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神のサイコロ Another  作者: Kiyo
第一幕

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5/19

第5話 最初の目

 人生には境界線がある。


 本人は気づかない。


 昨日と今日の違いも分からない。


 朝起きて顔を洗い、朝食を食べ、学校へ行く。


 いつも通りの一日。


 だが後になって振り返ると、その日を境に全てが変わっている。


 川の流れが少しずつ向きを変えるように。


 誰にも聞こえない場所で運命が舵を切る。


 森本明にとって、その日が訪れていた。


     ◇


 病院の待合室は静かだった。


 正確には静かではない。


 受付の声が聞こえる。


 テレビもついている。


 誰かが咳をしている。


 だが明には遠かった。


 まるで分厚いガラスの向こう側の音みたいだった。


 右手を見つめる。


 指は動かない。


 十二歳の少年にとって、それは異常だった。


 怪我なら分かる。


 骨折なら分かる。


 だが何もない。


 見た目は普通。


 痛みもない。


 それなのに動かない。


 意味が分からなかった。


「森本さん」


 名前を呼ばれる。


 診察室に入る。


 父と母も続いた。


 医師はカルテを見ながら話し始めた。


「MRIに異常はありません」


 明は黙っていた。


「神経の伝達にも大きな問題は見られません」


 父が聞く。


「つまり?」


「現時点では原因不明です」


 その言葉は何度目だっただろう。


 原因不明。


 異常なし。


 経過観察。


 医師によって言い方は違う。


 だが意味は同じだった。


 分からない。


 それだけだ。


「治るんですか?」


 明が初めて口を開いた。


 医師は一瞬だけ視線を逸らした。


「可能性はあります」


 可能性。


 便利な言葉だった。


 希望にもなる。


 逃げ道にもなる。


 明は理解していた。


 それが「分からない」の言い換えだということを。


     ◇


 帰り道。


 車の中は静かだった。


 母は窓の外を見ていた。


 父はハンドルを握っている。


 明は後部座席で右手を見つめていた。


 信号待ち。


 赤。


 青。


 車が動く。


 何も変わらない。


 世界は昨日と同じ顔をしている。


 それが腹立たしかった。


(なんでだよ)


 心の中で呟く。


(なんで俺なんだよ)


 初めてだった。


 怒りが湧いたのは。


 これまでは混乱だった。


 不安だった。


 だが今は違う。


 怒りだった。


 理由もなく奪われた。


 それが許せなかった。


     ◇


 家に帰る。


 リビングにピアノがある。


 黒く光る。


 何も知らない顔で。


 明は近づいた。


 椅子に座る。


 左手で鍵盤を押した。


 音が鳴る。


 右手を置く。


 動かない。


 もう一度。


 動かない。


 さらにもう一度。


 動かない。


「明……」


 母の声が聞こえた。


 だが止まらなかった。


 何度も。


 何度も。


 何度も。


 指を動かそうとする。


 動かない。


 音は鳴らない。


 左手だけが空しく響く。


 やがて明は立ち上がった。


 何も言わず自室へ向かう。


 ドアを閉める。


 ベッドに座る。


 右手を見る。


 そして。


 初めて泣いた。


     ◇


 才能とは何だろう。


 努力だろうか。


 環境だろうか。


 遺伝だろうか。


 答えは分からない。


 ただ一つ言えることは。


 失った人間だけが、その重さを知るということだった。


     ◇


 一週間後。


 高柳真知子が家を訪れた。


 久しぶりだった。


 明は会いたくなかった。


 だが断れなかった。


「元気?」


 高柳が聞く。


「普通です」


 嘘だった。


 高柳も分かっている。


「指は?」


「変わりません」


「そう」


 沈黙。


 気まずい空気。


 窓の外では蝉が鳴いていた。


 高柳が口を開く。


「明くん」


「はい」


「ピアノが弾けなくなったら、明くんじゃなくなる?」


 明は眉をひそめた。


「どういう意味ですか」


「そのままの意味」


 明は答えなかった。


 考える。


 そして。


「分かりません」


 本音だった。


 ピアノのない自分を想像できない。


 これまでの人生そのものだった。


 呼吸だった。


 当たり前だった。


 失う前は。


「先生はね」


 高柳が言う。


「弾けなくなっても、あなたはあなただと思う」


 明は笑った。


 少しだけ。


 皮肉っぽく。


「先生だからそう言うんですよ」


「そうかも」


 高柳も笑った。


 だがその目は少し赤かった。


     ◇


 同じ頃。


 山畑裕英は高校受験の模試を受けていた。


 結果は普通だった。


 むしろ少し悪い。


「終わった」


 本人は言う。


「無理だ」


 だがなぜか志望校の倍率が下がる。


 問題との相性も良かった。


 先生の予想問題も当たる。


 裕英はまだ知らない。


 人生最大級の幸運が近づいていることを。


     ◇


 一方。


 前田典子は生徒会選挙に出馬していた。


 本人は乗り気ではない。


 だが推薦された。


 断り切れなかった。


 演説の日。


 壇上に立つ。


 緊張はなかった。


 むしろ不思議だった。


 なぜ皆がこちらを見るのか。


 なぜ皆が耳を傾けるのか。


 典子自身にも分からない。


 ただ。


 言葉を発すると。


 人は聞いてくれる。


 それだけだった。


     ◇


 三人はまだ知らない。


 自分が何者になるのか。


 何を失うのか。


 何を手に入れるのか。


 未来は見えない。


 だから人は歩ける。


 もし全てを知っていたら。


 誰も前に進めなくなる。


     ◇


 その夜。


 明は眠れなかった。


 ベッドの中で天井を見る。


 静かな部屋。


 時計の音だけが聞こえる。


 右手を持ち上げる。


 指は動かない。


 相変わらずだ。


 何も変わらない。


 その時だった。


 ふと。


 ある考えが浮かんだ。


(治す)


 短い言葉だった。


 だが強かった。


(絶対に治す)


 理由はなかった。


 根拠もなかった。


 医師は分からないと言った。


 未来も見えない。


 それでも。


 諦めるという選択肢だけは許せなかった。


 もし人生が理不尽なら。


 もし運命があるなら。


 もし誰かが勝手に決めているのなら。


 なおさらだった。


 従いたくなかった。


 明は目を閉じる。


 そして心の中で繰り返した。


(治す)


(治す)


(治す)


 それは願いだった。


 祈りだった。


 そして。


 長い戦いの始まりだった。


 まだ明は知らない。


 努力と運命のどちらが強いのかを。


 いや。


 知ることになる。


 嫌というほど。


【第二章 不公平 第6話 失われた未来 へ続く】

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