第9話 神への反抗
人間は理不尽が嫌いだ。
理由が欲しい。
原因が欲しい。
納得したい。
だから事故には過失を探す。
病気には病名を探す。
失敗には理由を探す。
理由があれば受け入れられるからだ。
だが。
世の中には理由のない出来事がある。
少なくとも人間には理解できない出来事が。
森本明は、それを許せなかった。
◇
高校一年の冬。
明はまだリハビリを続けていた。
朝五時。
目覚ましが鳴る。
起きる。
洗顔する。
机に向かう。
右手を動かす。
毎日同じだった。
指を曲げる。
伸ばす。
握る。
開く。
百回。
二百回。
三百回。
終わる頃には額に汗が浮いている。
だが。
変化はない。
ほとんど。
何も。
それでも続ける。
やめる理由がなかった。
いや。
やめたくなかった。
◇
学校では優等生だった。
成績は上位。
教師からの評価も高い。
友人関係も悪くない。
客観的に見れば順調だった。
だが本人は違った。
全部が代用品だった。
本当に欲しかったものではない。
誰かに別の人生を渡された気分だった。
放課後。
教室で問題集を解いていると、友人の佐伯が言った。
「お前さ」
「ん?」
「なんでそんな勉強してるの?」
「なんでって」
「東大でも行くの?」
「行かない」
「じゃあ何」
明はペンを止めた。
考える。
答えは簡単だった。
「分からない」
「なんだそれ」
「本当に分からない」
佐伯は笑った。
明も笑った。
だが。
本当に分からなかった。
勉強している理由も。
頑張る理由も。
未来も。
全部。
◇
夜。
自室。
机の引き出しを開ける。
古い新聞記事が出てくる。
十歳のコンクール優勝。
写真付き。
笑っている自分。
見慣れた顔。
知らない顔。
両方だった。
明は記事を読み返す。
何度目か分からない。
「未来の巨匠」
その文字を見て笑った。
自嘲だった。
未来の巨匠。
未来の。
未来。
(未来ね)
呟く。
未来は来なかった。
少なくとも。
あの記事が約束していた未来は。
◇
その時だった。
スマートフォンが鳴った。
高柳だった。
『久しぶりね』
「お久しぶりです」
『元気?』
「まあ」
嘘だった。
高柳も気づいている。
だが追及しない。
優しさだった。
『最近どう?』
「変わらないです」
『手も?』
「変わらないです」
少し沈黙。
高柳が言った。
『明くん』
「はい」
『怒らないで聞いてね』
「またそれですか」
『大事だから』
笑う声。
少しだけ昔に戻った気がした。
『もし』
「はい」
『もし本当に治らなかったらどうする?』
またその質問だった。
明は窓の外を見る。
街灯が光っている。
静かな夜だった。
「分かりません」
『そう』
「でも」
『うん』
「治します」
即答だった。
『根拠は?』
「ないです」
『医者は?』
「分からないって言ってます」
『現状は?』
「最悪です」
『それでも?』
「それでも」
高柳は少し笑った。
優しい笑いだった。
『どうして?』
明は考える。
初めてだった。
なぜ諦めないのか。
言葉にしたことがなかった。
そして。
ようやく気づいた。
「腹が立つんです」
『何に?』
「全部です」
声が低くなる。
「病気にも」
「運命にも」
「神様にも」
高柳は黙って聞いていた。
「なんで俺なのか分からない」
「理由もない」
「説明もない」
「納得できない」
呼吸が少し荒くなる。
「だから」
『だから?』
「認めたくないんです」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて高柳が小さく言った。
『そう』
「はい」
『それでいいと思う』
意外な答えだった。
「いいんですか?」
『ええ』
「でも諦めろって言う人もいます」
『いるでしょうね』
「現実を見ろって」
『それも正しい』
「じゃあ」
『でもね』
高柳が言葉を重ねる。
『人間って、理屈だけで生きてないのよ』
明は黙った。
『諦められないなら、それも立派な理由』
電話が終わる頃。
明は少しだけ楽になっていた。
◇
同じ頃。
山畑裕英はゲームセンターにいた。
「終わった」
クレーンゲームを見て言う。
「絶対無理」
友人も頷く。
「無理だな」
景品は奥にある。
誰が見ても取れない。
だが。
一回目。
偶然引っかかった。
二回目。
偶然ずれた。
三回目。
落ちた。
友人が叫ぶ。
「なんでだよ!」
「知らん」
本当に知らない。
裕英も驚いている。
だが。
これが彼の人生だった。
理由のない幸運。
何度も。
何度も。
何度も。
◇
一方。
前田典子は生徒会室にいた。
後輩が相談している。
恋愛相談だった。
「どう思いますか?」
典子は少し考える。
本音なら簡単だった。
やめた方がいい。
相手は脈がない。
傷つくだけ。
だが。
そう言わない。
「一回話してみたら?」
後輩の顔が明るくなる。
「そうですよね!」
典子は微笑んだ。
また嘘だった。
優しい嘘。
残酷な嘘。
境界は曖昧だった。
◇
三人の人生は進んでいた。
それぞれ違う方向へ。
明は運命に反抗している。
裕英は運命に守られている。
典子は運命を利用している。
まだ出会わない。
だが。
少しずつ近づいていた。
見えない糸に引かれるように。
あるいは。
誰かが盤上の駒を並べるように。
静かに。
確実に。
【第10話 神への服従 へ続く】




