第8話 嘘
人は嘘を嫌う。
少なくとも建前では。
正直であれ。
誠実であれ。
本当のことを言え。
そう教わる。
だが現実は少し違う。
本当のことが人を傷つけることもある。
嘘が誰かを救うこともある。
前田典子は、そのことを早い段階で理解していた。
理解してしまった、と言った方が正しいかもしれない。
◇
高校一年の春。
典子は相変わらず忙しかった。
入学して一か月。
すでに学級委員になっている。
文化祭実行委員候補にも名前が挙がっている。
生徒会役員からも声を掛けられていた。
「前田さん、興味ない?」
「ないです」
「即答だね」
「面倒なので」
先輩は笑った。
「正直だなあ」
典子も笑う。
だが本心だった。
権力に興味はない。
名誉にも興味はない。
ただ断ると周囲が残念そうな顔をする。
その顔を見るのが少し苦手だった。
◇
放課後。
教室には数人しか残っていなかった。
典子は窓際の席で本を読んでいる。
すると女子生徒が近づいてきた。
同じクラスの川村だった。
「あの」
「ん?」
「相談していい?」
典子は本を閉じた。
「いいよ」
川村は少し迷っていた。
何度も言葉を飲み込む。
やがて小さな声で言った。
「私、嫌われてるかな」
典子は川村を見た。
理由は分かっていた。
川村は少し空気が読めない。
話が長い。
距離感も近い。
悪人ではない。
むしろ優しい。
ただ集団生活では損をするタイプだった。
典子は数秒考えた。
本当のことを言うか。
それとも。
「嫌われてないと思うよ」
そう答えた。
嘘だった。
正確には半分嘘。
半分本当。
嫌っている人もいる。
嫌っていない人もいる。
人間関係はそんな単純ではない。
「本当に?」
「うん」
「でも最近避けられてる気がして」
「気のせいじゃない?」
川村の顔が少し明るくなる。
典子はそれを見ていた。
そして思った。
(これでいい)
本当のことを言えば傷つく。
だが今の言葉なら救われる。
なら。
どちらが正しいのだろう。
◇
帰り道。
典子はそのことを考えていた。
夕暮れだった。
空が赤い。
風は少し暖かい。
歩きながら思う。
(嘘って悪いことかな)
教科書なら悪いと書くだろう。
先生もそう言う。
親もそうだ。
だが現実は違う。
人は毎日嘘をつく。
「大丈夫」
「気にしてない」
「また今度」
「頑張って」
どれも嘘になり得る。
そして。
その嘘によって社会は回っている。
もし全員が本音しか言わなかったら。
たぶん三日で崩壊する。
◇
その頃。
森本明は高校に入学していた。
第一志望だった。
成績も良かった。
周囲から見れば順調だった。
だが本人はそう思えない。
教室。
授業。
友人。
全てがどこか遠かった。
まるで借り物の人生みたいだった。
昼休み。
窓の外を見る。
グラウンドでは野球部が走っている。
吹奏楽部の音も聞こえる。
その中にピアノはない。
当たり前だった。
だが。
それが寂しかった。
◇
ある日。
音楽室の前を通った。
ピアノの音が聞こえる。
足が止まる。
自然だった。
呼吸みたいに。
ドアは少し開いていた。
中では女子生徒が弾いている。
上手かった。
少なくとも普通ではない。
明は分かる。
音で。
そのまま立ち去ろうとした。
だが。
音が追いかけてきた。
胸の奥まで。
記憶の奥まで。
気づけば右手を握っていた。
爪が食い込む。
痛かった。
だが指は動かない。
相変わらず。
何も変わらない。
明はその場を離れた。
逃げるように。
◇
一方。
山畑裕英は高校生活を満喫していた。
というより。
適当に生きていた。
部活にも入らない。
勉強もほどほど。
友人は多い。
彼女はいない。
特に不満もない。
そんな生活だった。
「お前って悩みなさそうだよな」
友人に言われた。
「あるぞ」
「例えば?」
「昼飯」
「それ悩みなのか」
「大事だろ」
笑いが起きる。
裕英も笑う。
本当に悩みがないわけではない。
ただ。
深刻にならないだけだった。
世界は思ったより何とかなる。
彼はそう信じていた。
そして実際、何とかなってきた。
◇
文化祭が近づいていた。
典子は実行委員になっていた。
結局断れなかった。
会議室には不満が溜まっている。
「予算が足りない」
「人も足りない」
「時間もない」
誰もが文句を言う。
典子は黙って聞いていた。
十分ほど。
全員が言い終わった頃。
口を開く。
「じゃあさ」
静かになる。
いつものことだった。
「やれることだけやろうよ」
「でも」
「全部は無理だよ」
誰も反論できない。
正論だからではない。
言い方だった。
責めない。
否定しない。
自然に受け入れられる。
典子自身にも理由は分からない。
ただ。
そうなる。
人が動く。
人が納得する。
人が従う。
それだけだった。
◇
夜。
帰宅した典子は鏡を見ていた。
昔からの癖だった。
自分を見る。
顔を見る。
表情を見る。
感情を見る。
そして思う。
(私は何が欲しいんだろう)
答えはなかった。
人から好かれる。
人から頼られる。
人から必要とされる。
それは手に入っている。
だが満たされない。
何かが足りない。
その正体は分からない。
◇
三人はまだ出会わない。
だが少しずつ。
確実に。
同じ場所へ向かっていた。
才能を失った少年。
幸運に愛された少年。
人を動かす少女。
それぞれ違う道を歩いている。
だが人生は時々。
無関係な道を一本に束ねる。
まるで最初から決まっていたみたいに。
静かに。
気づかれないように。
【第9話 神への反抗 へ続く】




