第6話 失われた未来
努力は報われる。
世の中にはそういう言葉がある。
間違いではない。
実際に報われることもある。
だが。
報われなかった人間は、その言葉をどう受け止めればいいのだろう。
森本明は、その答えを探していた。
◇
中学三年になった。
右手は相変わらずだった。
動かない。
正確には少し動く。
だがピアノを弾けるほどではない。
医師の診断も変わらない。
原因不明。
経過観察。
改善傾向なし。
それだけだった。
明は諦めなかった。
学校から帰る。
机に鞄を置く。
ストレッチを始める。
指を一本ずつ曲げる。
伸ばす。
握る。
開く。
繰り返す。
毎日。
毎日。
毎日。
変化はない。
それでも続ける。
やめた瞬間、本当に終わる気がしたからだ。
◇
「まだやってるの?」
父が言った。
夕食後だった。
明は右手をマッサージしている。
「うん」
「少し休めばいいのに」
「休んでも変わらない」
父は何か言いかけた。
だが言葉を飲み込む。
何を言えばいいか分からない。
励ましも。
慰めも。
全部が薄っぺらく感じる。
本人が一番分かっているからだ。
「そうか」
結局それしか言えなかった。
◇
母も辛かった。
夜中に泣いていることを、明は知っていた。
知らないふりをしていただけだ。
トイレへ行く途中。
リビングから声が聞こえる。
「なんで明なの……」
小さな声。
父は何も答えない。
答えられない。
世の中には理由のある不幸もある。
だが理由のない不幸もある。
むしろそちらの方が多い。
明は部屋へ戻る。
そして布団を被る。
聞かなかったことにした。
母を傷つけたくなかった。
自分も傷つきたくなかった。
◇
高校受験が近づく。
進路相談が始まる。
かつてなら音楽高校だった。
誰も疑わなかった。
教師も。
両親も。
高柳も。
明自身も。
だが今は違う。
「普通科でいいと思います」
担任が言った。
明は黙っていた。
普通科。
何でもない言葉だった。
だが胸に刺さった。
普通。
その言葉が。
ずっと遠くにあったはずのものが、突然目の前に現れた気がした。
「森本?」
「はい」
「どうした?」
「いえ」
何でもない。
そう答えた。
だが本当は違った。
(普通になるのか)
その言葉が頭から離れなかった。
◇
帰宅後。
久しぶりにピアノの前へ座った。
埃はない。
母が掃除しているからだ。
だが音はない。
長い間。
ない。
明は左手だけで鍵盤を押した。
低い音が鳴る。
もう一度。
また鳴る。
それだけだった。
曲にならない。
旋律にならない。
断片だけ。
まるで自分の人生みたいだった。
途中で切れている。
続きがない。
未完成。
そんな音だった。
◇
その時。
ふと昔のことを思い出した。
十歳のコンクール。
拍手。
照明。
母の涙。
高柳の笑顔。
全部覚えている。
鮮明に。
忘れたことなど一度もない。
だから苦しい。
最初から持っていなければよかった。
そう思うこともある。
だが本心ではない。
本当に欲しかったのは。
失わない未来だった。
◇
数日後。
高柳から電話があった。
『久しぶりね』
「お久しぶりです」
『元気?』
「普通です」
『その返事、元気じゃない時のやつね』
明は苦笑した。
見透かされている。
『少し話せる?』
「はい」
高柳はしばらく黙った。
何か考えているらしい。
そして言った。
『怒らないで聞いてね』
「はい」
『もし一生治らなかったら、どうする?』
明は黙った。
その質問だけは嫌だった。
考えたくない。
聞きたくない。
だが。
現実だった。
「分かりません」
『そうよね』
「でも」
明は続けた。
「治るかもしれないです」
『うん』
「まだ終わってないです」
『うん』
「だから諦めません」
高柳は少し笑った。
電話越しでも分かる。
『明くんらしいわ』
「そうですか?」
『ええ』
そして静かに言った。
『でもね』
「はい」
『諦めないことと、壊れることは違うからね』
その意味は、その時は分からなかった。
◇
一方。
山畑裕英は高校受験当日を迎えていた。
緊張していた。
珍しく。
(終わったかもしれん)
問題を見る。
難しい。
さらに焦る。
終わった。
本気でそう思った。
だが。
結果は合格だった。
しかも想定より上位。
「なんで?」
本人が一番驚いた。
採点ミスではない。
偶然、得意分野が多かった。
偶然、苦手分野が少なかった。
偶然、倍率も下がった。
偶然。
偶然。
偶然。
人生は裕英に優しかった。
◇
一方。
前田典子は高校で生徒会長になっていた。
立候補していない。
推薦だった。
断った。
二回断った。
三回目で諦めた。
「前田ならできる」
皆そう言う。
典子は思う。
(なんでだろう)
本当に分からない。
だが。
分からなくても結果は変わらない。
人は彼女に期待する。
頼る。
従う。
それが少しずつ当たり前になっていた。
◇
三人はまだ出会わない。
それぞれ別の場所で人生を進んでいる。
だが。
少しずつ差が生まれていた。
明は努力している。
結果は出ない。
裕英は努力していない。
結果が出る。
典子は努力とも才能とも違う何かで前へ進む。
世界は平等ではなかった。
誰もが知っている。
だが。
認めたくないだけだ。
◇
夜。
明は机に向かっていた。
参考書を開く。
普通の高校生になるために。
普通の大学へ行くために。
普通の人生を歩くために。
その言葉が嫌だった。
普通。
かつて自分には関係ないと思っていた言葉。
今はそこへ向かっている。
努力して。
必死になって。
それでも。
心のどこかで思っていた。
(俺はまだ終わってない)
その気持ちだけは消えない。
むしろ強くなっていた。
失った人間ほど執着する。
持っていた頃よりも。
ずっと。
だから明は今日も右手を動かそうとする。
結果は変わらない。
それでも続ける。
まるで見えない誰かに挑戦するみたいに。
勝てるかどうかも分からないまま。
【第7話 勝者 へ続く】




