第10話 神への服従
人は運命に二度出会う。
一度目は、それを知らずに。
二度目は、それを知った後に。
そして多くの人間は、二度目の方が苦しい。
知らなければ戦えた。
知らなければ夢を見られた。
だが知ってしまう。
壁の高さを。
限界を。
届かない距離を。
山畑裕英は、まだその苦しみを知らなかった。
だからこそ、ある意味で最も自由だった。
◇
高校二年の春。
裕英は進路希望調査の紙を前に固まっていた。
教室には鉛筆の音が響いている。
皆、何かを書いている。
大学名。
専門学校。
就職先。
将来の夢。
それぞれの未来。
裕英だけが空白だった。
「何書いてんの?」
隣の席の友人が覗き込む。
「何も」
「見れば分かる」
「俺も分かんない」
友人は笑った。
「お前らしいな」
裕英も笑う。
確かにそうだった。
昔からそうだ。
行きたい場所より。
流れ着いた場所で生きてきた。
何となく進学。
何となく生活。
何となく毎日。
それで困ったことがなかった。
正確には。
困りそうになる前に運が助けてくれた。
◇
放課後。
担任に呼ばれた。
「山畑」
「はい」
「進路どうする?」
「考え中です」
「いつから?」
「去年くらいから」
担任が吹き出した。
「それ考えてないだろ」
「そうとも言います」
担任は苦笑する。
「大学は?」
「行けるなら」
「行きたい学部は?」
「特に」
「将来の夢は?」
「ありません」
担任は天井を見上げた。
教師人生で何度も見たタイプだった。
悪い生徒ではない。
むしろ良い。
真面目だ。
素直だ。
だが。
主体性がない。
「山畑」
「はい」
「人生ってな」
「はい」
「何とかなるだけじゃ駄目な時もあるぞ」
裕英は頷いた。
「そうですよね」
本当にそう思った。
だが。
心のどこかで別の声も聞こえる。
(でも何とかなってきたしな)
それも事実だった。
◇
裕英は帰り道、自転車を漕いでいた。
風が気持ちいい。
空は青い。
平和だった。
そして。
信号待ちで立ち止まる。
ふと前を見る。
宝くじ売り場があった。
何となく気になった。
別に理由はない。
本当に何となく。
財布を見る。
五百円玉が一枚。
入る。
「一枚ください」
店員が笑顔で渡してくる。
裕英はそのまま忘れた。
興味がないからだ。
◇
一か月後。
当たった。
三万円。
大金ではない。
人生は変わらない。
だが。
友人たちは騒いだ。
「またかよ!」
「なんでだよ!」
「お前だけ人生イージーモードだろ!」
裕英は困った。
「そんなことないって」
「ある!」
全員一致だった。
本人だけが納得していない。
◇
だが。
その夜。
珍しく考えた。
本当に運がいいのだろうか。
思い返す。
事故。
試験。
部活。
宝くじ。
確かに多い。
普通ではない気もする。
布団に寝転ぶ。
天井を見る。
(運がいいとして)
そこまではいい。
(だから何だ?)
そこから先が分からない。
運がいい。
それだけだ。
頭が良くなるわけじゃない。
夢が見つかるわけでもない。
努力しなくていい理由にもならない。
むしろ。
運だけの人間って、何なんだろう。
少しだけ。
初めて不安になった。
◇
一方。
森本明は高校二年になっていた。
成績は学年上位。
教師からの期待も高い。
模試の判定も良い。
だが。
右手は変わらない。
今日も。
明日も。
明後日も。
動かない。
それでもリハビリを続けている。
朝。
昼。
夜。
誰も見ていない場所で。
誰にも評価されない努力だった。
模試の点数なら褒められる。
リハビリは褒められない。
成果がないからだ。
だが明は続けた。
意地だった。
執念だった。
あるいは呪いだった。
◇
その頃。
前田典子は高校内で有名人になっていた。
生徒会長。
文化祭成功。
弁論大会優勝。
推薦候補。
教師からも信頼されている。
生徒からも人気がある。
だが。
本人はあまり嬉しくなかった。
放課後。
一人で図書室にいる。
本を閉じる。
静かだった。
こういう時間が好きだった。
誰にも期待されない時間。
誰にも何かを求められない時間。
その時。
ふと思った。
(私は何で評価されてるんだろう)
成績か。
顔か。
言葉か。
人望か。
どれも違う気がする。
全部かもしれない。
全部じゃないかもしれない。
ただ。
一つだけ分かる。
周囲が見ている自分と。
本当の自分は少し違う。
◇
三人はそれぞれ違う場所にいた。
明は戦っている。
裕英は流されている。
典子は操縦している。
だが。
本当にそうだろうか。
戦っているつもりで流されているかもしれない。
流されているつもりで導かれているかもしれない。
操縦しているつもりで操られているかもしれない。
人生とはそういうものだ。
全体図が見えない。
だから迷う。
だから苦しむ。
だから面白い。
◇
夜。
裕英は再び進路希望調査を開いた。
白紙。
相変わらずだった。
ペンを持つ。
しばらく考える。
そして。
初めて書いた。
大学進学。
学部は未定。
理由も未定。
将来も未定。
それでも。
一歩だった。
自分で決めた。
たぶん初めて。
大したことではない。
だが人生は案外そういうもので動く。
劇的な決断ではなく。
小さな選択で。
気づかないうちに方向が変わる。
まるで。
誰かが盤上の駒を一マスだけ動かすみたいに。
静かに。
確実に。
そして。
三人の道は少しずつ交差へ向かい始めていた。
【第三章 選択 第11話 再会 へ続く】




