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神のサイコロ Another  作者: Kiyo
第一幕

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6/20

第6話 失われた未来

 努力は報われる。


 世の中にはそういう言葉がある。


 間違いではない。


 実際に報われることもある。


 だが。


 報われなかった人間は、その言葉をどう受け止めればいいのだろう。


 森本明は、その答えを探していた。


     ◇


 中学三年になった。


 右手は相変わらずだった。


 動かない。


 正確には少し動く。


 だがピアノを弾けるほどではない。


 医師の診断も変わらない。


 原因不明。


 経過観察。


 改善傾向なし。


 それだけだった。


 明は諦めなかった。


 学校から帰る。


 机に鞄を置く。


 ストレッチを始める。


 指を一本ずつ曲げる。


 伸ばす。


 握る。


 開く。


 繰り返す。


 毎日。


 毎日。


 毎日。


 変化はない。


 それでも続ける。


 やめた瞬間、本当に終わる気がしたからだ。


     ◇


「まだやってるの?」


 父が言った。


 夕食後だった。


 明は右手をマッサージしている。


「うん」


「少し休めばいいのに」


「休んでも変わらない」


 父は何か言いかけた。


 だが言葉を飲み込む。


 何を言えばいいか分からない。


 励ましも。


 慰めも。


 全部が薄っぺらく感じる。


 本人が一番分かっているからだ。


「そうか」


 結局それしか言えなかった。


     ◇


 母も辛かった。


 夜中に泣いていることを、明は知っていた。


 知らないふりをしていただけだ。


 トイレへ行く途中。


 リビングから声が聞こえる。


「なんで明なの……」


 小さな声。


 父は何も答えない。


 答えられない。


 世の中には理由のある不幸もある。


 だが理由のない不幸もある。


 むしろそちらの方が多い。


 明は部屋へ戻る。


 そして布団を被る。


 聞かなかったことにした。


 母を傷つけたくなかった。


 自分も傷つきたくなかった。


     ◇


 高校受験が近づく。


 進路相談が始まる。


 かつてなら音楽高校だった。


 誰も疑わなかった。


 教師も。


 両親も。


 高柳も。


 明自身も。


 だが今は違う。


「普通科でいいと思います」


 担任が言った。


 明は黙っていた。


 普通科。


 何でもない言葉だった。


 だが胸に刺さった。


 普通。


 その言葉が。


 ずっと遠くにあったはずのものが、突然目の前に現れた気がした。


「森本?」


「はい」


「どうした?」


「いえ」


 何でもない。


 そう答えた。


 だが本当は違った。


(普通になるのか)


 その言葉が頭から離れなかった。


     ◇


 帰宅後。


 久しぶりにピアノの前へ座った。


 埃はない。


 母が掃除しているからだ。


 だが音はない。


 長い間。


 ない。


 明は左手だけで鍵盤を押した。


 低い音が鳴る。


 もう一度。


 また鳴る。


 それだけだった。


 曲にならない。


 旋律にならない。


 断片だけ。


 まるで自分の人生みたいだった。


 途中で切れている。


 続きがない。


 未完成。


 そんな音だった。


     ◇


 その時。


 ふと昔のことを思い出した。


 十歳のコンクール。


 拍手。


 照明。


 母の涙。


 高柳の笑顔。


 全部覚えている。


 鮮明に。


 忘れたことなど一度もない。


 だから苦しい。


 最初から持っていなければよかった。


 そう思うこともある。


 だが本心ではない。


 本当に欲しかったのは。


 失わない未来だった。


     ◇


 数日後。


 高柳から電話があった。


『久しぶりね』


「お久しぶりです」


『元気?』


「普通です」


『その返事、元気じゃない時のやつね』


 明は苦笑した。


 見透かされている。


『少し話せる?』


「はい」


 高柳はしばらく黙った。


 何か考えているらしい。


 そして言った。


『怒らないで聞いてね』


「はい」


『もし一生治らなかったら、どうする?』


 明は黙った。


 その質問だけは嫌だった。


 考えたくない。


 聞きたくない。


 だが。


 現実だった。


「分かりません」


『そうよね』


「でも」


 明は続けた。


「治るかもしれないです」


『うん』


「まだ終わってないです」


『うん』


「だから諦めません」


 高柳は少し笑った。


 電話越しでも分かる。


『明くんらしいわ』


「そうですか?」


『ええ』


 そして静かに言った。


『でもね』


「はい」


『諦めないことと、壊れることは違うからね』


 その意味は、その時は分からなかった。


     ◇


 一方。


 山畑裕英は高校受験当日を迎えていた。


 緊張していた。


 珍しく。


(終わったかもしれん)


 問題を見る。


 難しい。


 さらに焦る。


 終わった。


 本気でそう思った。


 だが。


 結果は合格だった。


 しかも想定より上位。


「なんで?」


 本人が一番驚いた。


 採点ミスではない。


 偶然、得意分野が多かった。


 偶然、苦手分野が少なかった。


 偶然、倍率も下がった。


 偶然。


 偶然。


 偶然。


 人生は裕英に優しかった。


     ◇


 一方。


 前田典子は高校で生徒会長になっていた。


 立候補していない。


 推薦だった。


 断った。


 二回断った。


 三回目で諦めた。


「前田ならできる」


 皆そう言う。


 典子は思う。


(なんでだろう)


 本当に分からない。


 だが。


 分からなくても結果は変わらない。


 人は彼女に期待する。


 頼る。


 従う。


 それが少しずつ当たり前になっていた。


     ◇


 三人はまだ出会わない。


 それぞれ別の場所で人生を進んでいる。


 だが。


 少しずつ差が生まれていた。


 明は努力している。


 結果は出ない。


 裕英は努力していない。


 結果が出る。


 典子は努力とも才能とも違う何かで前へ進む。


 世界は平等ではなかった。


 誰もが知っている。


 だが。


 認めたくないだけだ。


     ◇


 夜。


 明は机に向かっていた。


 参考書を開く。


 普通の高校生になるために。


 普通の大学へ行くために。


 普通の人生を歩くために。


 その言葉が嫌だった。


 普通。


 かつて自分には関係ないと思っていた言葉。


 今はそこへ向かっている。


 努力して。


 必死になって。


 それでも。


 心のどこかで思っていた。


(俺はまだ終わってない)


 その気持ちだけは消えない。


 むしろ強くなっていた。


 失った人間ほど執着する。


 持っていた頃よりも。


 ずっと。


 だから明は今日も右手を動かそうとする。


 結果は変わらない。


 それでも続ける。


 まるで見えない誰かに挑戦するみたいに。


 勝てるかどうかも分からないまま。


【第7話 勝者 へ続く】

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