第5話 最初の目
人生には境界線がある。
本人は気づかない。
昨日と今日の違いも分からない。
朝起きて顔を洗い、朝食を食べ、学校へ行く。
いつも通りの一日。
だが後になって振り返ると、その日を境に全てが変わっている。
川の流れが少しずつ向きを変えるように。
誰にも聞こえない場所で運命が舵を切る。
森本明にとって、その日が訪れていた。
◇
病院の待合室は静かだった。
正確には静かではない。
受付の声が聞こえる。
テレビもついている。
誰かが咳をしている。
だが明には遠かった。
まるで分厚いガラスの向こう側の音みたいだった。
右手を見つめる。
指は動かない。
十二歳の少年にとって、それは異常だった。
怪我なら分かる。
骨折なら分かる。
だが何もない。
見た目は普通。
痛みもない。
それなのに動かない。
意味が分からなかった。
「森本さん」
名前を呼ばれる。
診察室に入る。
父と母も続いた。
医師はカルテを見ながら話し始めた。
「MRIに異常はありません」
明は黙っていた。
「神経の伝達にも大きな問題は見られません」
父が聞く。
「つまり?」
「現時点では原因不明です」
その言葉は何度目だっただろう。
原因不明。
異常なし。
経過観察。
医師によって言い方は違う。
だが意味は同じだった。
分からない。
それだけだ。
「治るんですか?」
明が初めて口を開いた。
医師は一瞬だけ視線を逸らした。
「可能性はあります」
可能性。
便利な言葉だった。
希望にもなる。
逃げ道にもなる。
明は理解していた。
それが「分からない」の言い換えだということを。
◇
帰り道。
車の中は静かだった。
母は窓の外を見ていた。
父はハンドルを握っている。
明は後部座席で右手を見つめていた。
信号待ち。
赤。
青。
車が動く。
何も変わらない。
世界は昨日と同じ顔をしている。
それが腹立たしかった。
(なんでだよ)
心の中で呟く。
(なんで俺なんだよ)
初めてだった。
怒りが湧いたのは。
これまでは混乱だった。
不安だった。
だが今は違う。
怒りだった。
理由もなく奪われた。
それが許せなかった。
◇
家に帰る。
リビングにピアノがある。
黒く光る。
何も知らない顔で。
明は近づいた。
椅子に座る。
左手で鍵盤を押した。
音が鳴る。
右手を置く。
動かない。
もう一度。
動かない。
さらにもう一度。
動かない。
「明……」
母の声が聞こえた。
だが止まらなかった。
何度も。
何度も。
何度も。
指を動かそうとする。
動かない。
音は鳴らない。
左手だけが空しく響く。
やがて明は立ち上がった。
何も言わず自室へ向かう。
ドアを閉める。
ベッドに座る。
右手を見る。
そして。
初めて泣いた。
◇
才能とは何だろう。
努力だろうか。
環境だろうか。
遺伝だろうか。
答えは分からない。
ただ一つ言えることは。
失った人間だけが、その重さを知るということだった。
◇
一週間後。
高柳真知子が家を訪れた。
久しぶりだった。
明は会いたくなかった。
だが断れなかった。
「元気?」
高柳が聞く。
「普通です」
嘘だった。
高柳も分かっている。
「指は?」
「変わりません」
「そう」
沈黙。
気まずい空気。
窓の外では蝉が鳴いていた。
高柳が口を開く。
「明くん」
「はい」
「ピアノが弾けなくなったら、明くんじゃなくなる?」
明は眉をひそめた。
「どういう意味ですか」
「そのままの意味」
明は答えなかった。
考える。
そして。
「分かりません」
本音だった。
ピアノのない自分を想像できない。
これまでの人生そのものだった。
呼吸だった。
当たり前だった。
失う前は。
「先生はね」
高柳が言う。
「弾けなくなっても、あなたはあなただと思う」
明は笑った。
少しだけ。
皮肉っぽく。
「先生だからそう言うんですよ」
「そうかも」
高柳も笑った。
だがその目は少し赤かった。
◇
同じ頃。
山畑裕英は高校受験の模試を受けていた。
結果は普通だった。
むしろ少し悪い。
「終わった」
本人は言う。
「無理だ」
だがなぜか志望校の倍率が下がる。
問題との相性も良かった。
先生の予想問題も当たる。
裕英はまだ知らない。
人生最大級の幸運が近づいていることを。
◇
一方。
前田典子は生徒会選挙に出馬していた。
本人は乗り気ではない。
だが推薦された。
断り切れなかった。
演説の日。
壇上に立つ。
緊張はなかった。
むしろ不思議だった。
なぜ皆がこちらを見るのか。
なぜ皆が耳を傾けるのか。
典子自身にも分からない。
ただ。
言葉を発すると。
人は聞いてくれる。
それだけだった。
◇
三人はまだ知らない。
自分が何者になるのか。
何を失うのか。
何を手に入れるのか。
未来は見えない。
だから人は歩ける。
もし全てを知っていたら。
誰も前に進めなくなる。
◇
その夜。
明は眠れなかった。
ベッドの中で天井を見る。
静かな部屋。
時計の音だけが聞こえる。
右手を持ち上げる。
指は動かない。
相変わらずだ。
何も変わらない。
その時だった。
ふと。
ある考えが浮かんだ。
(治す)
短い言葉だった。
だが強かった。
(絶対に治す)
理由はなかった。
根拠もなかった。
医師は分からないと言った。
未来も見えない。
それでも。
諦めるという選択肢だけは許せなかった。
もし人生が理不尽なら。
もし運命があるなら。
もし誰かが勝手に決めているのなら。
なおさらだった。
従いたくなかった。
明は目を閉じる。
そして心の中で繰り返した。
(治す)
(治す)
(治す)
それは願いだった。
祈りだった。
そして。
長い戦いの始まりだった。
まだ明は知らない。
努力と運命のどちらが強いのかを。
いや。
知ることになる。
嫌というほど。
【第二章 不公平 第6話 失われた未来 へ続く】




