買い損ねた婆さんたちの恨み節を聞くのは、俺じゃなくてお前なんだからな」
オーラムは笑いながら、捏ね上がった生地を鮮やかな手つきで小分けにしていく。
この店は今や、この界隈で一番の繁盛店だ。
やがて、オーブンから香ばしい匂いが漂い始めると、まだ開店前だというのに表通りからザワザワと話し声が聞こえてきた。
「……ほら見ろ。もう並んでやがる」
ねずみが窓の隙間から外を覗く。
そこには、朝一番の焼き立てを求めて、近所の主婦や、これから仕事に向かう職人、さらには隣町から馬を飛ばしてきた商人の姿まであった。
「よし、開けるぞ」
「へいへい、いくぞ」
カラン、と開店の鐘が鳴った瞬間、店内は一気に活気に包まれた。
「マスター! 今日もかぼちゃのパイ、三個くれ!」
「こっちは焼きたてのパンを家族分だ!」
怒涛のような注文が飛び交い、ねずみはよろよろしながらも、捌いていく。
オーラムは厨房で、まるで魔法使いのように次々と料理を仕上げてはカウンターへ送り出す。
あっという間に商品は売切れ、店には「準備中」の看板が張り出された。
喧騒が過ぎ去ると、オーラムはエプロンを脱ぎ、店の裏手に広がる自家菜園へと向かう。
そこは、彼がこの数年で荒れ地を切り拓いて作った、この町で一番豊かな「黄金の畑」だ。
「……よしよし、いい蔓の伸びだ」
オーラムは土にまみれ、愛おしそうにかぼちゃの葉を撫でる。
かつては魔法で一瞬にして形を変えられた彼だが、今は太陽の光を浴び、自分の手でじっくりと実を育てる時間を何よりも愛していた。土を耕すその背中は、もはや伝説の魔物でも魔法の産物でもなく、ただの勤勉な農夫のそれだった。
一方、ねずみはといえば、仕込みを手伝った後はさっさと店を抜け出し、町の広場で日向ぼっこを決め込んでいた。
「……ケッ。働きすぎなんだよ、あのかぼちゃ野郎は」
ねずみは古いベンチに腰を下ろし、よれよれの帽子を目深に被る。
「ヒヒーンッ!」
顔を上げると、真っ白な毛並みが眩しい二頭の白馬がいた。かつての子ねずみたちだ。今は郵便配達の馬として、時には騎士の馬として、街を駆け回っている。
彼らはネ御者を困らせながらねずみに鼻先を寄せ、ポケットの「種の余り」を催促する。
「……たく、食い意地ばっかり張りやがって。ほらよ」
ねずみはぶっきらぼうに種をやり、遠ざかる彼らの背を見送る。
「おい、ねずみの旦那! 昨日のキッシュ、うちのガキが喜んで食ってたよ!」
通りがかった石工の親方が、太い声をかける。
「……ああ、そうかい。食いすぎて腹壊すんじゃねえぞ」
ぶっきらぼうに返すねずみだが、その口元はわずかに緩んでいた。
夕闇が迫り、城壁の陰が町を飲み込み始める頃。
町の街灯に火が灯るのと同時に、酒場『オーラム』の看板にも明かりが宿る。
夜の『オーラム』は、琥珀色のランプが灯る落ち着いた飲み屋へと姿を変える。
カウンターの奥では、着替えたオーラムが手際よくグラスを磨き、ねずみは少しだけシャキッとした足取りで客席を回る。
「……マスター、いつものを。冷えたエールと、あのかぼちゃの種を煎ったやつだ」
仕事帰りの衛兵や、一日の商いを終えた商人が、吸い寄せられるように扉を潜る。
夜の客たちは、朝の喧騒とは違う、しっとりとした「休息」を求めてやってくる。
店内に満ちるのは、煮込み料理の湯気と、酒を酌み交わす低い話し声。
かつての魔法の夜のような煌びやかさはないけれど、そこには確かに、この土地に根を張って生きる者たちの「熱」があった。




